2017年08月14日

上原多香子の不倫関連報道と公序良俗


今回は、かなり卑近な事柄についてぼやきます。ネット上ではかなり話題になっている世間を驚かす事件であるにもかかわらず、不思議なことに、地上波テレビ等ではほとんど取り扱われていない事例です。この社会的な関心を喚起しているにもかかわらず、「報道しない」姿勢を示しているマスメディアの矛盾について触れましょう。これが本題の一つめです。

二つめの本題として、今回のケースが、多くの人々が「公序良俗に反している」と判断する社会的な事例であることに言及します。男女の関係は、本来、個人的なことがら、プライベートなことがらですが、ときとして、同時代の多くの人々の倫理的判断を試金石にかけるような事例が起き、社会的な関心を喚起するケースがあります。今回の上原多香子の不倫がらみの一件はそれに相当します。公序良俗にむすびつけて、マスメディアがしっかり報道すべきだという本質を指摘します。

彼女に「私刑」を望むのではありません。そこを踏み外してはまずいと思います。公序良俗に反しているという判断と、彼女に法で定められているかいないかを問わず刑罰を与えることは別です。単なる一組の夫婦の個別事例とみなすことはできない、そういう社会的事例だということです。それでも、上原多香子のような既婚女性が、現代の日本に潜在的に多数いたとしたら、放っておくわけにはいかないと考える人も少なくないでしょう。ブログ主もその一人です。

ですが、「放っておくわけにはいかない、ではどうするか?」は別の話とします。これは、さらに一歩踏み込んだ先の議論領域なのです。上原多香子の事例については、世間の議論はまだそこまですすんでいないように見えます。あるいは、そこまで踏み込んだ議論に発展しないまま、人々の関心は終息してしまうかもしれない... とすれば、なおさら、マスメディアが公序良俗にむすびつけた本物の議論や報道を提供すべきである。 それが、ブログ主の主張です。

では、概要を冒頭で簡単に整理した上で、すすめましょう。

上原多香子とその夫は、30代の夫婦でした。夫が自殺したのが3年前だったのですが、夫自身の不妊と妻の側の自由奔放な不倫が原因となって、夫の自殺につながったということが、3年のときを経て明らかになったのです。遺書の重要な部分が明らかになっていなかったために、夫の自殺が妻の不倫を苦にしたものであったことが、世間に知られてきませんでした。夫の遺族がそのことを公表したのです。細かい事実については、ネット上で確認してください。


最初に、自殺の原因を、「妻の不倫」に一元化できないということを指摘します。

一人の人間が自殺の道を選ぶとき、そこには必ずその人の生き方や性格というものがあります。妻の不倫、即、自殺という反射的な行動だったならば、そこには夫であった人の深い悩みやその人独自の生き方を見出すのは、むしろ難しくなります。

自殺する人の人間としての「弱さ」を指摘する人も一般にはいますが、そんなことはありません。その人の生き方とその人独自の性格、そして、長い悩みのプロセスとその人の強い意志があったのです。まずは、それを認める必要があります。決して、妻の一過性の不倫によって、即、自殺の全原因とすることはできません。確かに、夫であった人は、妻の行動にたとえようのない深いこころのきずを負ったことは想像にあまりありますが、妻の不倫行動を、自殺の全原因に還元することはできないのです。


その上で、今回の本題の一つ目です。なぜマスメディアは報道しないのか。


すでに結婚しているのに、婚外で男女関係をつくった事例のうち、男性がそういう行為をした場合は、いくらでも報道されてきましたが、女性の場合には、報道が控えられるという傾向があります。これをマスメディアの矛盾ととらえている人も多いでしょう。もう少し具体的に書きます。

一夫一婦制をとびこえて無軌道に異性と性関係になる事例のうち、男性が一夫一婦制を踏み外して、妻のこころをどこまでも傷つけて平気なさまは、いくらでも報道されてきたのに、女性はそうならないのです。上原の例がそれを証明しました。この報道の違いには理由があると考えています。

女性が一夫一婦制を踏み外して、(多数の)男性と性関係になり、夫のこころをどこまでも傷つけるのは、「女性の性を解放すべきだ」「女性が自由恋愛をとことんたのしむべきだ」「弱い側に置かれてきた女性を守るべきだ」という、べき論をマスメディアが打ち出すことを従来から要請されているために、報道すらできなくなっているのではないか。それが理由だと考えられるのです。

今回の事例では、夫であった人が妻の不倫関係に深くなやんだ末に自殺に至っており、事態はとても深刻です。でもマスメディアの論理からすれば、妻=女性の無軌道な性関係によって、傷ついた一人の夫が自殺までしてしまったことはかわいそうだとしても、このような事件によって、女性の解放と女性の自由恋愛を後退させてはいけないのです。この妻の不倫を苦にした一人の夫の自殺は、女性の解放と女性の自由恋愛のためには、しかたのない犠牲だとマスメディアは踏んでいるということです。

仮に、今回の事件で、妻=女性の上原多香子の個別行動だけでなく人格に踏み込んで、その非道徳性や共感の欠如などをとことん非難する報道にマスメディアがコミットしたしましょう。そのような報道は、いわゆる戦後日本で手放しに肯定されつづけてきた「自由恋愛」に対する非難、あまりに自由奔放な性関係を何十年もつづけてきて、「どこがいけないの?」と開き直るような女性(潜在的な人口は相当多いでしょう)への非難につながるわけです。

報道の多い少ないは別として、本当のところ、「女性の性の解放」「女性の自由恋愛」を地でいく人々、マスメディアに踊らされて、自由恋愛に打ち込んで楽しんでいると信じ込んでいる人々は、あまりにも無神経で、異性にほとんどまともに共感できない人々でしょう。ここまでくれば、男性も女性も関係はありません。もちろん、そういう無神経で異性に共感できない人々どうしが、自由気ままにセックスに打ち込んでいるのならかまいません。しかし、実際には、片方がそうであっても、もう片方が全然そうではない場合がいくらでもあります。 そういう場合に、ひたすらきずつくのは、無神経ではなく、真摯に共感しようと努める側の人なのです。

「性の解放」「自由恋愛」がマスメディアにしつこく言われ続ける時代は、まだまだつづいています。露骨な性描写などで、肉体関係を前面に出して、男女の性関係を楽しめ、楽しめとしつこく説きすすめている女性向けの雑誌などが後を絶たないのです。 

ここで立ち止まって、「何かおかしくないか?」「とりあえず相手を探して自由恋愛でセックスして、で何になるの?」と根本的な疑問を大事にすることです。なかなか難しいかもしれませんが、そういう根本的な問いをもとに、友人知人、兄弟姉妹、年長の人々と議論することも考えていいと思います。別にそう考えたからといって、何もわるいことはありません。 とりあえず、若いときの何年かに自由恋愛だのセックスだのに邁進したとしても、誰でも例外なく、それが性に合うかどうかは分かりません。犠牲にするものが多すぎて、そんなことは続けたくないと認識する人も大勢いるのです。注意したいのは、そういう人の意見は多数派とみなされていません。現状では、マスメディアに完全にかき消されるということです。

やや話がそれましたが、女性の側から、自由恋愛のおかしさ、女性解放のおかしさについて批判的な意見や議論がよほど大きな動きとして出てこない限り、マスメディアの報道の傾向に変化は出てこないでしょう。

けっしてマスメディアは自己批判をしませんが、実際には、このマスメディアの「女性の権利」を推進すると見せかけた軌道が、おそらく、日本の現代のもっとも大きな問題、少子化の問題にもつながっているというのが、ブログ主の考えです。

二つめの本題です。公序良俗です。

多くの良識ある日本の人々は、いくらなんでも、今回の上原多香子の行動を「公序良俗に明らかに反する行き過ぎたものだ」と判断しているように見えます。「こんな既婚女性がいくらいたって、別にかまわない」そう判断する人は、ほとんどいないでしょう。結婚のもっともミニマムな信義に反しているからです。そのような事象として、マスメディアは正面から大真面目に報道すべきでしょう。

ただし、最初から特定の人や、特定のメディアが上から目線で「公序良俗」を振りかざすのは権威主義ととらえられるでしょう。一定の時間を経て、人々からさまざまな視点で多くの意見が寄せられ、同時代の日本の公序良俗に反していると総合的に判断される場合には、しっかりと論拠を説明した上で、「公序良俗に反している」と断じるべきです。そういうスキルを発揮できるマスメディアが現代の日本にあるとは思えませんが...

もちろん、今回の上原多香子の報道に徹すべきだなどと誰も主張しません。男性についてもしかりです。男性が一夫一婦制をとびこえて、カネにものを言わせてハーレムのような人間関係をつくろうとしたり、五体不満足下体大満足のような特殊ケースも含め、とてつもない自分の性欲を満たしてやろうと専心したり、昔のスタイルで蓄妾にいそしんだりする事例についても、ぐだぐだと際限なくワイドショー報道をつづけるのではなく、一般の人々の良識ある意見に耳を傾け共感した上で、本質をつき、「公序良俗に反している」とびしっと批判するメディアが出てきてほしいものです。

その際、マスメディアの姑息なやり方を強く批判しておきましょう。

マスメディアに同調する安易な傾向を持つ人々の意見を見せ球に使うことは厳禁であり、駄賃や日当を与えてマスメディアの主張したい意見を言わせるのはやめるべきだということです。これらの行為は、本来ならば犯罪ととらえるべきです。地上波のテレビに登場する「一般人」をよそおった人々が偏向した思想や立場の持ち主であるケース、やらせで言わされているケースがあまりにも多いことに、日本の視聴者はとことん辟易しているのです。

言論の自由を主張したり、民主主義を主張したりする前に、そもそも、こうした「やらせ」にもとづく民意の偽装を金輪際やめる必要があるでしょう。民意の偽装を根絶するための内部法規をがっちりつくり、かつ、徹底した運用をマスメディアがやるか、もしくは、自ら堂々と、国民と国民の代表に呼びかけて、立法府に「マスメディアのやらせ禁止」を法制化してほしい、自分たちはそれを運用して言論の自由を守る自信があると潔く申し出るべきでしょう。

「日本に民主主義が根付かない... 」などと得心したように主張する人々が何十年前から絶えたことがありません。マスメディアもそういう人々を喜んで登場させます。だが、民意を偽装しておいて、なにが民主主義でしょうか。その本質を徹底的に追及しなければならないでしょう。 

民意を偽装している張本人が、いくら、「民主主義が根付かない」だの、「民主主義がない」だの主張してもむなしいだけですし、他人にそう主張させても、さらにむなしいのではないでしょうか。 彼らの「民主主義が根付かない」は、単に、「マスメディアの思い通りに日本の人々が動いてくれない」というローカルなぼやきにすぎないのではないでしょうか。彼らの特殊でローカルなぼやきを一般化しようとする動きこそが、民主主義に反しているのではないでしょうか。


ラベル:公序良俗
posted by 警鐘凡打 at 01:04| Comment(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする