2017年08月16日

日本版「ファーストレディ」のおかしさを強く批判する


今回は、現首相の夫人のあり方について、かたります。
日本の首相の夫人をいつから「ファーストレディ」と呼称するようになったのか、それは分かりません。しかし、以下に説明するように、アメリカの「ファーストレディ」と日本の「首相夫人」は本質的に異なるのです。決して、日本の首相夫人を「ファーストレディ」として認知することはできません。

一つ、おことわりがあります。今回、現首相については、かたりの対象とはしません。安倍首相の政策についても多くの疑問点や議論すべき点はありますが、それとこれとを混同させるのはよくありません。夫人について、非常に目に余ることが多いので、この人物の行為について強く批判したいと考えています。ブログ主は、このかたりによって倒閣運動に加担しようとしているのではありません。その点を誤解されないようにしていただきたいと思います。政治の外の話です。


さて、本題です。

かつて、安倍夫人ほど、総理大臣の夫人の中で露骨に自身のキャリアに夫の地位を利用した人物はいないということです。ひと言でいって、前代未聞の変人でしょう。そう認識して差し支えないと思います。

もともと「ファーストレディ」というのは、アメリカ発の概念です。ヨーロッパではありません。アメリカの場合は「大統領夫人」であることに注意しましょう。元首の夫人ということです。「首相夫人」ではないのです。

アメリカがよくて日本がよくないと言うわけではないにせよ、アメリカの場合は、夫が大統領になる以前から、その夫人は多くの社会活動に従事し、職業人としてもプロとして活躍している場合がほとんどです。
 より決定的なのは、夫その人が候補者になる大統領選挙でも、夫人の人となり、公式の場での演説、そして社会活動が大きくものを言うという点です。つまり、私人として夫を支えたからという理由ではなく、「公人」としての発言と行為によって、配偶者の大統領選出の功労者の一人となる。それがアメリカのファーストレディなのです。

では、日本の「首相夫人」の場合は、どうでしょうか。 もちろん首相になる前から、私生活でたいへんなご苦労があり、さまざまなサポートをされているでしょう。それは、アメリカの場合と同様です。しかし、決定的な違いがあります。議員内閣制の日本において、

夫の首相選出プロセスに

日本の(未来の)首相夫人は

公人として関係がありません。


日本の場合も、首相になるための選挙がありますが、実質的に政党内でやる選挙なのです。安倍氏の場合なら、自民党という党内における総裁選挙です。この総裁選挙において、夫が(首相という地位につながる)候補者となり、そして選挙に立ち、選挙をたたかう一連のプロセスにおいて、夫人の公人としての活動は物を言いません。
 それに、夫が「公人」になるため(首相になるためではない)の何らかの選挙において、夫人が多少の影響力を持つとしても、せいぜい地元での選挙ていどのものです。衆議院選挙のようなケースでも、候補者の夫人が、選挙での勝利のために決定的な力を持つことはまずないでしょう。

以上のような背景がありますので、

アメリカの「ファーストレディ」を

日本の首相夫人にかぶせるのは

100%無理があります。

単に首脳会談、サミットなどの個別のケースで、首相に同行した場合に、一時的に、アメリカの「ファーストレディ」の同格者として扱われることもある人物。それが、日本の「首相夫人」なのです。日本にいるすべての時間、すべての機会において、日本の首相夫人が「ファーストレディ」と同等・同格なのではありません。この点を決して誤解してはならないでしょう。


ところがです。


安倍昭恵氏の場合は、首相夫人に

なったということで「ファーストレディ」

に意図的に成ろう、成りきろうとした

のです。この気持ちわるさです。

これが問題なのです。


しかも、多額の税金でやしなわれ

ている何人もの官僚を、自分の

秘書のように私物化し、実質的に

自分の使用人にした。


そして、やってもやらなくてもよい

居酒屋の経営をはじめた。


いきなり感満開で自分のキャリア

づくりに精を出しはじめたのです。

さまざまな公的な場において、「夫とめざすところは同じだ」などと比喩でしかない曖昧な言葉で公人として振る舞い、自分をもちあげてくれる国民を自分の全人格を絶賛している支持者であるかのように勘違いしているように見えます。言語道断というほかないでしょう。 


首相夫人が、公人として

「夫とめざすところが同じ」なら、

それはそれで結構です。

その主張を実現すべく、

国民の審判を得るべく、

立候補して当選するところまでやり、

公人=政治家として活動してください。


それくらいの本気度がないのならば、

「夫と同じ」などという比喩的な表現で

地域の有権者や国民をあざむくのは

絶対にやめるべきです。


公人格として夫がちゃんと政治家になり首相になっているわけですから、共通する価値観や思想があるのなら、公人として政治家になっている夫に託せばよいだけなのです。

もちろん、マスメディア等で発言しなくとも、私的な集まりなどで議論したり意見交換する程度なら問題ないでしょう 

あるいは、公人としてではなく、私人として好みや思想が似ている場合、私人としてめざすところが同じである場合を考えましょう。この場合は、なおさら大きな理由によって、夫人は公的な場で黙るべきです。 プライベートな事柄なわけですから。

最近報道されたことに、首相夫人に付き人が5人ついていたのを、3人に減らしたというものがありました。この「付き人」は、首相ではなく、首相夫人の意思と要望にもとづく人員配置に違いありませんが、きわめて大きな疑問があります

そもそも、国家公務員を、国民の審判を経ていないくせに「公人」としてふるまおうとする首相夫人のためにサポートさせることが可能なのでしょうか。 そうは思えません。即刻、ゼロ人にすべきでしょう。ケースに応じた個別の身辺警護のみで十分のはずです

国民の公の金を、プライベートな関係(=夫婦)に拡張し、総理では全然ない人物のキャリアづくり支援に充当するといのは異常なのです。国民の同意なく、それが行われている。 5人であろうと3人であろうと、異常です。 これは、恣意的な官房費の流用に相当しますし、一歩間違えば、公金横領に相当します。 官房費の使途や人員配置について、禁止条項を設けて、このような運用を禁止すべきです。

首相夫人の「付き人」を官房費などでまかなうことが許されている現運用は、法にもとづいて即刻変える必要があります。もし、現在の仕組みを容認するとしましょう。首相になったとたん、「めざすところは同じ」と主張する血縁者のキャリアづくり支援が可能な体制がどんどん進むとしましょう。すると、夫人だけでなく、もっと別のプライベートな関係(例えば、親子だとか甥姪の関係)に拡張し、平気で、首相の身内のキャリア作り支援に公的な資源が利用される道筋がつくられかねないということです。 血縁が遠くなればなるほど、実質的な公金横領になることが理解されるでしょう。

ブログ主は、首相夫人の人格を非難しているわけではありません。あくまで行動と価値観を強く非難しているのです。 官房付きの役人、官房費の適正な使用を検討し、必要に応じて法的な規制を加え、未来の首相夫人の方々のすぐれた行動規範を確立すること、そして、よりよい前例を吟味して作ってほしいと考えています。

 基本的に、首相の家族に対する「警護」は必要です。首相在任中に、その家族が私人としての活動をさまたげられたり、身の危険にさらされてはならないでしょう。しかし、「お付の職員」は間違いなく不要です。国民の民意を経ないおつき職員の恣意的な新設はやめるべきです。

日本の首相夫人には、何ら法的な根拠はありません。法的な根拠がない一私人に、権力(に相当するもの)を与えることはできないし、国民の同意を経ていない公的資金を与えることもできません。そして、一般国民とは比べものにならないような強い発言権を、その人物に与えることも非常に危険なことです。


posted by 警鐘凡打 at 06:27| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

上原多香子の不倫関連報道と公序良俗


今回は、かなり卑近な事柄についてぼやきます。ネット上ではかなり話題になっている世間を驚かす事件であるにもかかわらず、不思議なことに、地上波テレビ等ではほとんど取り扱われていない事例です。この社会的な関心を喚起しているにもかかわらず、

「報道しない」姿勢を示している

マスメディアの矛盾

について触れましょう。これが本題の一つめです。

二つめの本題として、

今回のケースを、多くの日本の人々

が「公序良俗に反している」と判断

する社会的な事例であることに

言及します。


男女の関係は、本来、個人的なことがら、プライベートなことがらですが、ときとして、同時代の多くの人々の倫理的判断を試金石にかけるような事例が起き、社会的な関心を喚起するケースがあります。今回の上原多香子の不倫がらみの一件はそれに相当します。公序良俗にむすびつけて、マスメディアがしっかり報道すべきだという本質を指摘します。

彼女に「私刑」を望むのではありません。そこを踏み外してはまずいと思います。公序良俗に反しているという判断と、彼女に法で定められているかいないかを問わず刑罰を与えることは別です。単なる一組の夫婦の個別事例とみなすことはできない、そういう社会的事例だということです。それでも、上原多香子のような既婚女性が、現代の日本に潜在的に多数いたとしたら、放っておくわけにはいかないと考える人も少なくないでしょう。ブログ主もその一人です。

ですが、「放っておくわけにはいかない、ではどうするか?」は別の話とします。これは、さらに一歩踏み込んだ先の議論領域なのです。上原多香子の事例については、世間の議論はまだそこまですすんでいないように見えます。あるいは、そこまで踏み込んだ議論に発展しないまま、人々の関心は終息してしまうかもしれない... とすれば、なおさら、マスメディアが公序良俗にむすびつけた本物の議論や報道を提供すべきである。 それが、ブログ主の主張です。

では、概要を冒頭で簡単に整理した上で、すすめましょう。

上原多香子とその夫は、30代の夫婦でした。夫が自殺したのが3年前だったのですが、夫自身の不妊と妻の側の自由奔放な不倫が原因となって、夫の自殺につながったということが、3年のときを経て明らかになったのです。遺書の重要な部分が明らかになっていなかったために、夫の自殺が妻の不倫を苦にしたものであったことが、世間に知られてきませんでした。夫の遺族がそのことを公表したのです。細かい事実については、ネット上で確認してください。


最初に、自殺の原因を、「妻の不倫」に一元化できないということを指摘します。

一人の人間が自殺の道を選ぶとき、そこには必ずその人の生き方や性格というものがあります。妻の不倫、即、自殺という反射的な行動だったならば、そこには夫であった人の深い悩みやその人独自の生き方を見出すのは、むしろ難しくなります。

自殺する人の人間としての「弱さ」を指摘する人も一般にはいますが、そんなことはありません。その人の生き方とその人独自の性格、そして、長い悩みのプロセスとその人の強い意志があったのです。まずは、それを認める必要があります。決して、妻の一過性の不倫によって、即、自殺の全原因とすることはできません。確かに、夫であった人は、妻の行動にたとえようのない深いこころのきずを負ったことは想像にあまりありますが、妻の不倫行動を、自殺の全原因に還元することはできないのです。


その上で、今回の本題の一つ目です。なぜマスメディアは報道しないのか。


すでに結婚しているのに、婚外で男女関係をつくった事例のうち、男性がそういう行為をした場合は、いくらでも報道されてきましたが、女性の場合には、報道が控えられるという傾向があります。これをマスメディアの矛盾ととらえている人も多いでしょう。もう少し具体的に書きます。

一夫一婦制をとびこえて無軌道に異性と性関係になる事例のうち、男性が一夫一婦制を踏み外して、妻のこころをどこまでも傷つけて平気なさまは、いくらでも報道されてきたのに、女性はそうならないのです。上原の例がそれを証明しました。この報道の違いには理由があると考えています。

女性が一夫一婦制を踏み外して、(多数の)男性と性関係になり、夫のこころをどこまでも傷つけるのは、「女性の性を解放すべきだ」「女性が自由恋愛をとことんたのしむべきだ」「弱い側に置かれてきた女性を守るべきだ」という、べき論をマスメディアが打ち出すことを従来から要請されているために、報道すらできなくなっているのではないか。それが理由だと考えられるのです。

今回の事例では、夫であった人が妻の不倫関係に深くなやんだ末に自殺に至っており、事態はとても深刻です。でもマスメディアの論理からすれば、妻=女性の無軌道な性関係によって、傷ついた一人の夫が自殺までしてしまったことはかわいそうだとしても、このような事件によって、女性の解放と女性の自由恋愛を後退させてはいけないのです。この妻の不倫を苦にした一人の夫の自殺は、女性の解放と女性の自由恋愛のためには、しかたのない犠牲だとマスメディアは踏んでいるということです。

仮に、今回の事件で、妻=女性の上原多香子の個別行動だけでなく人格に踏み込んで、その非道徳性や共感の欠如などをとことん非難する報道にマスメディアがコミットしたしましょう。そのような報道は、いわゆる戦後日本で手放しに肯定されつづけてきた「自由恋愛」に対する非難、あまりに自由奔放な性関係を何十年もつづけてきて、「どこがいけないの?」と開き直るような女性(潜在的な人口は相当多いでしょう)への非難につながるわけです。

報道の多い少ないは別として、本当のところ、「女性の性の解放」「女性の自由恋愛」を地でいく人々、マスメディアに踊らされて、自由恋愛に打ち込んで楽しんでいると信じ込んでいる人々は、あまりにも無神経で、異性にほとんどまともに共感できない人々でしょう。ここまでくれば、男性も女性も関係はありません。もちろん、そういう無神経で異性に共感できない人々どうしが、自由気ままにセックスに打ち込んでいるのならかまいません。しかし、実際には、片方がそうであっても、もう片方が全然そうではない場合がいくらでもあります。 そういう場合に、ひたすらきずつくのは、無神経ではなく、真摯に共感しようと努める側の人なのです。

「性の解放」「自由恋愛」が

マスメディアにしつこく言われ

続ける時代は、まだ続いています

露骨な性描写などで、肉体関係を前面に出して、男女の性関係を楽しめ、楽しめとしつこく説きすすめている女性向けの雑誌などが後を絶たないのです。 

ここで立ち止まって、

「何かおかしくないか?」

「とりあえず相手を探して自由恋愛

でセックスして、で何になるの?」と

根本的な疑問を大事にすることです。


なかなか難しいかもしれませんが、そういう根本的な問いをもとに、友人知人、兄弟姉妹、年長の人々と議論することも考えていいと思います。別にそう考えたからといって、何もわるいことはありません。 とりあえず、若いときの何年かに自由恋愛だのセックスだのに邁進したとしても、誰でも例外なく、それが性に合うかどうかは分かりません。犠牲にするものが多すぎて、そんなことは続けたくないと認識する人も大勢いるのです。注意したいのは、そういう人の意見は多数派とみなされていません。現状では、マスメディアに完全にかき消されるということです。

やや話がそれましたが、女性の側から、自由恋愛のおかしさ、女性解放のおかしさについて批判的な意見や議論がよほど大きな動きとして出てこない限り、マスメディアの報道の傾向に変化は出てこないでしょう。

けっしてマスメディアは自己批判をしませんが、実際には、このマスメディアの「女性の権利」を推進すると見せかけた軌道が、おそらく、日本の現代のもっとも大きな問題、少子化の問題にもつながっているというのが、ブログ主の考えです。

二つめの本題です。公序良俗です。

多くの良識ある日本の人々は、

いくらなんでも、今回の上原多香子

の行動を「公序良俗に明らかに反する

行き過ぎたものだ」と判断しているよう

に見えます。

「こんな既婚女性がいくらいたって

別にかまわない」そう判断する人は

ほとんどいないでしょう。

結婚のもっともミニマムな信義に

反しているからです。


そのような事象として、マスメディアは正面から大真面目に報道すべきでしょう。

ただし、最初から特定の人や、特定のメディアが上から目線で「公序良俗」を振りかざすのは権威主義ととらえられるでしょう。一定の時間を経て、人々からさまざまな視点で多くの意見が寄せられ、同時代の日本の公序良俗に反していると総合的に判断される場合には、しっかりと論拠を説明した上で、「公序良俗に反している」と断じるべきです。そういうスキルを発揮できるマスメディアが現代の日本にあるとは思えませんが...

もちろん、今回の上原多香子の報道に徹すべきだなどと誰も主張しません。男性についてもしかりです。男性が一夫一婦制をとびこえて、カネにものを言わせてハーレムのような人間関係をつくろうとしたり、五体不満足下体大満足のような特殊ケースも含め、とてつもない自分の性欲を満たしてやろうと専心したり、昔のスタイルで蓄妾にいそしんだりする事例についても、ぐだぐだと際限なくワイドショー報道をつづけるのではなく、一般の人々の良識ある意見に耳を傾け共感した上で、本質をつき、「公序良俗に反している」とびしっと批判するメディアが出てきてほしいものです。

その際、マスメディアの姑息なやり方を強く批判しておきましょう。

マスメディアに同調する安易な傾向を持つ人々の意見を見せ球に使うことは厳禁であり、駄賃や日当を与えてマスメディアの主張したい意見を言わせるのはやめるべきだということです。これらの行為は、本来ならば犯罪ととらえるべきです。地上波のテレビに登場する「一般人」をよそおった人々が偏向した思想や立場の持ち主であるケース、やらせで言わされているケースがあまりにも多いことに、日本の視聴者はとことん辟易しているのです。

言論の自由を主張したり、民主主義を主張したりする前に、そもそも、こうした「やらせ」にもとづく民意の偽装を金輪際やめる必要があるでしょう。民意の偽装を根絶するための内部法規をがっちりつくり、かつ、徹底した運用をマスメディアがやるか、もしくは、自ら堂々と、国民と国民の代表に呼びかけて、立法府に「マスメディアのやらせ禁止」を法制化してほしい、自分たちはそれを運用して言論の自由を守る自信があると潔く申し出るべきでしょう。

「日本に民主主義が根付かない... 」などと得心したように主張する人々が何十年前から絶えたことがありません。マスメディアもそういう人々を喜んで登場させます。だが、民意を偽装しておいて、なにが民主主義でしょうか。その本質を徹底的に追及しなければならないでしょう。 

民意を偽装している張本人が、いくら、「民主主義が根付かない」だの、「民主主義がない」だの主張してもむなしいだけですし、他人にそう主張させても、さらにむなしいのではないでしょうか。 彼らの「民主主義が根付かない」は、単に、「マスメディアの思い通りに日本の人々が動いてくれない」というローカルなぼやきにすぎないのではないでしょうか。彼らの特殊でローカルなぼやきを一般化しようとする動きこそが、民主主義に反しているのではないでしょうか。


ラベル:公序良俗
posted by 警鐘凡打 at 01:04| Comment(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

にせもの

以前、ごくごくふつうに口にすることができていた言葉があります。

「あれは、にせものだね」
「あいつは、にせものだ」

これです。

たしかに、「ひと」と「もの」を同じ意味で、にせものと判断できるわけではありません。
「ひと」を「にせもの」と呼ぶのは、ある種、比喩的な表現です。

ただ、「ひと」について言えば、「ほんもの」と「にせもの」を分け隔てる境界線は
きわめて明瞭なのです。いや、明瞭なはずなのです。こう言っておきましょう。

「ほんもの」は、社会的に価値のあることや、日本という国や地域に必要だと信じて何十年も活動する「ひと」、
「にせもの」は、自分のどんな行いに価値があるかを自身で分かっておらず、吟味できておらず、
とにかく自転車操業のように、自分の単なる飲み食いのため、あるいは、自分がそれだけのカネを
受け取る価値があるかどうか吟味することをサボりながら、とにかくカネのために活動する「ひと」です。


これらの「ひと」は、まったく別なのです。

わざとらしく、人にウケているように見せかけたり、
わざとらしく、おもしろいものに見せようとしたり、
わざとらしく、意味のあるように見せかけたり、
わざとらしく、知りもしないことを知っているように見せかけたり、
わざとらしく、権威者ぶってすごんでみたり、
わざとらしく、全然そうでない自分をつくろって、人をだましたり、

... 等々


そういうのは、とにかく、すべて「にせもの」と言い切ることができたのです。

「にせもの」として、人をだまし、人から時間やカネを巻き上げる。
やめた方がいいことです。本人が気づいた時点で、即刻やめた方がいいことです。

マスメディアに自分が露出することで、自分がカネを手にする一方で、いかに多くの
人々を不快にさせ、多くの人の時間を浪費させているか推察することなく、30年も40年も
放置し、老いていく。その場限りで、「あとは野となれ山となれ」。
論外です。

自分の名前のタグをつけて、多額の税金を引っぱってくることとか、ポストを占有し続ける
ことが自分の価値だと信じて、いったい、自分がそれだけの価値を提供できているか
どうかをいっさいい吟味しないまま、老人になる。定年になっても、必死に似たようなポスト
を占有しよう、月給取りを続けようと血道をあげる。ほとんど何らの疑問も持つことなく、
そんな行動をとることができる。
論外です。

自分の生活がかかっているかどうかなんて、関係ありません。
「にせもの」に成りきるのはやめて、ほかのもっとましなことを開始
するだけでいいはずです。

ところが、ここ最近は、「にせもの」をリアルに演じている人がしつこくいつまでもやめない。

他人をだましていることを知っていて、いつまでも「にせもの」をやりつづけるのです。
それをわかっていて、「にせもの」として堂々といばっているのです。


ちまたの人々の間でも、「にせもの」を口にする人がいなくなりました。


そのことが、不思議でなりません。

「みんな、それぞれ、くるしい事情があるんだよ」
「みんな、食っていかなきゃいけないから、しかたないんだよ」

..... そんなふうに、分別くさく主張する人々もいます。それも分かっています。

しかし、事情があろうが、自分の生活をささえる必要があろうが、「にせもの」が、1人、また1人
と世の中に割り込んでくる。すると、彼らにとても大きなコストがかかっているということを知るべきです。

「にせもの」には、とても大きな社会的コストがかかっているのです。
それを知る必要があります。

そして、その一方で、

「ほんもの」

つまり、社会的に価値のあることや、日本や地域に本当に必要な人のためにかける
ことのできるコストは、奪われている。これも事実です。
「ほんもの」に必要なコストが奪い取られ、「にせもの」が運用されているのです。


しかし、一般に人は、こう考えています。

「ほんものは、誰にでもすぐ分かるからだいじょうぶだ」
「ほんものは、どっちみち、かならず世の中に影響を与えることになる」

しかしですよ。

「にせもの」が不当に場所を占有しつづけ、「ほんもの」を登場させる場所を
ことごとくふさぎ、封じ込めているのに、なぜ、「ほんもの」が分かるのでしょうか?

「にせもの」の当事者たちが、にせものであることを知りつつ、姑息に隠しつづけて
いるのに、いったいいなぜ「ほんもの」が分かるのでしょうか?


はなはだ疑問ですね。


「ほんもの」がたしかに存在しているのに、「ほんもの」にふさわしい場所を与えられて
いなかったら、それは、人々にけっして知られることがないでしょう。
人々の認知される機会がなければ、「ほんもの」は存在しないも同然なのです。


多くの人々は、

「自由競争を勝ち抜いて、自分の目にするところに躍り出ている人々がほんものなんだろ?」
「ほんものなら、表に出てくるはずだ。自分の目にするところに出てこないとおかしいだろ?」
「自分の目にするところに出てこないんなら、ほんものじゃないんだろう?」

こう考えているのです。 
ちょっと考えてみましょう。この認識がいかに傲慢で、いかに危ういものであるかを。 

多くの人々は、自分が日常生活の中で目にする、新聞・テレビ・ラジオの記事や
プログラムの中に、「ほんものなら、出てこいよ」と言っているも同然です。

あるいは、新聞・テレビ・ラジオが、吟味した上で、確実に「ほんもの」を登場
させていると信じて疑わないかのような態度です。

実際は、マスメディアが圧倒的多数の「にせもの」を人々に押し付け、そして、
「ほんもの」と「にせもの」を吟味していない、区別もしていないことは明白です。

「ほんものなら、日々の生活のなかで、きっと自分はそれを目にしているはずだ」
このような認識を持つ人々は、自分が日々、目にし耳にするものの中で
「ほんもの」をすくいとっていると信じ込んでいるのですが、その認識は完全な誤り
であることが分かります。

そもそも、どこまでも受身でいて、マスメディアの流すまんまを視聴しているだけなのに、
なぜ、「ほんもの」が彼らの面前に登場するでしょうか? するわけがありません。

「自分だって、ほんものとにせものくらいの見分けはつきますよ」

人は必ずそう主張します。 一人の例外もなく、人間ならば、そう主張するでしょうね。
誰だって、「にせもの」を手につかまされていると知ったらいきどおるでしょうし、
自分が価値を信じたものが、「にせもの」だと言われたら怒り心頭でしょう。


でも、実際のところ、一人一人の人間が持っている、その自信たっぷりの
「真贋を見分ける目」によって、いとも簡単に「にせもの」が成立し、無意味に、
そして高コストに、「にせもの」が幅をきかせているのですよ。逆説的ですが、
そうなのです。 

「ほんものにせものを見分けているぞ」と自信を持って主張する人が、一人また
一人と蓄積することで、あろうことか、「にせもの」が高コストにやしなわれている。
そして、大量のにせものが日本と地域のお荷物になっているのです。

ここがスタート地点なのです。つまり、自分では「にせものではない」と信じて
必死につかんでいる「にせもの」を、真剣に吟味にかけて、「にせもの」だと判定すること、
「にせものは、しょせん、にせものだろ」と言い切ること。
そして、それ=にせものを放擲すること。これがスタート地点なのです。



posted by 警鐘凡打 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

いい人

べつに他人のわるぐちを言いたいわけではないのに、
どこからどう見たっておかしな行動や言動を批判したら、よく、

「あの人はいい人だよ!」 という不思議な言葉がかえってきたことがありました。

... 「いい人」 なんの意味があるのか、と。そんな機会が重なったので、小さな詩を書いたことがあります。


いい人


「あの人は、いい人だよ」

「そう言うけど、あの人は、いい人なんだよ」

わたしがいままで、何百回、いや、何千回聞いてきたことばです

その度に思います


... べつにわるい人だなんて、言ってませんよ、

で、そんなに、みんないい人なんですか? と。

いい人で、だからどうなんですか...と。



結論、


いい人だって、そういうことにしておこうじゃありませんか

いい人だって、思えば、なんだか気が楽じゃないですか

みんなハッピーですよ いや、すくなくとも、

みんなハッピーになりたいんですよ

とりあえず、仲良くやりましょうよ

... 完


って、そんなに空っぽで、はずかしくないですか?

そんな、お気楽な決めごとを、人に強要したって、

なにも変わりゃしませんよ。

ある人のことを、「あの人は、いい人だ」のたったひと言で、

いったい、その人のどんな価値を説明したのですか、教えてください 

あなたのどんな価値観から、そう断じるのですか?

とにかく、わかるように、ひたすら言葉で教えてください。

...と言ったら、みなさん、逃げて行きました。

.......................................................

あぁ そうですか わたしにはよくわかりましたよ!

人が人を評価することはそれほどむずかしいということを!

だから、「いい人」という、珍妙な誤魔化しの言葉があるということを。

わるい人だなんて言ってやしないのに、先手をうって、「いい人」にしとかなきゃいけないということを!


さあどうぞ! ご自由に! 好きにしてくださいよ! 「いい人」とやら!

「いい人」と他人を明快に評価なすって、自分もどうやら「いい人」とおぼしきお方!


しかし、わたしは、自分を含めて、いい人だとは少しもおもいませんがね。



posted by 警鐘凡打 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

新年に「地方」をかたる


平成二十九年になりました。今年は酉年、丁酉(ひのととり)の年です。ことしもよろしくお願いいたします。

新年に何をかたろうか...と思い、「地方」についてかたります。円猿は、仕事の関係で東京を離れて一時的に地方で暮らしています。地方といっても地方都市ですが、どこの地方かは伏せます。

地方は、相当な人口の都会であっても、いろいろな意味で人間関係がしっかりしており、それでいて、それほど閉鎖的ではない。そんな感想を持っています。地方(都市)は、東京などと比較して、お金への依存率がかなり低いことも分かりました。これはすばらしいことです。お金が不要なのではありません。そうではなく、金銭で均しなみにものをはかる領域の外に、金融や商品経済に限定されないもっと大きな経済の次元があるからです。それから、地方では、子供たちが東京で見るよりもみんなかわいく見えます。地域に子供を大切に育てる伝統があるからだと思いますし、東京よりものびのびと育っているからでしょう。元気いっぱいに遊んでいます。また、子供から青少年、そして働き盛りの世代からお年よりまで、世代がつながっているように見えます。世代間のコミュニケーションが健在なのです。これもすごいことです。東京などと比較にならないほどです。とてもではありませんが、ここに書ききれないような数多くの独特の良さが地方にはあります。それぞれの地方固有のよさは、ほとんど無限でしょう。

ただ、地方が閉鎖的ではないと言っても、それだけで評価できるわけではありません。 円猿がはたらいている地方の人々は、マスメディア経由でしか他の都市や外国で起きている情報に関心をさいていないということもわかりました。危ないことだと考えています。 実際、円猿が仕事場で会う地元出身の人々が多くいますが、彼らは、ほとんど他の地方や東京、そして諸外国で起きている事柄に関心がないように見えます。東京が一番だなどということは全くありません。東京でやっているから、地方でもやった方がいい。そういうことばかりでもない。しかし、仕事する中で国や東京に関係する事柄が出てきても、「東京ではどうなんですか」という質問を一度も受けたことがありません。不思議に思っています。もちろん日々の会話や議論のレベルではないところで、関心を発揮していれば別ですが、そうでもないようなのです。

逆に、他愛ないことでも、地元に関する話題を振ると、みなさん揃ったように、よくぞ聞いてくれた... というような様子でにこにこ多弁に語りだします。 郷土愛はとてもよいと思いますが、「他者を知る」という本質的な努力を、自分から主体的にはたらきかけて相手に しなければ、他人を理解することはできないでしょう。漫然と一年、二年、経過していくだけです。なれ合いの関係になるかもしれませんが、それで終わりで す。相互に理解したことにはならないでしょう。 これは一人対一人の次元だけの話ではありません。

「地方は自分たちのことで精一杯なんだよ」 という声が聞こえてきそうですね。 もっともな意見に聞こえます。しかし、いかなる地方であれ、同じ声を上げて、「自分のことで精一杯で、国や他の地方のことは知らないよ」となったら、いったいどうなるでしょうか。制度の次元に限らず、日ごろから主体的に他の地方で起きている事柄に関心を持つ必要はあるのではないでしょうか。マスメディアに断片的に出てくる話題をはるかに越えて、日本の他の地方や東京、さらには諸外国で起きていることに踏み込んで関心をもち、関心を追求して、自分の地方の問題に立ち返るということも重要なのです。

なぜこのような主張をするかというと、地方の方々の中には、東京や日本の国についてもおおいに語り議論に参加するだけの潜在能力を持つ人が多いと思ったからなのです。自分の生きる地方を大切に考えながら、他の地方で起きている事、東京で起きている事、日本という国がかかわる重要な事柄、そして、諸外国で起きている事に彼らが真剣な関心を持ち、そして場当たり的な関心ではなく、ねばりづよく関心を発揮し続けたならば、それは大きな力になるはずです。


ラベル:新年 酉年 丁酉
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2016年11月20日

次期アメリカ大統領が決まる -「リベラル」な人々のおぞましさ


次期アメリカ大統領が、D.J.Trump氏に決まりました。
この事実を受けて、地味に語ります。

この数日、日本の内外のメディアの発する情報のいくつかに接していますが、円猿的にもっともあわれに思えたのは、日本の人々です。それも、自分で自分を「リベラル」だと信じ込んでいる人々のあわれさでした。

定義まではとりあげませんが、そもそも「リベラル」というのは、多様な人々の意見や生き方を認める立場を自任するということではないでしょうか。まちがっても、自分が加担しようとする気満々の「社会的弱者」「マイノリティー」 の生き方を認め、その他の人々の意見や生き方を無視することは、リベラルでも何でもないはずです。

実際は、一般的に「社会的弱者」「マイノリティー」の支持を取り付け、弱いものたちの味方になって世論の誘導者に成り上がったという自意識を持っている人々が、「リベラル」を自称するから、そうなっているだけなのです。 逆の見方をすれば、「リベラル」を自称する人々は、自分の営業のために、しつこく「リベラル」を自称しながら、もっぱら「社会的弱者」「マイノリティー」の味方の論陣を張っているだけの偏向しきった人々、分かりやすい馬鹿だということです。彼らほど、日本の世論を形成する多種多様な要素を無視し切り、簡単に切り捨てることができると信じきっている愚かな人々もいません。要するに、もともと偏狭な人々が「リベラル」を志向して、自分の勝手に思いえがく「リベラル」になっているわけですから、どこまでも自分で自分の首をしめつつ、偏狭さ加減を露呈すればいいだけのことなのです。分かりやすい話です。

それにしても、日本のマスメディアに登場する自称リベラルの人々は、まったくD.J.Trump氏を支持したアメリカの人々の世論を受け入れることができませんでした。アメリカの人々を、情念にふりまわされた愚民だとみなす。勝手に、アメリカの危険な傾向だなどと断じて、真摯に調査研究することをさぼる。 」

挙句の果ては、この選挙結果に

「発狂しそうになる」などと感情一色

の反応を示す輩までいました。

単なる一外国の首長選挙に発狂

できるような偏狭な輩ならば、 

どこまでも「リベラルではない」 

と断じましょう。一人で発狂すれば

いいのです。


彼らは不寛容の典型であり、まった

く「リベラル」ではないのです。


選挙結果に不満な人々による暴動を

民主主義であるかのように支持する

者すらいました。これなどは、野蛮そ

のものと言うべきでしょう。


労働者の暴力で革命を起こすべきだ

という主張を振りまいた最も高齢の

共産党員ですら、いまどきそんな野蛮

な立場をとらないでしょう。


ぜんぜんリベラルではない日本のみじめな人々にとりあうのは、もうやめましょう。その値打ちすらない人々ですから。


ところで、D.J.Trump氏が大統領になったことで、日本の何がどう変わるのでしょうか。円猿はアメリカにそれほど大きな関心を持っていませんし、予言者ぶるつもりもまったくありませんが、戦後民主主義の申し子である「自民党」が政権を維持している限り、さしたる変化はないと見る立場です。

確かにトランプ氏の大統領選挙中の発言の中には、相当、日本の安全保障や外交に関係するものがありました。でも、この人物はあくまでも政治素人ですから、高度な意思決定と緻密なプロセスを必要とする案件については、党ベースで有能な人に任せることでしょう。アメリカの内外に対して、政府の連続性をアピールすること自体が、当面の事案になるはずです。


posted by 警鐘凡打 at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする