2015年07月19日

安保法制


安全保障(略して安保)の法案が、国会で取り扱われています。
これについて、少し考察してみます。

「違憲」は、過去に何度も話されているのを聞きました。どうやら、これは憲法学者のプロパガンダのようです。日本だけでしょう。無策な憲法学者が数千人も存在できるのは。円猿の知っている幾つかの外国に、そんなに大量に憲法学者はいないです。

憲法とは、その国の国民が理解し、内容について見解の一致を得ることができる基本法である必要があるでしょう。国民が、自分たちの伝統を確認しながら、同時代の問題を議論し、さらには長期的な視野で未来の国民に継承することも視野にいれながら、代議制を通て、内容を適切にアップデートする仕組みが機能していれば、憲法学者などというテクニカルな労働者は少ししか必要ないのです。

安全保障について「違憲」を主張する人々、自衛隊について「違憲」を主張してきた人々は、あたかも現行の日本国憲法=日本という国民国家であるかのような不当な見立てをしていますが、この認識の押しつけは、もうやめるべきでしょう。くだらなすぎる。国民主権者が先で、国民国家が先です。憲法は、それに合わせて変更すべきものです。くだらない解釈の議論で専門家を増やす必要はありません。憲法の原点は、あくまでも、その国の国民が理解し、内容について見解の一致を得ることができる基本法です。憲法を国家と全く同一人格であるかのように異常な見立てをする憲法学者の詭弁が、今までどれだけ有害だったか、それははかり知れないでしょう。

「徴兵制」も無意味なプロパガンダです。
これは、平成二十七(2015)年の問題として全く議論されていないのです。そもそも、これが制度なのか? 制度ではないのか? という批判的な吟味が全然ない。それなのに「徴兵制」などという「制」つきの語がもちいられています。やめたほうがいいでしょう。 もし、制度として「徴兵制」について考えるのなら、さまざまな事柄を視野に入れる必要があります。いつ、どのようなケースで、どの国を敵として、どれくらいの規模で、どれくらいの期間たたかう戦争が起きた時に、どの程度の数の人員が足りなくなるのか。何歳から何歳の、どの性別の、どのような属性の国民を、どういう条件で徴用するのか、どのような訓練をして戦場で活動させるのか等々。制度として「徴兵制」を言葉に出すのならば、国会において、具体的にそういうことまで議論すべき対象ですが、何も議論の材料が提供されていない。つまり、完全に無意味なプロパガンダにすぎないのです。

自衛隊の基本機能が、大きく分けて3つあるでしょう。

(1) 国民と国土をまもる 
(2) 地震や甚大な災害・事故にともなう国内の災害復旧対応 
(3) 海外の平和維持活動、外国の災害復旧支援

実は、(1)がもっとも重要にもかかわらず、ここ20年ほどの期間を見るならば、(2)(3)の法制化が先行していたという事情があります。

あまり古い事例はとりあげずに、1992年の湾岸戦争の頃から行きましょう。湾岸戦争のときに、カネだけの支援しかできないし、国際貢献を全然評価されないということが問題になりました。それで、(3)がPKO法案として法制化されました。社会党は、このときも憲法で自衛隊は軍隊ではないから駄目だなどと主張していましたが、「軍隊」の一員であることを証明できなければ、紛争地へ平和維持活動で派遣されても、その辺のテロリストと同様にみなされ、どんな残虐な殺され方や拷問を受けても何も文句は言えなくなる。軍隊であることは、平和維持活動上、最低要件です。 それで、(3)が軍隊としての自衛隊の機能として法制化されたといえます。

(2)は、1995年の阪神淡路大震災の後で自衛隊の運用が法制化され、それが、2011.3.11の東日本大震災でも有効に機能しました。1995年の阪神淡路の時点では、天災が起きた場合の自衛隊の活動が異常に制限され、二次災害も含めて、多数の国民が犠牲になっています。無念というほかありません。ただし、阪神淡路大震災の後、災害復旧対応のために、合理的に自衛隊を運用することが法制化されました。(2)が軍隊としての自衛隊の機能として法制化されたといえます。

(1)が、いま問題になっています。国民と国土を守る軍隊として自衛隊を認知するということであり、国民と国土の守りを自衛隊の機能として法制化する作業です。

ここ数十年で、日本に居る国民だけでなく、海外へ仕事や留学に出ている多くの国民を守るということが問題になっています。 主権国家だけでなく、紛争地などに、短期滞在・長期滞在する日本国民もふえています。また、一昨年前には、アルジェリアの天然ガスプラントで日揮の社員の方々がテロの犠牲になりましたが、あれも今回の法案の議論の前提になっています。

拉致された日本国民の救済も重要なテーマです。数百人が北朝鮮に拉致されている。主権者である国民が、生命と自由を脅かされている事件です。それも、多数の事件です。 本来ならば、GHQに解体され公職追放に処せられた沿岸警備隊を、主権回復後に完全復活させ、憲法も改正して、警察と沿岸警備隊と自衛隊の完全連携を実現していれば、朝鮮総連の土台人と連絡を取りながら事前に計画を立て、佐渡の周辺から工作船でやってくる北朝鮮による拉致をブロックすることは不可能ではなかったでしょう。

不当に主権を完全に侵害されつづけているこの拉致された日本国民は、北朝鮮と南朝鮮が戦争をしたらどうなるでしょうか。仮に、北朝鮮がいきなりはじまった戦争にシナの支援等で勝利したら、さらにひどいことが起きるでしょう。現在南朝鮮にいるさらに大量の日本国民が拉致されることは確実ではないかと思いいます。もしも逆に、南朝鮮が勝ったらどうなるでしょうか。南朝鮮の反日政府のやることから想定されるのは、これまで北朝鮮に拉致されていた日本国民を、秘密裏にその後もそのまま拉致しつづけるということです。 「朝鮮半島有事」という言葉が用いられますが、こういう語をただ口にするだけでなく、有事の内容を具体的に想定して、有事の際にアメリカ等の軍隊や政府と連携して、場合によっては、自衛隊をかなりの規模で派遣し、主権者国民を救出する作戦をするポイントまでを想定しなければならないのです。

憲法改正をとにかくやるべきであり、憲法改正をやった後に、安保法制を通すべきだと主張する人が多いのも円猿は知っています。そういう人々は、憲法改正を実現可能なプロセスとして真剣に考えているのでしょうか。過去数十年の間、なぜ憲法改正ができなかったのか、根本的な理由を考えてみたことがあるのでしょうか。自衛隊の基本機能の3つについて上に説明しましたが、日本の法改正は、常に、後手後手に回っているのです。(2)でも(3)でも後手に回りました。 (1)国民と国土を守る という基本機能においても、後手に回るべきなのでしょうか? 阪神淡路の大震災のような大きな災害が起きた後に、災害復旧の機能が法制化されるように、 この21世紀に日本の国民が大量に殺害され、日本の国土が多くの犠牲のもとに失われた後に、国民と国土を守るという基本機能が法制化されるべきでしょうか? そうは思われません。 

ヘイワケンポーなどという馬鹿げた言葉で、現行憲法を呼称している間に、日本の周辺諸国は日本を仮想敵として徹底武装していますね。 もし仮に、日本の憲法の精神を理解し、日本の周辺諸国が、「日本に対してだけは仮想敵とせずに核も向けない」という態度を一貫して取った過去があったなら、話は別でしょう。そんなことは、1970年代から2015年まで50年近くにわたって、たったの一度もありませんでした。シナは大量の核ミサイルを日本に向けて通化というところに配備しています。北朝鮮も随分前に核開発に成功し、100発以上の核ミサイルを持っているといわれています。当然日本を射程内にする要件で開発しています。

すみやかに安保法制を法制化し、その後に憲法改正を実現する必要があるでしょう。
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2015年02月11日

平成二十七年(2015)紀元節に皇室を考える


2月11日は、紀元節です。神武暦ということばもあるくらいですが、日本独自のものです。ただし、この日の設定をめぐっては、旧暦から新暦への移行にともなう問題がいくつかありました。最終的に、明治政府が神武天皇即位の日を新暦(太陽暦)の2月11日に設定したという経緯があります。あくまで明治政府によって制度化されたものです。

今回は、皇室についてかたります。幾つかの論点にしたがってかたりたいと思います。最初に、明治の「立憲君主制」の実態についてかたりましょう。その後に、近代政府と皇室の関係についてかたりましょう。最後に、皇室のあり方についてかたります。

まず、明治の立憲君主制からいきましょうか。円猿が見るところ、多くの日本の保守を自任する方々もそうですが、「保守」という価値表明をする場合に、回帰点を、明治期のレジームや大日本帝国憲法に設定することが非常に多いように思います。したがって、彼らは明治期の天皇を頂点とした「立憲君主制」を、非常に肯定的な価値として、日本の政治体制(レジーム)が回帰可能なポイントとしてさだめるのです。円猿は、この考え方には、大きな疑問を持っています。 立憲君主制がわるいというわけではなく、この立憲君主制というのも、明治期の国際社会で、ある種の「デファクトスタンダード」と解釈されていたシステムでしかないからです。多くの現代の日本国民だけでなく、多くの世界の他の地域に住む諸国民にとって、立憲君主制を回帰すべき価値として設定することは、何か時代遅れなもの、アナクロニズムに見えても仕方ないでしょう。円猿は、天皇陛下=立憲君主制とはとらえていません。それを説明しましょう。天皇陛下は、日本独自の政治の二重構造における「権威」という存在であり、また政治的な価値を離れても、日本の千年以上の伝統および習慣上の原点だと考えています。

日本は、少なくとも鎌倉時代以降、権威=天皇と、権力=幕府体制(江戸時代は幕藩体制) がすみわけているのです。これを政治における二重構造と見ることができます。権威と権力がすみわけてきました。明治期に、幕藩体制がたおれましたが、薩長を中心とした人々が、幕藩体制の「権力」を継承して、新たに「明治政府」をつくりましたね。この明治政府という「権力」が、無理無理、もともと権威として存在した天皇をくっつけたと見るのが妥当だと思います。薩長の人々を中心とした明治維新関係者は、同時代の「デファクトスタンダード」と理解されていた「立憲君主制」という国際的な標準モデルに、日本のシステムを合わせようとしたのです。これは、日本のレジームを、ユニークで奇異なものではなく、国際標準の一角を占めるものとして示すという意味で、一定の効力があったでしょう。しかし、このような「立憲君主制」としての制度敷設も、しょせん、伝統的な日本の権威・権力の独自な仕組みの、「ひとつの見せ方」にすぎなかったのです。天皇陛下という存在は、別に、立憲君主制に見せかけても、見せかけなくても、依然として日本の伝統的な価値、日本の長年の習慣を体現する精神的な存在であることに変わりはありません。21世紀にいたるまで、そうなんです。ですから、少々うがった見方をするならば、一言でいって、明治政府は、「天皇陛下を政治利用した」 と言えるでしょう。その結果が、立憲君主制であり大日本帝国憲法だとも言えるかもしれません。このように考えれば、保守を標榜する立場の人々が、明治期の立憲君主制こそ日本の立ち返るべき点だという主張への疑問が理解されるでしょう。

さて、大東亜戦争での日本の敗戦と、GHQによる占領と戦後に話をうつします。あたかも、戦後、「立憲君主制」がうまくいかなかったから、GHQにより、天皇を外して、日本に「民主主義」が導入されたかのような想像上の見立てがなされています。今も、そういう見立てがなされ続けていると言っていいでしょう。円猿は、このような見立ては、完璧な認識の誤りだと考えています。立憲君主制にかわって民主主義が敷かれたというのは、あまりにも馬鹿げた解釈であり、そのような解釈は、GHQ解釈と呼んでもいいでしょう。実態は、全然そんなものではありません。 

なぜなら、日本の天皇陛下は、超長期的な時間軸に沿った日本国民の精神的な最大公約数であり、一貫して国民が共感可能な権威であり、それが維持され続けてきた独自の文化の中心であって、21世紀もそのような存在だからです。明治期に当時の国際標準を意識して、「立憲君主制」に見立てて、権威と権力の関係を一部編集したという程度のものだったのです。権威としての天皇陛下はそのままなのです。 もう少し説明を追加するのならば、天皇陛下は、帝政ローマ以後のヨーロッパ地域の王、諸侯、皇帝がそうであったように、一度も、物質的な富の独占の象徴だったことはありません。これも重要なポイントであり、天皇陛下が質素な生活ぶりによって日本国民に共感し、共に暮らす(民のかまど)という天皇−国民の価値の共通性は、驚くべき長期に渡って存在し続け、継承され続けているのです。この現代においても、1995年の阪神での地震の際に、あるいは、2011年の東北の大震災と津波の大災害の時に、改めてそれは明らかになったことです。この意味からすれば、日本には少なくとも2000年程度の時間に渡って、「誰が富を独占し、誰が力にまかせて全面支配をするか」ということではなく、天皇陛下という精神的な存在とともに、ある種の共和主義的な価値観が伝統として確立していたのであり、明治期の立憲君主制は、すでにそのような共和主義的な価値観(現代的な意味での民主主義的な価値観)に沿った日本の伝統の上に、国際標準を意識して制度を「編集した」という程度のものにすぎないのです。したがって、円猿は、日本の政治制度、レジームの回帰点として、明治の立憲君主制を取り沙汰する必要はないという立場です。 強く断言できることですが、21世紀の日本国民相互の共感や、自分が日本人だと思う感性は、けっしてGHQ起点の自称「民主主義」によって築かれたものではありません。、確実に、それ以前からの伝統に大きく立脚しています。しかも、明治期に「立憲君主制」を見立てる以前の日本の伝統に起因しているのです。

次に、近代政府と皇室の関係についてかたりましょう。ここで言う「近代政府」とは、中央収税システムのことです。近代を何を指標に近代と呼ぶか、さまざまな議論があるので、ここではやりません。その中で、現代にも確かに通じる最も大きな特徴として、中央政府による一括収税システムを近代の最大の特徴と円猿はみなしています。ここに視点を定めると、近代政府の収税システムに取り込まれてしまっている皇室という姿が明かになります。とにかく、近代政府という収税装置によって、皇室が金銭的にやしなわれているという構造です。これは、どうもあまり正常な状態ではないと円猿は考えています。なぜならば、天皇陛下とは数千年の日本の伝統を体現する存在であり、皇室の価値の大部分は非近代に関係し、数百年あるいは千年単位の価値継承に価値が置かれているのですから、そういう存在をひたすら近代政府の収税システムに依存させるというのは、妥当ではないと考えるのです。近代政府そのものを否定するのではありません。天皇陛下と近代政府の両者を適切に両立させるための制度設計、思想の集約、議論があまりにもなされていなさすぎるということなのです。

これは、戦後の議論のつまらない還元主義的なやり方に大きな原因があります。戦後、あたかも、立憲君主制(明治〜昭和20年)、その失敗(GHQ〜戦後)という二つしか、日本のとる制度はないかのような見立てが行われてきました。そういう次元でしか議論がなされないような時代は、終わりにすべきでしょう。もっと大きな枠組みでの説明が求められているでしょうし、日本国民を主権者とする、いわゆる近代的な民主主義の政治の仕組みを前提とするとしても、「立憲君主制ではないから民主主義なのだ」というような馬鹿げた還元主義ではなく、日本の伝統を尊重し、天皇陛下と皇室を日本の伝統にむすびつけた、もっとまともな議論が構築される必要があるでしょう。皇室は、財政的に政府の中央収税システムに依存し、収税された金の分配を受けています。つまり、制度的に近代政府=中央収税装置にしたがわされながら、様態としては、近代以前からの、はるかなる日本の伝統を体現し、日本の伝統的文化と、日本人の伝統的な価値観や感性に共感するという「権威」としての存在であるということになる。近代政府と、日本の伝統の延長上に伝統を継承するという皇室という存在の間に根本的に矛盾があるということを、われわれ日本国民は認識する必要があるのではないでしょうか。そうしないから、いつまでも、皇室は税金取りだなどという子供のような観点からの批判が容易に可能になり、判断中止、議論中止、思考停止がなされてきたのだと考えます。

最後に、皇室のあり方について少し語ります。これは、財政的なあり方という側面に限定しましょう。
近代の収税システムに、皇室が経済的に全面的に依存しているという状態は非常によくないと思います。権威と権力の柱があいまいなまま、GHQに戦後華族を廃止させられ、皇室を弱体化させられ、さらに、一方的に近代政府という中央収税システムの税にのみに依存させられている状態は、あまり正常なことではないと考えます。かといって、具体的にどうすべきかは簡単にアイディアは出てきませんが、皇室が近代政府という収税システムから少しでも独立する道を模索すべきではないかと、円猿は考えるのです。皇室が独自の財源を獲得できるような非営利の事業をするということも一つの可能性です。そして、 話は少し飛躍しますが、皇室の方々が一国民として納税するくらいのありようが実現されていいと思っています。そうすれば、権威としての天皇は、財源的に近代政府にひもづけられ、それに従属させられる一方であるということではなく、「皇族」でもあり「国民」としての価値も共有できるということになるでしょう。納税の先に、選挙での投票という行為を皇族ができることも検討可能にしていいと思います。もちろん、皇族の方々は、日本の長い伝統に基づく皇族としての行動の価値を尊重されるべきですから、わずか数年や数十年単位の政治の動きや、単なる日々の生活に価値を置いた政治活動をする必要はありません。しかし、政治というのもは、短期的なレベルだけでなく、中長期のビジョンをもって担当される権力の支配領域であり、超長期的な皇室のあり様と全く無関係なものではない。したがって、皇族の方々が独自の非営利事業を持ち、それを財源に納税をし、かつ投票できたとしても、何ら非難されるべきものではありません。こう言うと、皇室の方々が納税と投票するのならば、皇室を廃止すべきだという馬鹿な主張をする人々が必ず出てきますが、無意味な主張です。皇室が近代政府の収税システムに依存しすぎているから、皇室としての価値の追求や独立した活動をやりづらくなっているのです。近代政府から距離をとることによって、皇族の方々が日本の伝統や習慣の継承というご活動、あるいは日本国民の伝統や文化が海外でより適切に理解されるためのご活動をより円滑に行うことができるようになり、そのご尽力の結果たまたま皇族の方々が納税することになれば、当然、限定的であれ、投票という政治参加の権利が認められてしかるべきでしょう。ただし、それは、皇族なのか、民主主義の国民なのかという、硬直的な二者択一である必要はないということです。皇族であり日本国民であるということは、もう両立していいでしょうし、両立の可能性を検討していいと思います。もちろん、皇族の方々の意思を最大限尊重して検討する必要があると思います。


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2014年09月26日

「在日」日本人

在日(ざいにち)という言葉は、本来、ただ日本に在るという意味しかありません。
在日○○大使館という言葉に典型的に表れています。 日本に在る、日本ではない外国の大使館という意味です。

これとは、別に、在日という語には、もう一つの俗語的な意味があります。
それは、在日朝鮮人の略称です。「在日」という語だけで、なぜか、「在日朝鮮人」という特定の外国人だけを指す不思議な慣用があります。円猿は、この変な語法はやめて、より正確に表現すべきだと考えています。「在日外国人」の一部である朝鮮人というニュアンスが伝わる表現を常に用いるべきだと考えています。

いずれにしても、本来「在日」というのは、もともと日本のものではないものが、日本に在るというニュアンスを持っていることは確かでしょう。

ところが、、、、です。最近になって、在日朝鮮人の「在日」という言葉に込められている意味を考えてみたところ、今まであまり気づかないことが分かってきました。どうやら、この特殊な「在日」という言葉を適用すべき、日本人もまた大量にいるということが分かってきたのです。

少し考えてみましょう。在日○○大使館(○○には国の名前が入る)という場合の、「在日」は、もともと日本のものではないものが、日本に在るという意味しかありません。しかし、在日朝鮮人の「在日」には、その程度の事実関係を示す意味だけではなく、多くの情緒的というか、感情的な意味があるようです。具体的に挙げてみましょう。

・一般の日本人と比べて、ユニークな少数派が自分たちである。
・一般の日本人よりも、保護され優遇されるべき少数派が自分たちである。
・日本に滞在したいという強い意志があるわけではなく、仕方なく日本に居るのが自分たちである。
・一般の日本国民の権利を軽視することが、自分たちには許されている。
・日本の歴史や国民性を軽視することが、自分たちには許されている。
・日本の国や地域に、奉仕したり納税したりすることに大きな関心を持つ必要のないのが自分たちである。
・日本の国の税金や地方の税金を、一般の日本国民の生活には無関心なまま、自分たちは受け取る権利がある。
・不当に差別されているのが自分たちである。

こういう、奇妙なあまったれた自意識、気持ち悪くなるような自意識が込められたのが、在日朝鮮人の「在日」ではないでしょうか。

視点を変えて、日本人の中に存在する一部の左翼の人間について考えてみましょう。すると、日本人ではあるけれども、左翼的な考えを持ち、「リベラル」だなどと自称している勘違い人間の中に、上に挙げたような、在日朝鮮人の「在日」が含んでいる特殊な意味を自分にあてはめている馬鹿な人間が大量にいることが分かってきます。「不当に差別されている自分」以外の、すべては、ほぼ完全に当てはまるでしょう。

彼らは、自分のことを「ユニークな少数派」だと信じ込んでおり、「優遇されるべきだ」と心中深く信仰している人間です。そして、日本に居たいわけではないのに、今のところ、仕方なく日本に居てやっているんだ、というような笑うべき態度を基調としている。そして、日本の国民性や歴史を軽視することを簡単にできる自分を、なにやらかっこいい存在であるかのような、これまた笑うべき態度を持っています。その他、同様です。

「在日」日本人が、日本国民の中に一定数いるのです。彼らは、「在日」の本来の意味において、もともと日本にあるべき存在ではない人々でしょうし、自分自身でも、日本に居たくて居るわけではないというポーズをとっているわけですから、すみやかに日本を退去して、どこぞの外国なりに転居してもらいましょう。そして、二度と日本に戻ってくることのない様に願いたいものです。外国で厳しい生き方をして、そこに根付いてもらいたいものです。


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2014年09月09日

毎日新聞は南朝鮮大使の訪問を特別扱いする偏向メディア

毎日新聞という新聞の不可思議な動向を確認したので、転載して批判することにします。

毎日新聞は、一応ほぼ日本全国に販売網を持つ、通常「全国紙」と呼ばれる新聞です。なぜ、日本語で日本国民を対象とし日本全国向けに配信するメディアが、たったの1カ国の大使のみと握手した写真を載せたり、まだ一単位も仕事をしていない、その国の「大使」の話を聞いて記事をつくったりすることができるのか、全く理解に苦しみます。

いったいぜんたい、世界のどこの新聞が、世界各国からあまたの大使が日本にやってきて着任しているのに、たったの1カ国の大使だけを特別扱いして、社長がでしゃばってきて写真をとったり、まだろくに仕事をやっていない「大使」に好きに意見を言わせるでしょうか。公正な視点を欠いていますね。世界の諸国民とその代表者を公正に対等に扱うべきです。とりわけ、毎日新聞の社長と握手しているこの人物が、未だろくに仕事をやっていない点に注意しましょう。実績はゼロなのです。要するに、彼が口先だけで何を言おうが論評に値しないのです。そういう論評に値しないものを、なぜ、新聞が紹介してやる必要があるんでしょうか。

確かな「行為」によって、日本国民、日本政府との関係改善のために具体的な努力を示し、それを評価可能になった時点で、言いたいことを言わせるべきでしょう。暴力だけを背景に文字通り侵略している竹島についても、日本国民に対して説得的な説明をすべきである。そもそも、その程度の言論を展開できないならば、それは、自分たちの野蛮な暴力をただ単に肯定し、日本国民に対して、不当に自国の立場を一方的に押しつけようとする「代理人」だと言われても仕方ないでしょう。日本の被災地を公人として訪問するのは勝手であり、別に評価に値しないでしょう。むしろ、公人ではなく何の役職もない一外国人として、そういう訪問をするならば評価できるかもしれない。だが、この人物は、南朝鮮の利害を代表する人物です。竹島について何らの説明もしない、できない。南朝鮮の戦時売春婦をかついだ捏造と現代日本国民に対する差別の釈明もしない、できない。そのくせ、日本の被災地を訪問して日本国民の機嫌を取ろうとし、自分に善意があるかのように偽装する。そのやり方は、全く卑劣としか言いようがないですね。

GHQのscapin-33 にいまだにしたがい、主権者としての日本国民を尊重することをしない。日本の国土を尊重するという紙面がつくれない。GHQのプレスコードそのままに、いまだにシナと朝鮮を特別扱いしようとしているマスゴミは、日本にほとんど不要といっていいでしょう。少なくとも現代のメディアならば、政治と報道を切り離してもらいたいものです。日本政府の批判をするだけでなく、同じ「政府」なんですから、シナや南北朝鮮の「政府」も徹底的に批判すべきでしょう。日本国民=主権者の視点を基礎とし、さまざまな事実に精通した上で、自国の「政府」も諸外国の「政府」も批判する。いやしくも新聞ならば、当然、そういう使命があるのではないでしょうか。権力そのものである特定の一外国の「大使」に、しかも仕事をやっていない段階でPRさせるなどということは、まともなメディアのすることではありません。


<柳駐日韓国大使>「関係改善に努力」 本社社長と会見 

毎日新聞 9月9日(火)20時16分配信

  8月に着任した韓国の柳興洙(ユ・フンス)駐日大使が9日、毎日新聞東京本社を訪問し、朝比奈豊社長らと会見した。柳大使は現在の厳しい日韓関係を念頭 に「難しい時期に着任することになり、重い責任を感じている。日韓関係が今よりも良くなるよう一生懸命努力したい」と抱負を述べた。

 さらに、柳大使は関係改善に向けたメディアの役割の重要性にも言及しながら「問題はいつの時代にもあるものだ。それを乗り越えていかなければならない」と強調した。

 警察官僚出身の柳大使は、2004年まで国会議員を計4期務め、韓日議員連盟幹事長などを歴任。8月31日の初の地方視察では、広島土砂災害の避難所を訪ね、被災者を慰労した。【米村耕一】





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2014年09月06日

「みなし契約」で受信料を強制徴収しつづけるNHK

放送法64条の法律成立過程を研究している論文が、「放送文化研究所」というNHK関連団体の職員によって、公表されていることを知りました。放送法の中でとりわけ問題となっている64条について、何かの参考になるかもしれないと思いましたので、説明することにします。戦後65年も、まともに改正されてこなかった64条の本質的な問題が何かが、当時の法の作成過程に現れているように見えます。

「放送法」は、昭和24年(1949)にGHQの占領下で議論され、発効したものですが、素案段階では、現行の文面とは、かなり異なっています。

放送法64条に関しては、法案の作成過程で、「契約」という文言をどのように入れるかが、大きな問題となっていたのです。これは、以下を見れば分かります。

(1)昭和24年8月13日段階
受信契約および受信料:
「受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約を締結したものとみなす


(2)昭和24年8月27日(最終=現行)
「受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない

(1)の段階では、「みなしの契約」というものを埋め込もうと画策していたことが分かります。これでは大きな問題が起こるだろうと法案製作関係者は考えたのでしょう。契約の文言を残し、「しなければならない」と義務化する文章にすりかえたのです。

しかし、この義務の違反に対する罰則は設けられないで現在に至っていることを考えるならば、「みなしの契約」の精神が、いまだに残っていることが理解されます。要するに、NHKは、テレビを所有し設置している世帯を、「契約を締結したものとみなし」一方的に集金できると、契約の自由という国民に保障された権利を侵害して、一方的に国民の資産を掠奪しているという解釈が可能なのです。

実は、この昭和24年に放送法作成に関わった人物の記録も残っています。荘宏という人物ですが、彼は、1963年の著書の中で、以下のように述べている。

「この制度の下においては、名は契約であっても、受信者は単に金をとられるという受身の状態に立たされ、自由な契約によって、金を払うがサービスについても注文をつけるという心理状態からは遠く離れ、NHKとしても完全な特権的・徴税的な心理になりがちである」

荘宏 『放送制度のために』(日本放送協会) 1963年、P.258
驚くべきことですが、放送法の制定から65年経過した今でも、また、この本が書かれた半世紀以上たった今においても、この荘という放送法に関わった人物の憂慮は、まったくそのまま国民とNHKに当てはまるものでしょう。

国民は不当に受身な状態に置かれ、契約の自由を無視しているNHKは一方的に徴税的な心理で、「集金」しても問題ないという最低なモラルを押し通しています。これは、放送法をつくる段階で見通されていたことなのです。その背後には、「みなしの契約」という姑息な方法が隠れていたということです。元の案では、みなしの契約でしかないものを、現行の案のように、「契約をしなければならない」となったことによって、NHKは、国民の契約の自由を無視して、ひたすら徴税人のように集金できると勘違いしたまま、2014年を迎えているのです。国民の財産を侵害する重大な案件だと考えています。結論としては、以下が言えると思います。

放送法64条は、契約の義務化をうたう文面を廃止し、みなし契約と解釈可能な文言も慎重に排除して、「契約の自由」という国民の本来持つべき権利にもとづいて、すべてを書き換える必要があると考えます。

以上述べたことの資料は、以下の「放送研究と調査」という雑誌の号で紹介されています。ご関心がありましたら、内容をご確認ください。

「放送研究と調査」2014年5月号, p.32-47
論文名:放送法・受信料関連規定の成立過程〜占領期の資料分析から〜



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2014年09月02日

東京新聞 デスクメモ


東京新聞のミニコミ記事をとりあげましょう。 2014年8月29日朝刊の、「こちら特報部」なる記事の右下に、ゲリラ的に置かれた140字程度の記事です。まったく、ひどいとしか言いようのないミニコミ記事です。


<デスクメモ>
例えば、ホロコースト記念館が日本国内に建設されても、ドイツ人は怒るまい。ホ ロコーストが「世界の記憶」であることを十二分に理解しているからだ。翻って慰安婦問題はどうか。2008年の国連自由権規約委員会の対日審査で、委員の 一人は「慰安婦は世界の記憶」と発言した。そういうことなのだ(圭)


140829_tokyo_chokan.JPG
国連自由権規約委員会=United Nations Human Rights Committee


さて、これをお読みになった方は、強い違和感をお持ちにならなかったでしょうか。一般の日本国民は、おそらく強い違和感を持つでしょう。2014年8月5日に、朝日新聞において、自分の紙面で過去に事実であるかのように報道した戦時売春婦の証言を否定し、一部の朝鮮出身の売春婦の強制性を数十年ぶりで修正した後だからです。朝日新聞が自称する「検証」は、まったく十分ではないものですが、史料で一切裏付けすることのできない、売春婦の大量の強制徴用などということは、事実であるはずがありません。

このデスクメモが、なぜ異常なのか、なぜ違和感を読者に与えるのかの分析に移りましょう。それは、比喩の不適切な使用からきています。マスゴミは、この手の稚拙なレトリックを用いてきます。通常、比喩でならべる2つの事柄には、事実において確かに、「似ている」と思わせる多くの要素が必要なのです。しかし、このミニコミ記事には、まったく事実において似ていない2つの事柄をならべて、強引に比喩化しているのです。つまり、「ホ ロコースト=世界の記憶」と「戦時売春婦=世界の記憶」を、比喩でしかないのに、全く同じ関係にあるように見せかけ、ホロコーストの問題と戦時売春婦の問 題を同じ問題として認識すべきであるかのようにプロパガンダ化するのです。実際は、どうでしょうか?

「ホロコースト=戦時売春婦」などという定式化は不可能です。大量虐殺が記録 として残っているホロコーストと、一人も命を奪われた形跡のない戦時売春婦のケースは、極端に違いすぎる事象と言えます。そして、事実関係を自分自身で探 求し、議論することをさぼり、比喩の不適格な使用によって、他人を説得できるかのように完全に勘違いする。

「翻って」というフレーズに注意してください。翻る必要は全くありません。彼は、ホロコーストだけ を論じればよかったはずです。あるいは、読者に対して、ナチスのホロコーストとは全く別の事柄だと断った上で、戦時売春婦について言及すればよかったはずです。しかし、彼はそれをせず、不適切な比喩で、ホロコーストと戦時売春婦を同等の事柄であるかのように見せようとした。この手の不適格な比喩を持ち出すときの、枕詞が「翻って」というフレーズなのです。良識を持った一般国民を対象に、日本語で情報発信しようとするまともな新聞ならば、どういう情報を発信すべきか。言い換えてみましょう。


<< まともな新聞が日本語で日本国民に向けてすべき主張>> 

例えば、ホロコースト記念館を日本国内に建設するなどという案は、現時点では全く現実的ではないが、もしそのような施設の建設に、将来的に日本国内で関心が持たれた としても、ホロコーストの犠牲者となった多くの人々を尊重し、その子孫の感情に配慮したうえで、最大限慎重に検討・判断すべき事柄だろう。現代のドイツ国民との関係、現代のドイツ政府との 外交関係にも配慮する必要があろう。

仮に一般のドイツ国民に対してアンケートをとり、「日本でホロコースト記念館を建設することに反対か?」 と問い、90%のドイツ国民が反対ではないと表明したとしても、そのことによって、ホロコースト記念館を日本に建設して問題ないという判断にはつながらない。なぜなら、ホロコーストは世界の記憶である以前に、ユダヤ人の記憶であり、ドイツに戦争中に迫害された諸国民の記憶であり、その子孫の記憶である。誰にも頼まれていないのに、勝手に、その「他者」の記憶に同一化し、日本の人々がわがもの顔で、その記憶を取り上げ、自分勝手に恣意的に解釈して「世界の記憶」だなどと建造物を建ててはならない。

このホロコーストと、戦時売春婦の問題は、完全に別物である。 ホロコーストは史料に基づいて、計画的な多数の人間の虐殺が裏付けられている。これに対して、戦後に南朝鮮に国籍が変わった戦時売春婦は、当時、日本国民 と同じ権利主体として、日本の公民(国民)であり、法にもとづいて、生命・自由・財産を守られていた人々である。その証拠に、彼女たちが、別の法にもとづいて扱われ、殺されたという例は、史料に一つも残っていない。

戦時売春婦を国連のマイナーな委員会が取り上げているのは、100%南朝鮮政府と関連団体のプロパガンダに端を発するものである。戦前の日本の行 政や法を理解するために必要な日本語の史料の読解力を持たない国連のマイナーな委員会の人々が、プロパガンダに動かされて、発言しているにすぎない。そういうことなのだ。(円)


posted by 警鐘凡打 at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする