2014年07月18日

論点の先取りというもの

日本の国防に関して、議論がすすまない原因が少し分かってきました。どうやら、議論のやり方そのものに一部の原因があるということが 分かってきましたので、それについて語ります。その誤りとは、論点の先取 です。何だそれは...  と思われる方もいるでしょう。少しずつ説明します。

論点先取とは、議論を経たうえで認めるべき内容、認めるかどうかを議論の結果として判断すべきものを、気づかずに前提として立ててしまう誤りです。気づかず に前提として立てる場合が多いようです。中には、自分で気づいて論点先取をやって、他人を平気で騙す人もいるでしょうが、そういう意識的にやる論点先取は バレやすいし、分かりやすいのが通例です。問題は、気づかずになされ、しかも、社会的に共有されてしまうタイプの論点先取なのです。

ま ず、「日本は敗戦した」ということと、「戦前の日本政府は、国土も国民もしっかり守ることができなかった」という論点があったとします。これだけならば、 戦争の反省として議論の対象になるでしょう。日本が敗戦したのはなぜか? ということは議論できます。原因を追求することもできるでしょう。なぜ、大日本 帝国時代の日本政府は、大東亜戦争を戦うことによって、インドや東南アジアの多くの国民の独立のきっかけをつくった一方で、日本国民に大きな犠牲を強いる 結果になってしまったのか? アメリカ軍の空襲や原子爆弾によって、多くの国民の犠牲を出し、国土を焦土と化す結果になってしまったのか? これは重大な 議論のテーマであり、戦後70年近く経過して、なお議論すべきテーマと言えるでしょう。ここで、「日本は敗戦した」「国民と国土を守れなかった」 この二 つがキーになります。

次の段階に、論点先取が関係してきます。例えば、
「日本が敗戦した」⇒「国民と国土を守れなかった」⇒「国民と国土を守れるはずがない」 となると、ここに論理の飛躍があります。
日 本は敗戦したし、昭和20年の時点で国民と国土を守れなかったという結果があったかもしれませんが、その後、日本国民と国土を守れないと決まったわけでは ありません。実際に、サンフランシスコ講和条約で主権を回復していますし、日本の国民と国土を守るために運用可能な自衛隊が存在します。昭和30年代以降は、日本政府が国民と国土を守る機能を実装可能だったでしょうし、それが法的にも実践的にも実現されたならば、北朝鮮による日本人拉致という、典型的な「国民を守れない」事象は起きなかったのではないでしょうか。

では、具体的な議論を想定してみましょう。


パターン1です。日本の国防を少し考えてみたいAさん、それをやらせないBさんとしましょう。

A:尖閣諸島の領海に中国の船が入っているのは、いけないことでしょう。竹島を韓国が軍事占領しているのも、いけないことでしょう。日本は自衛隊によって国防を強化して、離島を国土として保守する必要があるのではないでしょうか。
B:日本が平和を誓うことで、周辺国とも仲良くやっていけるのです。自衛隊で国防を強化すると、それができなくなります。

A:でも、日本が国防を増強しないからこそ、周辺国は、国防と称して軍事行動を活発化させているのではないですか。「平和」など単なる自己満足だけで、戦後、周辺国の軍事活動を活発化させてきただけなのではないでしょうか。北朝鮮のミサイル開発を見ても、そうとしか思えません。
B:一部の動きにすぎません。日本は自衛隊によって国防を強化するべきではありません。

A:なぜですか。
B:日本は戦争に負けて、今があるからです。軍隊とは書いていませんが、陸海空の戦力は保持しないと憲法にも書いてありますよ。


パターン2です。日本に軍隊を通じて国防を必要とみなす人をAさん、何がなんでも国防をしないことが平和だと主張する人をBさんとしましょう。

A:自衛隊は憲法違反ではない。日本は主権国家なのだから、国民と国土を守れる国になる必要がある。それについて話しましょう。
B:自衛隊は軍隊ではありませんよ。日本には軍隊は存在しません。日本は国民と国土を守ることに失敗した。だから、軍隊を放棄したのです。

A:軍隊でなければ、海外での平和維持活動もできないですよ。自衛隊が「日本の軍隊です」と公式に表明して、軍隊の徽章をつけて活動しなければ、現地ではテロリストとみなされて、虐殺されても何も文句は言えないのですよ。
B:自衛隊は、海外での平和維持活動に参加するときに、日本の外に出た場合に限って、軍隊なのです。

A:なぜ、日本で日本の国民と国土を守る活動に従事する自衛隊は、軍隊ではないのですか。
B:日本に軍隊があると、他国を侵略することになるから、置いてはいけないのです。

A:国民と国土を守る軍隊と、他国を侵略する軍隊は、常に同じなのですか、日本において。
B:戦前にそうなってしまったから、現代の日本にもそうなると想定しなければなりません。

A:おかしいでしょう。あなたは日本国民として現に守られているし、守られた国土で生活しているのに。
B:わたしが日本国民として守られ、国土が守られているのは、アメリカの軍事基地があるからです。自衛隊があるからではありません。

A:あなたは、日本が主権国家ではないと認めるのですか。
B:そうです。日本のような過去の侵略国民は、自前の軍隊を持たないことによって国民と国土を守ってもらうべきなのです。

A:冷戦まっただなかに自分がいるかのような主張ですが、それをおかしいと思いませんか。
B:おかしいと思いません。事実、日本には米軍基地があり、それによって平和なのです。

A:日本国民を代表する政府が、今後も、自衛隊によって日本国民と国土を守れないのでしょうか。
B:日本は国民と国土を守れなかったのです。だから敗戦したのです。日本が独力で国民と国土を守れるはずがありません。

戦後の日本において、「日本の国民と国土を守り、保守する」 という主張を社会的に議論しながら作り上げ共有する仕組みが機能していない理由が理解できると思います。パターン1という簡単な会話でも全然発展的な話になる見込みはありませんが、お互いに一定の知識を持ったパターン2のケースでも、入り口のところで、議論が封じられています。

「日本の国民と国土を守り、保守する」という現代の日本の主権の最も重要なテーマに真剣に関わろうとする人に対して、パターン2のBさんのように、以下のように論駁しようとする人々が必ずいます。


 (ア)  「国民を守り、国土を保守できなかったから戦争に負けたんだろう?」
 (イ)  「多くの国民が戦火の犠牲となり、空襲や原爆で多くの罪の無い国民が犠牲になり、国民も国土も守れないと証明されたんだろう?」


これらは、2つとも論点先取の典型の議論です。戦争の結果論をつきつけているだけのように見えますが、実際はそれよりもはるかに有害な議論の妨害をしていると言えます。なぜでしょうか。

日本が敗戦した⇒戦前の日本政府は国民と国土を守れなかった⇒現代の日本政府が国民と国土を守れるはずがない

下 線を引いたところが、論点先取です。国防の議論になると、必ず、(ア)(イ)あるいは他のバリエーションの反論が出されてきますが、共通するのは、「現代の日本 政府にしたって、国民と国土を守れるはずがない。なぜなら、戦争で日本は負けて、国民と国土が守れないと証明されたからだ。」という論理です。典型的な循 環論法ですね。 「国民と国土が守れないのが日本なのだから、国民と国土は守れないのだ」  と主張しているに等しいのです。 この循環論法は実際は、無意識下でかなり手の込んだものになっており、日本の国防の問題だけに見せないように、「日本はアメリカの言いなりだ」とか、「外国へ多大な被害を与えただろう」といった論をくっつけてくる場合が少なくありません。しかし、「現代の日本の国民と国土を守る」という国防の議論に集中することは不可能ではないはずです。技術論としても可能な議論でなければならないでしょう。外国との関係は後から取り扱う論として外に出して、国防の議論を深めることがで きるはずです。過去に日本の国防を議論すべき場で、もういやというほど繰り返し繰り返し、このような論点先取と循環論法が用いられてきたでしょう。

本来、国民と国土を守るという主権にかかわる重要な議論に、一般国民がもっともっと参加する傾向があっていいはずだし、それに適した言論の場が設けられるこ とが必要なはずです。一人一人の国民にとって自分の問題ですし、自分の住む国のことですから。しかし、一般の多くのマスコミは、国防の議論をさせないよう に、最初に「戦争に負けた」=「保守できなかった」=「保守できない」という論点先取を置いてしまうのです。そうすると、どうでしょうか。「国民と国土を 守る」というのは、21世紀の日本の現実の重要課題であるにもかかわらず、「日本は、国民と国土が守れない国だと敗戦で証明されたのだから、国民と国土は守れないのだ」という論点が置かれるだけで終わってしまうのです。論点先取により、生産的な議論を作り上げる道が最初から絶たれている。保守の基本的な思想が出され議論するというコンテクストを社会的に封じていることがいかに大きな問題かが分かるでしょう。

戦 後の日本では、「日本の国民と国土を守り、保守する」ことを中心に据えた議論を組み立て共有するプロセスを放棄させる仕組みが、日本の中で強くはたらい てきた現実があったことの一部をご理解いただけたと思います。21世紀の今の日本の国防の問題を論じるためには、以上に述べたような論点先取を取り払っ て、国民の間で議論を深め、議論を有意義なものにする必要があるはずです。過去の戦争に対する反省は、重要な事柄ですが、論点先取とともに国防の議論に紛れ込ませてはいけないでしょう。国防の議論をすることは、何も日本人だけの利己主義の世界をつくるために議論するのではないのです。主権国家として自分の国の国民と国土を守る一つ一つの国が存在し、その集合体が国際社会であるというのは、まぎれもない事実です。国防は、国連憲章51条で保障された権利でもあります。とにかく、一人一人の日本 国民の命に関わり、実際に国民が生きている大切な国土の保守に関わる議論なのに、「国民と国土が守れないのが日本なのだから、国民と国土は守れないのだ」 などという乱暴な論点先取をさせてはいけないでしょう。

問題は、主権に基づいた国民と国土を守るという保守の議論が、いわば、日本の戦後社会全体の「論点先取」によって、封じられていることなのです。論点先取を見つけたら、それを指摘して、やめさせるところからはじめましょう。戦争に負けたことも事実ですし、日本が国民と国土を守りきれなかったことも事実ですが、それらの事実は、現代の日本国民と国土を守る国防の議論においては、起点にも結論にも置く必要はありません。起点にも置く必要はないのです。これがポイントです。なぜなら、それが、あらゆる「論点先取」のもとになって、議論を封じるからです。

議論の方法上の誤謬と、それに基づいた国民の議論を封じる強い傾向によって、北朝鮮による日本人拉致のような事象が長年放置されてきたのです。この拉致事件は、日本の戦後において、主権者である国民を守るという基本機能を日本政府が果たさなかった重大な事件ですが、なぜか、NHKや朝日新聞をはじめとする偏向メディアによって、その重大さに応じた取り扱いがなされていません。過去の日本政府を一方的に責めるだけではなく、メディア側が、同胞国民と国土を守るという議論を論点先取により封じてきたことの反省は一度もなされていません。日本国民の北朝鮮による拉致を、日本国民の最大の関心事として取り扱うことができないなら、日本の偏向したメディが、国防のみならず、国民の保護という点でも、「戦争に負けた」=「守れなかった」=「守れなくて当然だ」という論点先取を全社的に続けているということになるでしょう。




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2014年05月28日

イミン蝉


最近うるさく鳴いている、イミン蝉について、語りたいと思います。 イミィ〜ン イミ〜ンとほざいている人々です。期限を切った外国人労働者の受け入れと、移民は全く別の事柄である点に注意しましょう。

イミン蝉 = 「移民」 を主張するが、その論拠を説得的に述べることのできない人々

のことです。日本に、様々な国の人々が来て、日本の歴史や文化を彼らが尊重しながら、日本国民も彼らの文化や歴史を知り、共存をはかるのならいいのですが、過去20年の動向を見れば明らかなように、留学や労働で日本にやって来る人々は多様化どころか、まったくその反対に、局地化・単純化しています。つまり、シナ人、南朝鮮人という特定外国人ばかり増えているのです。その割合は、他の諸国の比ではありません。これらの二つの外国人の犯罪も大変な数です。警察庁や警視庁の統計を見れば一目瞭然です。シナ人(香港以外)と、南朝鮮人の犯罪、犯罪の中に凶悪犯罪の占める割合は驚くべきものです。

この異常さ、そして彼らの犯罪の異常さを論じないで、日本はイミンを大量に受け入れるべきだというような奇妙な主張とも言えない主張をする人々は、イミン蝉とでも呼ぶべきだと考えています。なぜ、一時的な外国人労働者受け入れではなく、イミンでなければならないのか。その論理的必然性は全くありませんね。 「日本の人口減少を止めるためだ」というのもよく聞かれる浅はかな論ですが、この論にも全く説得力はありません。なぜなら、人口を維持しなければならない理由、どの程度の人口によって何を達成するのかという理由がどこにもないからです。日本の人口は自然減に転じています。これは良くも悪くもない傾向として、いったん受け止めるべきでしょう。

多くの省庁では、日本の人口減に伴う推計を出していますが、その多くは嗤うべき内容のようです。ほんの数年前までは、人口が増加に転じない限り、日本はデフレからは脱却できないから、移民を受け入れるべきだというような驚くべき短絡的な愚論、気違いじみた論すら吐く馬鹿が世間には存在していました。 実際は、そんなことはないのです。 そして、最も重要なのは、人口というのは、その時代のトレンドや国民の傾向に依存する事象であり、ひたすら減少し続けるというような予想を立てる必要はないということです。日本の人口が、現状で1億3000万人ならば、自然減に人口が転じても、だいたい、1億人〜1臆2000万人くらいの人口を予想して、しっかり維持できる日本という国をつくればいいだけでしょう。10〜15%程度、人口が減っても、労働力や生産性に対応できるように、とりわけ高齢者の雇用を創出する必要があるのです。

高齢化社会をネガティブにとる必要は全くありません。人類が過去に経験したことのない、高齢者が人口の多くの部分を占める時代に、上手に高齢者を労働の世界に組み込むことこそが、最重要なのです。日本では、65歳以上で能力もスキルもあり、コミュニケーションも適切にでき、パソコンスキルもある高齢者の方々が沢山おられます。彼らの多くは、リタイヤする前と全く同じスタイルではなくても、仕事をしたいと考えています。その数は、今後どんどん増えるでしょう。彼らをフルタイムではなくても、ワークシェアリングの仕組みなどを活用して、様々な世代の人々とともに、やりがいのある仕事に従事してもらえる仕組みを作る必要こそ、急務と言えるでしょう。それができれば、外国人労働者や移民に依存しなければならない部分は、極めて小さいものとなります。建設現場でも同様ですよ。こういう話をすると、すぐに肉体労働は無理だろう。建設業は若い力のある外国人にやってもらうしかないだろう.... という時代遅れの意見が出てきます。全然そんなことはありません。最近では分業が進んだ建設業の様々な労働は、70歳でもゆうにできる仕事が山とあります。安全に留意して慎重に仕事を訓練すれば、人によってはもっと高齢でも取り組み、貢献できる仕事があるでしょう。日本国民の高齢者が、様々な世代の国民とともに従事できる仕事をつくることが最も重要だと改めて強調しましょう。

話を、イミン蝉に戻しましょう。イミン蝉はなぜ危険なのかという話です。この問題の核心は、移民として、日本国民=敗戦国民とみなし続けている、シナの人々、南朝鮮の人々を圧倒的な割合で入れようと想定していることです。これが一番の問題なのです。

いまだに、日本国民を「敗戦国民」として、外国人がみなすことができる状況が続いている。この状況が実は、戦後このかた、まったく改善されていません。

法や制度だけでなく、マスコミを含む社会的な仕組みすべてが、この状況を改善するようにアップデートされていない。

間違いなく、これが最大の問題です。とりわけ、反日政府の教育によって、100%勘違いの戦勝国民意識をいまだに持っている支那、朝鮮の人々が、新たに日本に来るとして、

日本国民=敗戦国民とみなした、外国人による、社会の公正に反するような不当な権利の主張、その他の様々な反社会的な行為が平然と容認される可能性こそが最大の問題

でしょう。そういう日本の主権者である日本国民への権利の侵害に対する社会的制裁やペナルティーの仕組みをつくり、反社会的な行為を排除する仕組みをつくって、まず提示するべきだと思います。

さて、実は、以上に述べてきた事柄は、多くの日本国民が気づいていますが、「戦後レジーム」と呼ばれる様々な悪弊の中に主要なものなのです。戦後レジームの国際関係における悪弊は、日本国民の一貫した戦略によって国民と国土を守るための国防を構築できないことですが、その一方で、国内における「戦後レジーム」の悪弊を一言で述べるならば、これです。

日本国民の命や権利が不当に軽く扱われ、
特定の外国人の権利が不当に尊重されている。

この事柄が、社会的な仕組みや制度を伴ってなされ続けていることが大きな問題です。その起源は、昭和20年のGHQが出したSCAPIN-33 という、シナの人間や朝鮮の人間に対し、彼らにとっていかなる不利な報道もしてはいけないという類のプレスコードに大きな原因があるものですが、NHKや朝日新聞を代表とする敗戦利得者のマスゴミは、GHQが存在していない21世紀の現代も、このSCAPIN-33を遠因とする社内の検閲によって、特定の外国人の権利が一方的に守られるように保護しているようです。

二つのケースを想定していただきたいと思います。 まず、日本国民が加害者で日本国民が被害者の殺人事件、凶悪犯罪です。この場合、加害者が成人ならば、間違いなく実名報道されますし、その人物は日本の治安の脅威となる人物だと認知される仕組みが機能します。

次に、被害者が日本国民で、加害者がシナ人や南朝鮮人、あるいは「在日朝鮮人」と呼ばれる人々である場合を想定してください。日本国民が、他の日本国民ではない外国人によって、殺害されたり凶悪な事件に巻き込まれたと想定するのです。「外国人」と言っても、どこでもいいわけではありません。この場合に、シナから来た外国人、南朝鮮から来ている外国人、誰も強制移住させたことはないのに、勝手に被害者ぶって日本に住み続けている「在日朝鮮人」を想定してください。この場合、加害者が成人であっても、実名報道されませんし、その人物は日本の治安の脅威となる人物だと認知されないように、隠蔽するマスゴミの特殊機能が作動するのです。

国内的な「戦後レジーム」という事柄の本質は、

一言でいうなら、「日本国民の命や権利が、他の

特定の外国人の命や権利よりも不当に軽く扱わ

れる仕組み」です。 

それが、最近ようやく分かってきました。その最もいい例が、拉致事件です。北朝鮮によって、日本国民が多く拉致された事件です。この事件の背後には、官公労と呼ばれる労働組合の幇助も重大な責任があります。以下の26分50秒〜29分30秒 あたりを見れば分かります。この昭和50年代の官公労の組合系の拉致協力者の一人も逮捕されていないということは、到底信じ難いことです。


しかし、拉致事件の本質には、「外国人」が一方的な加害者なのに、それを報道しないということがあるのです。どうやら、日本国民を拉致したのが「外国人」それも北朝鮮の「朝鮮人」だと分かった時点で、報道をわざとゆるくしたりやめたりする奇妙なマスゴミの行動が間違いなく過去に蓄積していたのです。円猿は、ようやく、最近になってそういうことが分かってきました。これは、日本のマスゴミによる、「報道しない自由」を行使した、明らかな日本国民に対する人権の侵害であり、外国人による犯罪幇助にあたります。外国人による犯罪幇助を、外患誘致と言い換えてもいいでしょう。日本国民の権利が、特定の外国人に一方的に剥奪される、日本国民が一方的な暴力によって殺害されることを、無言で支援しているようなものだからです。

イミン、イミンとうるさく鳴いているイミン蝉は、少なくとも以下の事柄をクリアにして、国民に説得的に説明する必要があるでしょう。とりあえず移民は不要ですから、最初は一定期間に労働者として外国人が日本で労働に従事する仕組みを立案すべきでしょう。外国人の技能実習制度は問題が多いと言われています。そういう制度にするから、特定の外国人ばかりくるという結果を生んでいるようです。ならば、別の制度を案出してもらいましょう。その程度の知的な作業をせずに、イミン、イミンと鳴くのは、やめてもらいましょう。

(1) 外国人労働者は、日本の30代までの若者の就職や日本の高齢者の再雇用によって達成できない労働市場にだけ、適用すべきでしょうから、失業している日本国民の若者に適正な職場をマッチングさせて供給する一貫した仕組みを提示してください。また、能力もスキルもある日本国民の高齢者が働くことが出来る労働市場が、どのような分野で可能かを調査して、65~80歳くらいまでの元気な日本の高齢者が労働可能な労働市場の推計を出し、実際にワークシェアリングや軽勤務という労働スタイルを用いて、高齢者が快適に働き、しかも地域や会社に貢献できる成功例を提示してください。少なくとも10程度の成功例は示してもらいましょう。

(2) 特定の外国人ではなく、多くの国々からまんべんなく日本にくるような計画を提示してください。グローバルな時代なんですから、近隣の国に偏って、圧倒的な割合の外国人が日本に来る必然性は全くありません。むしろ、シナや南朝鮮以外の地域から外国人が来るための必要な一貫した方策を説明してもらいましょう。

(3) 移民ならなおさらですが、移民でなくても、一定期間日本にきて労働に従事する外国人を万人単位で導入するという場合、イミン蝉は、人材の採用段階から、責任を持って仕事にかかわるべきです。 とりわけ、現地に、日本とその国の法律を理解し、日本国民と日本企業のことを考えた上で人材のマッチングをはかる採用チームを派遣して、採用段階からすべて仕切ってもらいましょう。そして、当初、日本で暮らす数年間については、本国に 強制送還で返すケースの条件も、二カ国で議論して、事前に決め、採用希望者に事前に説明を徹底すべきです。採用段階で、「自分は日本の国法を遵守し、遵守できない場合に、いかなる申し立てをせずに本国の費用によって本国に送還されます」と誓約させるべきでしょう。

(4) 様々な国の人々が来て、日本の歴史や文化を彼らが尊重しながら、日本国民も彼らの文化や歴史を知り、共存をはかる仕組みについて、ペナルティーや法的な対処を含めた措置を提示してください。 つまり、日本の歴史や文化を尊重できない、それどころか軽蔑しようとする、軽蔑させようとする。そういう人々をすみやかに国外退去させることまで視野に入れて提示してもらいましょう。 口で言うのは簡単ですよ。 「お互いの文化や歴史を尊重しながら、共存共栄をはかる」。本当にそれができる外国人が実際に日本に来ているんですか? それを定点観測し、検証し、不適格者に対処する法的な仕組みを提示すべきでしょう。日本国民の文化や歴史を尊重することができない。日本の文化や歴史を尊重しない分際で、自分たちの文化や歴史を一方的に押し付けようとする。そういう行為しかできない人間、そういう認識しか持っていない人間を、不適格な人物として、適切に排除する仕組みを提示してもらいましょう。



ラベル:移民
posted by 警鐘凡打 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月25日

文化交流にもの申す

いまだに、「文化」「文化」と主張するお偉方が少なくありません。日本の文化を大切に思う一国民として、かたりたいと思います。

軍事力と国防を確固としたものにすることを、「国際的ではない」「国際社会に貢献しない」「自国のエゴイズム」と捉えて、文化に関係する事柄を推進すること を、「国際社会への貢献」 「平和への礎」だと考える傾向は、いまだに日本国民の中で強くありますが、実際のところ、このような傾向自体が偏見だと思います。思考の方向性自体が、戦 後の偏見に起因していると思います。

「文化」には国境を超えて何らかの国際的な対象になる

特権的な価値があり、流通させる価値がある。国防と

軍事力には国境を超えて国際的なものになる見込みも

価値も全くない。そういう偏見

です。自分の国の国防と自分の国の文化を、なぜ、ここまで無理して別に論じようとする のでしょうか。なぜ、文化> 国防 というよう価値を決めつけて、文化を何よりも優先すべき事柄であるかのように論じ、国民に押し付けようとするのでしょうか。しかし、文化といったと ころで、現代の日本国民がどれだけ日本の文化を理解し、尊重し、発信可能でしょうか。疑問です。

日本の文化に愛着を持ってる国民は多いでしょう。円猿もその一人です。しかし、仕事上でもボランティアでも構いませんが、「日本の良い文化を外国の国民に向 けて発信してください」と誰かに命令や依頼をされたら、できるとは思えません。多くの国民が同様だと思います。なぜなら、自国の文化を客観的に評価して、 すぐれた点を他の国民向け発信するという一連の作業は、自然にできる事柄ではないからです。方法が必要ですし、訓練が必要でしょう。マニュアルの有無と か、そういう話ではなく、もっと本質的な話です。文化を伝えるというのは、深い考察と哲学が必要なことすら多いのですから。

ある文化に生きていて愛着を持って尊重していること

と、それを他者に発信することは、全く別の二つの事柄

です。この別の二つの事柄を切り分けて論じていない人

がいまだに多すぎるのではないでしょうか。

そう個人的には思います。文化を伝えようとする相手に応じた方法や訓練、機会に応じた方法や訓練もない「文化」の発信を大量にやったところで何になるでしょう。自国の文化 に愛着を持って日々生きている他の国の国民にとって、「日本の文化に感染させてやろう...」という、うんざりさせる不快な雑音にしかならない可能性があ ると思います。

自分たちの文化に自分で価値を認めることと、それを発信することの慎重な切り分けを 議論もせずに、日本のアニメがウケているようだから発信しろとか、日本のサブカルチャーを見直せとか、クールジャパンで行けとか。何を考えているのでしょ うか。さっぱり意味が分からない。そうでない、もっと本格的に見える文化事業も同様です。海外で歌舞伎を上演しろとか、大相撲の公演をやれとか。単に海外 の人々を巻き込んだビジネスモデルをつくれというのならば、文化とか文化交流などという言葉抜きでやればいいのではないでしょうか。

日本の大東亜戦争の功績を十分に認めている国民も少なくありません。第二次大戦後の「戦勝国」のプロパガンダに騙されずに、日本が戦争にコミットしたことを 直接の原因、遠因として独立を達成した諸国の国民は日本の戦前、戦中の努力を認めています。その中には、戦後に交通や情報通信がさらに発展したことで、日 本の文化に関心を持とうとしてくれている諸国民も多いでしょう。その一方で、日本の独自の文化を自国民に意図的に軽蔑させ続け、日本国民の命の価値は低い と前提にし、日本国民の命を一方的に差別する教育を平然とやっているヒューマニズムのかけらもない政府もあります。そうやって、日本の文化も認めようとし ない、日本国民との公的な話し合いと議論の場を共有できない、わざと共有しないで利得を得ようとする外国政府が実際に3つほど存在します。円猿は数少ない それらを、「三匹の特亜」と呼んでいます。三匹の子豚ではありません。三匹の子豚は童話の中で各豚それぞれが、自分を守る家を上手につくりました。「特 亜」はまったく別の輩です。それらの政府をたとえるならば、三匹の子豚に出てくるしつこい狼にむしろ似ているでしょう。

とりあえず、戦後このかた、日本独自の文化はたいして見るべきものがないとわれわれはずっと信じ込まされてきたのです。 見るべき価値は日本の外にあると信じ込まされてきたのです。日本の「国外」に、「国際」に価値があると信じ込まされてきた。実際、自分の国の文化を再認識 し、発信可能な若者を育てることに、これまで、どれだけお金と国民の関心を用いてきたでしょうか。絶望的だと思います。好きなことを追求して真剣にやって いれば、文化交流など意識しないでもきっと外国の人々も認めてくれる... そんな能天気な考えならば、勘弁してもらいたいですね。繰り返しますが、文化の受容にせよ発信にせよ、自然にできる事柄ではないのです。国民の間で共有す べき一定の方法が必要ですし、訓練が必要でしょう。それがなければ、何もできないと思います。

文化交流論者の人々は、とにかく、日本を文化の行き交う場にせよということを主張しますが、現状、日本の国民のさまざまな年齢層の人々は、自国の文化を十分に 理解する積極的な機会を与えられていない、自国の文化を尊重する理由も意識していないのです。多少経験の多い人でも海外旅行や海外留学で、日本人である自 分と日本の文化を客観化する機会を個人的に持った程度ではないでしょうか。そういう恵まれた機会を持たない国民も多いはずです。そんなところへ、いきなり 他の諸国民の玉石混交のごった煮をつきつけて、何が文化でしょうか。文化交流でしょうか。文化と文化でないものの見分けすらつかないでしょう。そのような 状態で、日本が諸文化のプラットフォームになるなどとは到底思えませんね。おそらく、控えめな多くの日本国民は日本の文化発信者になることができずに、ちぢこまってしまうのではないでしょうか。そして、自分たちの文化を日本に定着させ広めようとする外国の人々と、彼らの追従者に成った日本国民によって、自分の国に居ながらにして、一方的な文化の押しつけにうんざりさせられるような機会を持つだけではないでしょうか。日本の文化を大切にすることなく、日本の伝統的な価値 を捨て去って外国の文化に染まろう染まろ うと懸命になる日本国民であればあるほど、日本は過ごしやすい国になるのではないでしょうか。すでにそういう傾向は強くありますが、もっと傾向は強まるので はないでしょうか。何もおおげさなことではなく、外国に居るかのような錯覚に陥る国民すら、出てくるのではないでしょうか。 

日本に来る外国人の多くが、文化交流を意識して日々

生活するとは限りませんね。一部の押しつけがましく

文化を強要しようとする外国の人々の中には、こんな

主張を平然としてくるやからもいるかもしれない。

「外国から来たおれたちは、日本に居ればそれだけで

十分だろ。別に努力して日本の文化を習得しないでも。

しかし、日本の人々は外国の文化を知らなすぎなんだから、

とにかくおれたちの文化を知れ。」

「日本の文化をよそにどけて、おれたちの文化のため

に場所を与えろ」

「おれたちの文化の知名度を高めるため、おれたちの文化を尊重するために予算をつけろ。それでひと儲けさせろ」 ここまで露骨ではないにしても、これに近い主張をする外国の人々も、必ずや相当数出てくるでしょう。そして、おめでたい日本人の追従者をしたがえて、国や自治体のカネをふんだくろうとするんですよ。

外国から来る文化発信者の、推定されるネガティブな主張例を示しましたが、

こういう示威的な文化拡散者というべき外国人や外国人集団

に対する「耐性」が戦後日本には無いままということです。

この無防備さは、治安のおいても、日本の文化の維持の

ためにも、きわめて憂慮すべきものです。

特定の外国による、常軌を逸脱した誤った文化発信の仕方
日本国民の関心に沿わない、特定の外国文化の押し付け

このような行為を、何らかの指標に基づいて、他の文化交

流に関わる事案から適切に識別し、問題として適切に認識

し、説得的に国民に示し、日本国民が問題共有し、議論し

た上でトラブルシュートする。そういう仕組みも、敗戦利得者

のマスゴミの怠慢が原因で、全く築かれてきていません。

現状では、外国人の示威的な文化拡散者や、文化を理由に金儲けを企む人々は、やりたい放題です。日本国民も、「これは何かがおかしい...」と漠然と思いながら、不快な思いを何年も何年も続けることになるのです。そして、外国人が文化だと称してやっている事柄の異常さを主張しようものなら、マスゴミが「外国人に対する差別だ」「文化の共 生に反する」とか、無能な条件反射的な反応しかしない。日本国民の視点に立った長期的な仕組みのための世論づくりに必要な意見や議論を封じるだけなのです。 

いろいろと予想される事柄を書きましたが、それもこれも、主権者である日本国 民の権利を一貫して重視する仕組みが戦後築かれていないから、こんな主張が平然となされるだろう... と予想できてしまうんですよ。主権者国民が第一に尊重され保護される必要があるということです。外国人は永住者であろうと一時滞在者であろうと、犯罪しな い限り公民権は保障されますが、日本国民とは別の、格下の公民であり主権者ではない。そういう認識が共有されるだけでなく、そういう仕組みが日本国内で築 かれてきていないということですよ。結局は、日本国民を守るという国防や軍事力を背景にした国内の仕組みに行きつくのです。


まずは自国の文化を大切にする「文化」を創出するために、もっと真剣に取り組むことからスタートすべきです。日本国民の礼儀正しさ、他人を思いやる心、和を 尊ぶ心、神社参りの習慣、お墓参りの習慣 等々は、日々の日常で行われている文化とも言えますが、そういう文化を実践している日本国民は、無意識な場合がほとんどです。自分が属し実践している文化 に無意識であっては、なぜその文化に価値があり尊重するのかを、説得的に異文化の人に対して説明したり、情報発信するところまで到達できないのです。他の 国民の文化は受け身でもなんとなく「そういうものか」と受け止め可能かもしれませんが、自国の文化を尊重し、客観的に評価して、諸国民に対して発信する。 繰り返しますが、自然にできる事柄ではありません。一定の方法も訓練も必要でしょう。方法も訓練もなくチャレンジして、自国の文化を「いいものだ」「伝え よう」と思っていても、単純な思い込みで終わってしまうか、無理にやろうとしても、それこそ文化摩擦になるのではないでしょうか。

「文化」には国境を超えて何らかの国際的な対象になる特権があると、しきりに信じ込む。そういう偏見を持っている国民が多いから、シナや南朝鮮などの一部の不逞な人々や国内の売国メディアが、「文化」「文化交流」などと 称して怪しげな意図で接近してきても、その有害さを識別することができないケースが多いのです。彼らは、文化などとうそぶいているだけで、実際は日本国民に対する「影響力の拡大」「力の増大」「日本国民からの金の巻き上げ」を目論んでいる場合がほとんどです。文化交流やら文化を名目にして、一方的に日本国民から(日本政府経由で)金を一方的に収奪しようとする。そんな文化交流などは唾棄すべきゴミのようなものです。双方向ではないのならば、「交流」ではない。「交流」ならば、予算も行為も相互主義でやるものでしょう。文部科学省や全国の自治体で、こういうゴミのような文化交流にどれだけ無駄な税金が使用されてきたことでしょうか。もう終わりにすべきでしょう。文化に関する領域と文化交流を厳密に定義した上で、やるべきでしょう。

日本国民の大多数が希望してもいないのに、特定の外国政府が、単なるプロパガンダを仕掛けて、日本で影響力を増そうとし、日本国民の肌に合わない気持ちの悪い 外国の「文化」をなすりつける。それも、彼らが日本の文化に価値を認めて受容する方法が同時に示されているならまだいいのですが、全然そうではない。日本の文化の価値を全然認めようとしない、受容しない人々が、一方的にそういう低次元な「文化」を、日本国民にこすりつけようと躍起になる。ひたすら吐き気を 覚えます。完全に元を断つべきです。平時から、相手を選んで、国民相互に共感し合え、相互が金を対等に出し合い、相互にとって有用な文化交流、文化関連事業の次元を開発し、設計し、実現する必要があると思います。

それから、最後に、文化や文化交流の次元とは、「外交」の本質ではないと思います。外交の本質は、自国の国民と国土という主権を守る ための、力の行使の設計であり国防の設計を元にした諸外国政府の調整の場でしょう。平和は、力の行使が暫定的に停止しているだけの状態でしょう。文化レベ ルの情報発信にこだ わって、まともな方法も訓練も磨いていないのに、「日本を理解してもらおう」「日本の発言力を増そう」... そんなことをやっていても、結局は、冷戦下の日本のまんまになってしまうと思うのです。つまり、文化の情報発信にこだわって、上手くいかなければ、結局、 「日本の良さを理解してもらえないのは、日本が悪いからだ」という自虐的な認識に陥るだけではないかと思います。軍事力と国防を確かにすることによって、 他の諸国と同じテーブルにつくことが可能になる。そういう領域が外交でしょう。

軍事力と国防についての確かな視野を持たずに、

政府のレベルを離れた民間外交だ文化交流だなどと息

巻いてがんばっても、結局行き着くところは戦後民主主義

の自国文化否定、日本国民であることのコンプレックスで

はないかと思います。文化にこだわろうと決意するのは

いいですが、結局、自分たちの文化への懐疑や否定に

落ち着いてしまうのならば、パラドックス以外の何もので

もありません。もうそういう馬鹿げた回り道は必要ないは

ずです。

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2014年05月23日

「平和憲法」という呼び方をもうやめるべき時


憲法 constitution の件で、かたりを追加します。前回もかたりましたが、今回は、「平和憲法」という呼び方をやめせんか、という話です。憲法は、単体の「憲法」という呼び方で行きましょう、という話です。実際、世界のどこの国に、憲法に「平和な」などという語をくっつけている国があるでしょうか。

「平和な pacific 」などという形容詞をつけて、自分の国の憲法を語らなければならないような、奇妙な言語空間を形成している国があるでしょうか。

とにかく、 「平和な」という語は、憲法にくっつけることで、抽象的な理念を示すだけでなく、日本国民の自衛や防衛のための議論を封じ、自衛や防衛をやりにくくさせるだけなのです。 「平和」とは、国家間あるいは国民間の考えうるあらゆる戦争が無い状態、何も争いのない状態を示す語ではない点も指摘しましょう。平和とは、自衛を忘却し、外国との間のどんな細かい争い事も、あたかもないかのように認識しようと努めるための概念ではなかったのです。

英語だけに話を限定しますが、そもそも語源から見れば、「平和」という語は、争いをやめるとき、戦争をやめるときに使用された語です。

17 世紀のウェストファリア条約は、別名 Peace of Westphalia(ウェストファリアの平和)です。争い合っていた当事者同士、戦争していた当事国同士が、争い事や戦争をやめるときに、和平をむすぶ (make peace)という言葉を用います。 だから、戦争と平和のうち、人類の歴史の中でどちらが優勢だったかと言えば、当然、「戦争」の方です。何らかの原因によって戦争が起こり、それをやめましょうというときに、「平和」が持ち出されたというだけです。

戦争がまったくない状態が優勢だったら、そもそも、「平和」という語は発明されなかったでしょうから。戦争も争い事もなくて、戦争の観念さえ形成されない。遠い遠い牧歌的な、はるか昔の黄金時代を想像するのは自由ですが、そんな時代には、「平和」という語もなかったでしょうし、「平和」の観念自体が存在しなかったでしょう。

そんなわけですから、憲法 constitution に「平和」という語を無理やり付けて呼ぶということは、すなわち、戦争をしつこく関係づけるということになるでしょう。しかも、問題なのは、あまり意識もせずに、国民が「平和憲法」などという語を用いることによって、日本国民自身を過去の特定の戦争だけにしつこく関係づける結果をもたらすことです。数千年の歴史のある日本の国民、さまざまな道徳的資質や重要な価値観や文化を継承してきた日本国民のもっとも重要な価値を成文化するはずの憲法 constitution なのに、しつこく特定の戦争を関係づける。しかも日本国民の価値観や視点で関係づけるのならまだいいですが、そうではなく、いまだにGHQと同一化した視点によって日本国民の考え方や価値観を一方的に拘束し、自縄自縛状態をつくり続けるということを意味します。

「平和」とは停戦状態とか休戦状態の長時間バージョンでしかないのに、その程度の認識もなく、なにやら全てを犠牲にしてしがみつく価値があるかのように「平和」を吹聴する。

なぜ「平和」が必要か必要でないかを議論する視点など全くなく、冷戦後の時代の要請を考慮せず、周辺国の軍備増強や国際法違反などを考慮せず、地域の勢力均衡を考慮せず、国民と国土を日本国民が守るという本質的な議論から逃げ回り、その結果、日本国民の行動や言論を束縛することになるのです。馬鹿馬鹿しいにもほどがありますね。最近は、そういう卑しい平和イデオロギーに脳を侵食された人々が、なんと、GHQの作成した「憲法」をノーベル賞候補になどという運動をやっているということも耳にします。馬鹿の標本としか言いようがないですね。彼らのようなイデオロギー思考、古ぼけたメンタリティ、ベクトルのずれまくった思考様式と行動様式によって、日本の国民の意志と力によって日本の国土と国民を実際に守る仕組みがつくれるわけがありません。未来に負の遺産しか残さないことは間違いないでしょう。

このような人々の有害さを、さらに指摘しましょう。

彼らはなぜ、自衛隊の災害復旧活動と日本国外での平和維持活動を認めているくせに、自衛隊による国防に反対するのでしょうか。まったく意味不明です。彼らはなぜ、日本の国民と国土を守るために必要な軍事力を計算したり議論したり装備したりする、国防のための一連の知的プロセスに参加しないのでしょうか。

なぜ、国防のための軍事力の必要性の議論すらせずに、一方的に反対するのでしょうか。意味不明です。冷戦下でアメリカの核の傘下にあってはじめて主張可能だった「非武装」を、今頃になって執拗にまだ主張し、馬鹿げた平和ぼけのデモなどをやる。そんなことをやったところで、いったい何が可能となるのでしょうか? 過去60年程度の期間、シナや南北朝鮮という周辺国の軍事力増強にひたすら貢献しただけの平和イデオロギーの中に、この先生まれてくる国民へ継承する何の価値があるでしょうか? そんなのは、もう終わりにすべき時なのです。

つらつらと述べてきましたが、以上のような様々な理由から、

憲法は、「憲法」と呼ぶことだけがふさわしいのです。 憲法に何らかの形容詞をつけて、理念を体現するものであるかのように装う必要もないですし、たった一つの理念で憲法がつくられているかのように観念する必要はないのです。

そんなことをしても、イデオロギーをかつぐだけで、有用な結果にはつながらないでしょう。自衛に関する考え方、戦争に 関する考え方、戦争を中止して平和をもたらす考え方、すべては、国民が長い時間をかけて形成してきた事柄ですし、過去数千年の間の様々な歴史上の事実を考 慮に入れ、また、常に固定的ではなく徐々に変化する周辺諸外国の自衛や対外関係、軍事に関する動向を考慮に入れ、大いに議論すべき事柄なのです。そして、 過去の日本国民、現代の日本国民、さらにはこれから生まれてくる未来の日本国民に配慮して、議論し方針を決定すべき事柄です。

もう一度、今回のかたりの要点を繰り返します。最初から憲法に、戦争に関連づけられた語源であるつまらない「平和」などという語をくっつける必要は全くないのです。その程度の安っぽい観念でしかない「平和」をイデオロギーにして、過去の同胞国民を一方的に悪い人々であったかのように決めつける必要は全くないです。「平和」をイデオロギーとして用い、日本国民の国防に関するさまざまな議論を封じることは、その先に、国土や国民を守ることを通して維持されるはずの主権者国民の権利すら無視することにつながるでしょう。拉致事件がその典型です。ここまでくれば、「平和」のイデオロギーは日本国民にとって有害以外のなにものでもありません。

日本の国土と国民を日本国民の意志と力によって効率的に守る、計画的に守るための独自のコードとポリシーを設計すべく議論する必要があるでしょう。本質的 な議論を日本国民の中で構造的につくりあげることができれば、アメリカとも実務的な協議が可能になってくるはずです。自衛隊の暗号や敵味方判別システム を、全面的に米軍のものに依存する現状は終わりにすべきでしょう。日本には十分な技術があるのですから、技術を発揮し、少なくとも、日本の自衛隊独自の暗 号と敵味方判別装置を構築し、その上で、米軍のシステムとの連携を設計する必要があるのです。米軍のシステムからの切り離しが全く設計されていない現シス テムは異常と言うほかないでしょう。

posted by 警鐘凡打 at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月03日

5月3日という日に憲法改正と国軍について


憲法改正、新たな憲法制定についてかたりたいと思います。
というのは、毎年、5月3日になると、憲法改正の話が出るのですが、どうも保守と呼ばれる人々の、憲法改正の議論に同意できない点があるからです。 

憲法改正をすべきだ、という主張をする人々の論拠は、過去長らくの間いつも同じです。円猿が良く知る過去20年程度においても、いつもこれです。

「敗戦憲法だ」
「占領下に、GHQがつくった不当な憲法だ」 

この論拠自体は、まったくその通りです。それを少し長くなるが説明しましょう。日本では「終戦」を8月15日とする認識が広く共有されていますが、この認識は間違いだからです。間違いと断言できます。なぜならば、昭和20年8月15日に、個別の戦闘が終わっただけで、停戦条約も結んでいませんし、ましてや、平和条約も結んでいないからです。平和条約が発効するのは、昭和27年4月28日です。

要するに、昭和20年8月15日のあとも、戦争状態は続いていたということです。潜在的な戦争状態です。 「日本は戦争を終わりにします」と宣言したのですから、日本が相手国に仕掛ける戦争ではなく、日本の国内で何か事が起きたならば、GHQや連合軍が一方的に、日本の制度を破壊したり日本国民を殺害したり傷をつけたりする戦争状態が潜在的に存在しつづけたということなのです。

実際、戦争状態が続いていたからこそ、GHQはMilitary Tribunal という軍事法廷(これは東京裁判と呼ばれることがありますが、決して裁判ではありません)を組織して、マッカーサーがいきなりつくりだした裁判所条例(Charter)に基づいて、多くの日本国民に死刑を宣告して、実際に殺害をしました。GHQは日本の多くの制度を破壊しました。内務省を解体しました。財閥を解体しました。数千人におよぶ公職追放を行いました。日本の教育の伝統に合わない教育委員会をつくりました。数千冊の焚書をおこない、ひどい検閲を行い、さらには「真相はかうだ」などというプロパガンダ放送をNHKに流させ、独断的なプレスコードSCAPIN-33の体制を敷いて、日本国民の言論の自由を封殺しました。戦争状態が続いていたからこそ、昭和20年以降、横浜で、東京で、大阪で、佐世保でアメリカ合衆国軍人による、大規模な強姦が起きました。戦勝国の武装した軍人が一方的に日本国民の女性を犯すという許し難い行為が行われていました。この間のドキュメンタリーは、『日本の貞操』蒼樹社という昭和28年5月に出た本を読んだら分かります。

S28teisou.JPG

「昭和28年」の意味を多くの読者は理解されるでしょう。そうです。サンフランシスコ講和条約が発効する昭和27年4月28日まで、GHQは、プレスコードSCAPIN-33によって、日本女性の米兵による強姦被害をすべて握りつぶし、公論に訴えることを封じていたのです。人間の尊厳に真っ向から反対する占領制度と言えるでしょう。この本の目次だけ見ても、昭和20年は「終戦」では全くなかったということが、確かに理解できます。日本の女性たちの占領下=戦争状態における筆舌につくしがたいつらい思いが伝わってきます。
第一部 死に臨んでうったえる
第二部 私は誰に抗議すればいいのか
第三部 妻となった私の苦悩をこえて
第四部 私の生涯を踏みにじったもの
第五部 日本の貞操は奪われている

GHQは、以上のような狼藉をやったあげくに、「日本国憲法」まで勝手に作って公布させたのです。日本の憲法学者をカネで買収させ、コンメンタールなどまで書かせる周到さでした。これらは、戦勝国の代表を自任するGHQの人々の感情的な対応と言えるものでしょう。自分達の感情に基づいて、日本国民を殺させ、日本の世論を不当に操作しようとし、日本の国力が弱くなるような介入をやったのです。

アメリカ合衆国という国は、第一次世界大戦前まで400年ほど続いてきた、最高権力者どうしの戦争のやり方を著しく歪曲しました。特に勝ち負けが決まった後のプロセスを著しく歪曲したのです。簡単に示せば以下のようになります。下線を示したところが、不当に相手国にダメージを与え、普遍的な人権にも著しく反する部分です。「軍事法廷、制度の破壊」のところに注目してください。 この段階で、「憲法」までつくって公布させるというのが異常なことなのです。

勝負の趨勢が決まる→ 停戦もしくは休戦交渉→ 停戦条約→ 平和条約

勝負の趨勢が決まる→ 停戦に応じない→ 相手国の国民の大量虐殺→ 降伏させる→ 占領→ 軍事法廷、制度の破壊 →平和条約

とにかく、戦争中だという理由のみによって、相手国の国民の大量虐殺、そして、その後の占領や軍事法廷は、人権にも国際法にも反しています。東京大空襲、広島や長崎こそ、人道に反する罪なのです。東南アジアやヨーロッパのどこの国に行っても同じような世論が支 配的ですが、20世紀の代表的な大量虐殺は、ナチスと広島・長崎の原子爆弾です。円猿は、広島と長崎だけではなく、東京大空襲をはじめとする大量虐殺も国際的にもっと知られる必要があると考えています。要するにナチスとアメリカ合衆国のやったことこそ、人道に反しているということなのです。戦闘員 ではない、一般国民をあらかじめ大量虐殺することを意図し、実際に虐殺したのですから、当然の認識でしょう。だが、一部のヨーロッパの諸国では、アメリカ が戦争に参加して解放してもらったという認識があるために、おおっぴらにこのことを主張できないままだというだけなのです。彼らも内心は分かっています。

まあ、そんなわけで、憲法改正すべきだと主張する人々の論拠は正しいのです。これは感情論ではなくて、事実に基づいた整合的な判断として正しいと言えるでしょう。したがって、5月3日に記念すべきものは特になにも無く、占領時に不当にGHQが作成して押し付けた「現憲法」改正の実現プロセスに向けて動くべきだという主張は分かります。

問題は、その先です、憲法改正のプロセス、憲法改正の主旨、憲法改正後の軍隊の性格づけ、こららの点において、保守の一部の人々は、不思議なくらい陳腐化した内容にとどまっています。多くの保守の論者の人々は、憲法改正を主張されますが、彼らには憲法改正のプロセスに関するアイデアが十分にありません。お決まりの政党談義をやるだけです。ジミン党は自主憲法制定を言っていたが、やらなかったとか、シャミン党とかキョーサン党という改憲反対の人々と妥協していたとか、そういう使い古したぼろ雑巾のような分かりきった話をしつこくやる。もういいんです、そんな話は。聞き飽きています。プロセスを提示してくださいよ。なんで、それをやらないんですか。まだ20代〜40代の青壮年の主張なら、「これからあなたが一線に入ってプロセスをつくりなさい」という話になるでしょうが、もう、50歳代とか60歳代の人々が、そんな話をしたって、老人の繰言にすぎません。そんな漫談のような話を何十年やり続けるんですか。 挙句の果ては、随分と歳をとってから、日本国民が愚かだから憲法改正ができなかったというような主張をされる方さえいます。そんなに賢明ならば、あなたが実現すればよかったじゃないですか。日本国民を愚民扱いするのは誰にでもできます。そういうのは、怪しい戦後知識人の主流の傾向ですらあります。自分がなぜできなかったかを検証して、後の世代に引き継ぐべきでしょう。

また、憲法改正の主旨や、憲法改正後の軍隊の性格づけもとても同意できないものです。彼らは、議論を大いにやって、日米安保見直しをやり、憲法改正をやれと主張します。しかし、比較的多くの論者が、「自衛隊は国体を守るものだ」「自衛隊を天皇陛下を守る軍として定義せよ」 というような話を最初に置いてしまうのです。この点が、円猿には理解できないんです。説明しましょう。

国体も天皇陛下もきわめて重要ですが、日本の国軍たるもの、「国体」「天皇陛下」を守るだけの存在だ、と言い切ってなぜ平気なのか、それが理解できない。これは、古ぼけた復古的な議論ではないでしょうか。なぜなら、時計の針を大東亜戦争前に戻して、日本の兵士たるものは、「国体と天皇陛下のために死を覚悟せよ」ということだからです。 これが21世紀の現代の日本の国軍の要件として妥当でしょうか。円猿には、まったくそうは思えません。保守の論者の方々が、もし仮に、日本の対外的な戦争の歴史や伝統において、天皇陛下をお守りするということを通して、実は、陛下や皇室だけでなく、日本の国民と国土がしっかり守られてきた事の方が多かったのだから、「国体」「天皇陛下」を守るという体制で軍隊を再定義すれば、日本の国民のためにもなるという主張ならば理解できます。しかし、国軍が守る対象として、国民も国土も全然入れることなく、「国体」「天皇陛下」だけを守るなどという主張は、あまりに不可思議というべきです。

「主権」に関する十分な知識なく議論しようとしても、議論にならないということです。国土と国民という「主権」を守るという定義をしないで、ひたすら天皇陛下を守る国軍を作れば、自動的に、国体も守られるというような主張は、楽観論にしか見えません。なぜ楽観論かも説明しましょう。今上天皇陛下は戦争を経験され、戦争の悲惨さ、戦後の占領の悲惨さを知りぬいておられる。それだけでなく君主としての徳も備えておられるでしょう。しかし皇太子と呼ばれる方はどうでしょうか。彼は、自分の誕生日に、平然と「平和憲法(=現憲法)をこれからも尊重する」などと言い放っています。保守の方々が、日本の国防とは天皇陛下を守ることによって国体を守るのだ...と言っていながら、未来のある時点において、時の天皇陛下の方から、「そういうのはやめてください。GHQのつくったヘイワケンポーでいいのです」と拒否されたらどうするんでしょうか。誰が時の天皇陛下に対して教え諭し、あるいは議論し、認識をあらためさせるのでしょうか。無理でしょう。なぜならば、一般国民は天皇陛下に対して、教え諭したり、議論したり、認識をあらためさせるなどということは絶対にできないからです。このようなことを考えると、保守を自任する一部の人々の、議論のもろさが見えてきます。

円猿も保守です。こちらは、日本国民の少なくとも千年以上の伝統には、天皇陛下をいただく君主政治の徳だけでなく、実は共和主義的な徳もあるのではないかということを示唆したいと思います。 もう馬鹿な市民革命を主張する時代は完全に終わりましたから、このような主張をしたところで、「なにぃ、お前は天皇陛下を退位させろというのか!」「なにぃ、お前は天皇陛下の存在を否定するのか!」という条件反射的な反応をする人物はだいぶ減ったでしょう。誤解しないでください。君主政治か共和政治かという二者択一ではないのです。これから先、共和主義にしろなどという主張も円猿はしません。天皇陛下がいたから、ただその一点のみによって、日本国民がひとしなみに平等で、お互い共感し合えたわけではないと言いたいのです。もちろん天皇陛下がおられた伝統は非常に大きいことは間違いありませんから、なんとしてもそれは守るべきでしょう。しかし、日本国民が、この日本に長い間住みつき、地震や台風をはじめとする多くの災害に立ち向かう中で身につけてきた、自分と他者に優劣をつけずに、互いに共感し合う姿勢、相互扶助の文化は確実にあるのではないか。そう考えるのです。

「民主主義」という言葉がありますね。これは、とても新しい制度的な価値であり、第一次大戦前までネガティブなものでしかなく、また、「民主主義」がナチスを生んだのです。円猿は、こういう近代を騙るあやしい仕組みをイデオロギーとして信奉する必要はないと考えています。「民主主義」を騙る人々に限って、天皇陛下や皇室を不用だなどと決め付けますね。なぜでしょうか。民主主義=新しい価値=戦後民主主義 という馬鹿な図式がまだ通用すると考えているからです。 馬鹿そのものです。新しい制度を次々に採用していれば、どんどんよくなると他人に信じさせようとする馬鹿だからですよ。そういうやからには注意しましょう。そういうやからは、実は、「新しいかどうか」だけの判断しかできないのです。本当に日本国民が何を必要としているのか、日本国民が伝統にしたがって大切に守り継承しなければいけないものは何か、そういう「価値判断」がまるでできないのです。「新しいかどうか」だけを判断できるが、伝統や制度や文化が重要かどうかの「価値判断」ができない。そんな判断なら、あなたである必要はありません。機械にでもやらせればいいんじゃないでしょうか。とにかく、価値判断ができない人物、価値判断を理由を含めて説得的に語れない人間が、他人がかかわる事柄に口出しするのはやめた方がいいし、日本国民という集団の過去・現在・未来がかかっている領域に立ち入るのはやめるべきです。新しもの好きな彼らには、新着商品のレビューでも書かせていればいいんです。

重要なのは、日本国民、日本人が数百年、あるいは千年以上日本の地で身につけてきた、国民相互に共感し合い、協力し合うことのできる長所を、どう表現するのが適切なのかということです。制度的なものではありません。伝統的な道徳的資質です。ここでは、それをとりあえず「共和主義的な徳」と言っておくだけです。もっと理解しやすい言い方があれば、それでいいと考えています。ただし、この日本国民の徳は、天皇をいただいて身につけてきた日本国民の思考様式や道徳的判断と同じくらい重要だと考えますので、それに相応しい呼び名が必要でしょう。それも、「民主主義」以外の呼び名です。

日本国民が戦後の短い期間ではなく、これまで長い間に身につけてきた長所として、現代の世界の諸国民において見られる、君主政治をいただく諸国民に見られる長所(徳)も見出され、また、共和主義政治をいただく諸国民に見られる長所(徳)も見出されるということです。実際にそうではありませんか? 日本の国民は、君主をいただいている国へ行っても、その国の仕組みを非常によく理解できるし、君主が敬われることで国民のモラルが保たれる理由を深く理解することができ、また他方で君主の腐敗の可能性についても理解できます。そして、日本の国民は、君主をいただかない共和主義の国で、平等な公民どうしが共感し合い、議論して物事を決めていくという仕組みも理解できますし、共和主義だと言いながら一部の一握りの人々が圧倒的な富を手中に収め権力を振り回す異常さについても、その悪性を非常によく理解できます。ここで重要なのは、日本国民のこの二つの長所が、いきなり戦後に形成されたのではなく、日本の古い伝統において形成されてきたのではないか、ということです。そういう認識を共有できなければ、馬鹿な安易な人間が、天皇陛下をなくせとか、またぞろ主張するでしょう。円猿はそんなことは主張しません。
 日本が君主制の制度的基礎と共和制の制度的基礎の両方を兼ね備え、それらを混合した制度の伝統を持っているという思想は、とっぴでも何でもありません。制度と呼ばずに、慣習でもかまいません。このタイプの考え方は、実はヨーロッパの政治論・政治思想の古い伝統に接合させることも可能なのです。それは混合政体論gouvernement mix / mixed constitution という議論領域です。少なくともアリストテレス以来確立され存在している議論領域です。政体は、君主制か共和制の二者択一ではありません。幾つかの政体のメリットを組み合わせて、その国に適した最良の政体が形成されてきたという解釈も十分成り立つのです。もはや古ぼけたとしか言いようのない近代の誤った思想、誤った思想史観が、とにかく暴政を敷いた君主を追い出して市民が革命を起こし民主主義を確立するように世界は動いているし、動くべきであると決めつけているために、君主制→民主制という不可逆的な歴史の時間が進んでいるかのようにわれわれは支配され続け、錯覚しているにすぎないのです。いくらでも君主制と民主制を両立させる議論を深めることができるし、それを日本独自の思想において深めることも可能でしょうし、ヨーロッパの政治思想の伝統と関係付けて深めることも十分に可能なのです。近代の民主主義など別に最良の制度でも何でもありません。純化され最高に機能的にはたらく民主主義の制度など別にありもしません。混合政体論の議論を掘り起こし、「天皇陛下というヨーロッパ流に見れば皇帝に近い精神的権威が存在しても全く問題ではない」「君主制のよい点と、古くからある共和制的な要素を両立させることができるはずだ」と議論することはいくらでも可能なのです。むしろ、そういう混合政体系の議論がぜんぜんなされていない戦後の思想が異常だと円猿は考えています。

まとめですが、日本国民は、君主を持つ国民の良さももっているし、そうでない国民の良さも持っている。しかも、長い伝統の中でそれを持っているのではないか、ということです。したがって、憲法改正が国軍を再定義するものであったとしても、その国軍のミッションは、天皇陛下と国体だけを守るのだけで満足すべきではないということです。それで満足する人間は、日本の国土を保守できないでしょうし、日本の国民の生命や財産を保守できないでしょう。日本国民と日本の国土を大切に守る。そういう内容も最重要視すべきではないでしょうか。そのことが、将来の日本国民に国防の大切さを伝え、天皇陛下と国体を守る精神を通じて、国民と国を守るという事柄の本質が継承されていくきっかけになるはずです。日本国民の北朝鮮による大量拉致のような悲惨な事が二度と起きないように、日本国民を大切に守る。そのような事が自衛隊のもっとも重要なミッションになってほしいと願っています。

posted by 警鐘凡打 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月01日

NHK解体のプロセスについて 其の四


具体的な解体プロセスを語ります。今回は、其の四です。ちょっと足踏みですが、今回は、第五段階と第六段階を論じたいと思います。


第一段階 : NHKの現体制の全ポスト(職位)を精査し、暫定ポストを選定した上でリストラを実施。
第二段階 : NHK内に不当に常設されている外国放送局、外国放送局の関連事務所を排除。
第三段階 : NHKの関連株式会社への、受信料を用いた決済、取引を一部停止
第四段階 : チャンネル整理。

--- ここまでは、NHK解体のプロセスについて 其の三 で論じました。

第五段階 : 公共放送の「ミニマム領域」の定義とコスト算定、更新設計と定期的な更新、業務内容の標準化

第六段階 : 受信料に関わる法律の完全な改正。受信料歳入管理組織(NHKとは完全別組織)の立ち上げ。放送法64条を抜本的に改正します。NHKが受信料契約を「みなし契約」と解釈し、ひたすら集金だけをすればよいという「契約」を著しく制限した営業形態に終止符をうつため、現行の64条を全面改訂して、国民視聴者に「契約の自由」を認める法規定を導入します。国民視聴者の側に立った「契約の自由」を認めることによって、はじめて、この放送法が、民法との整合性を得ることになるでしょう。それが、消費者保護を重点施策とする、現代の日本の行政の目的とも合致するのです。

チャンネル整理をした後に、すみやかに、公共放送の「ミニマム領域」を議論し、定義します。実は、解体プロセスに入る前に、国民の代表者が、公益とは何か? 公共放送とは何か? を議論しています。 その概要は、NHK解体のプロセスについて 其の二で説明しました。解体プロセスの前に、「公共放送」を議論し、とりまとめた上で、実際の解体プロセスを、第一段階〜第四段階まですすめ、チャンネル整理を行った後に、今度は、「ミニマムな公共放送」の領域を「定義」します。公共放送の全面的な定義をやろうとすると非常に細かい規定が必要になり時間もかかりますから、全部やろうとせずに、この解体プロセスの第五段階で、まず、「ミニマムな公共放送」を定義しましょう。 その作業主旨は、公共放送の中で、国民と国土を守るために必要不可欠な各種情報の提供を適切に行う領域のみに限定してコストを算定し、業務を標準化するということです。NHKは、これまですべての放送内容を混乱させ、国民と国土を守るために一体なにが情報として不可欠なのか切り分けする仕事をサボり、国民に分かるようにそれらを提示することをサボりつづけてきました。

第五段階では、国民と国土を守るための公共放送のミニマムな領域を定義します。具体的な放送機能と設備、さらに運用のための作業プロセス、必要な人員・コストを算定します。その定義と機能とコストは、定期的に、国民の利益代表者(NHK解体のプロセスについて 其の一で出しました)の会議体で議論し、内容を更新するための、「更新設計」が必要なのです。この公共放送のミニマムな部分を確定し、それを国民共通の利害と一致させることで、限られた予算で国民が必要とする最小限の公共放送とは何か? が国民と共有可能になるでしょう。 

現状では、「NHKが制作したもの」

が、異論の余地なく公共放送にな

ってしまっています。

公益にかなうとNHKが主張して

制作すれば、その内容がいかな

るものであっても、公共放送とし

て通ってしまうのです。

そういう異常な現状は完全に打

破する必要があります。



国民が公共放送を定義し、議論

する会議体を持ち、NHKの放送

内容が、実際に国民が定義した

「公共放送」に適合的かを判断す

るプロセスをつくれば、十分に可

能となります。



それから、さらに悪いことには、「受信料収入の予算があまっている、番組枠があるというだけの理由で、公益にほとんど関心がないか関心が薄い外の製作会社に制作を依頼されたすべてのもの」は、すべて否応なしに公共放送になってしまっているのです。これが最悪なのです。国民にとって不可欠な公共放送の部分と、そうでない部分を、明確に線引きすることをせず、国民にもさせない。そうやって、NHK内部の恣意的な判断で、公共放送をやりたいようにやる。公共放送を定義せずにやる。


NHKは、防災も報道も娯楽もす

べてを混乱させたまま、明確な

優先順位を国民に示さないまま

に、自分たちが提供する番組なら

ば、すべて必要な公共放送である

かのように一方的に制作し、国民

に押しつけ、巨額の予算を消化し

て平然と居直ってきました。

こういうことを平然と数十年も行っ

てきたのです。限られた国民の

「供託金」で必要不可欠な公共放送

の領域をつくり、守るという意識が

欠落し続けてきたのです。



これは、国民の供託金とも言える受信料を預かる集団としては、まったく不十分なモラルでNHKが組織運営されてきたということの何よりの証拠です。

国民と国土を守るための、緊急時地震速報や防災報道、災害情報、公共交通網に関する情報、甚大な被害をもたらす可能性がある気象情報(平時の気象情報はミニマムな放送の領域外でよい)、日本の国土の保全と国民の生命自由そして財産に関わる権利に関係のある国内政治の動向調査、日本の国土と国民の権利の侵害に関係する可能性のある、外国の法令や外国の動向に関する分析や調査。これらがミニマムな公共放送のだいたいの範囲内となるものです。あとは、いったんミニマムな領域ではないという、「ミニマム外指定」をした上で、あとから分類すべきカテゴリを論じればいいのです。「娯楽」があってもよいし、「教養」があってもよい。解体プロセスの中心には無い事柄なので、解体プロセスが済んでから具体的な議論をして取り扱うでしょう。 ここではとにかく、「ミニマム外指定」をするプロセスが必要です。

「ミニマムな公共放送」と判定し、定義した領域についても、一度判定して、あとはすべて放送事業体の好きにやらせるのではなく、着実に更新設計をしたうえで、更新のプロセスを定め、3年もしくは5年周期で、領域を部分的に定義しなおすか「再定義」し、具体的な放送機能と設備、さらに実運用のための作業プロセス、必要な人員・コストを算定して、国民に公開すべきでしょう。変更点をすべて明らかにし、変更の理由も含めて国民に公開する必要があります。

この第五段階において、さらに重要なのは、ミニマムな公共放送領域の業務を「標準化」する作業をするということです。この「標準化」をがっちりやりましょう。国民(および日本に一時滞在する公民としての外国人)が必要とする最低限度の公共放送領域を定め、そのコストを算定し、維持や運用のために必要な要件を議論し、それらを更新可能とするだけでなく、ミニマムな公共放送の業務を「標準化」するということは、すなわち、NHKでなくても国民の信託を受けた組織が同業務を遂行することが可能となるということです。ただし、この業務は国益に関わる最重要業務ですから、一般競争入札で外国企業が入札することはできません。当然のことです。日本国民と国土を尊重するという活動実績のある組織だけが入札可能であり、業務に従事する場合にも担当企業が独自の方針で実施することはできない方式にします。そして、一般国民の利益代表者や立法・司法・行政の利益代表者とともに放送内容に盛り込む価値を議論し、番組内容を策定し、番組について承認するプロセスが不可欠です。ミニマムな公共放送をコストとして可視化することによって、日本国民と一時滞在の外国人が、いわばメンバーとして参加するための会費≒受信料を算出することが可能となるでしょう。 その価格は、現在の受信料と比較して、とてつもなく低い額に設定可能になるはずです。世帯あたり年額で上限2,000円を超えることはあってはならないでしょう。高齢者は過去数十年に渡って高額な受信料を支払っています。受信料を40年以上支払った実績のある世帯で、かつ、70歳以上の高齢者世帯からの徴収額はゼロにすべきでしょう。彼らはもう受信料を支払いすぎていると言って過言ではありません。

都会や地方の年収200〜300万円程度の世帯の高齢者の方々が、高額の受信料を一方的に徴収され、平均年収が1200万円を超えるNHK職員をやしなってあげなければならない理由は一つもないはずです。高齢者世帯だけではありません。若者の単身世帯や、低所得の核家族世帯なども同様です。半強制的な受信料によって、「公共放送」を名目に、自分より5倍も6倍も年収の多い人々を、しかも1万人規模でやしなわなければらないなどという重すぎる義務を負っている国民は、世界広しと言えども、日本しかないでしょう。公共放送は限られた人員規模で、一般国民と同等の年収に近い人々が担うことで、はじめて国民の負担を要請することができるはずです。圧倒的に高額な所得の人々を大量に雇っている団体が、「公共放送」をかたって、自分たちの組織の現状維持のために一般国民から受信料を脅し取る。現在、NHKはそのような状態に限りなく近くなっています。本来、公共放送を担う側の人々も、自分と同等の年収に近い一般国民の生活や境遇に共感しながら、公共放送とは何かを考え、追求することが可能となるはずです。一般国民が想像もできないような年収と境遇を享受している人々が、一般国民に共感することは無理でしょうし、一般国民の利益を考えて公共放送を構想し制作することはできないでしょう。NHKは過去20年の組織運営によって、それを証明したと言うことができます。

第六段階において、従来の受信料徴収の法的な根拠を根本的に改め、受信料歳入管理組織を立ち上げます。「日本放送協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」などという古くさい文句は完全に消滅するでしょう。この従来の文句は、「日本放送協会の放送を受信することのできる設備を持っている者は、思想信条の自由や放送を取捨選択して視聴する権利を持っているにもかかわらず、その自由や権利を犠牲にして、協会が恣意的に制作するすべての放送についてコストを負担しなければならない」と言い換えることができます。こんな馬鹿げた法は改正するしかないでしょう。具体的には、受信料に関する放送法の完全な改正を行いましょう。

さらに、NHKとは完全に別組織として受信料歳入管理組織を立ち上げ、放送法の中に、この新たな組織の役割を定義します。つまり、受信料という収入が、集金者を通じてNHKにダイレクトに注入されている現状を完全に改めるのです。 国民視聴者の受信料 → 受信料歳入管理組織(NHKとは完全別組織)→ NHK という金の流れを作ります。これは、イギリスで採用されている組織形態です。BBCは、NHKが公共放送の類似の法人として都合のよい時だけ引き合いに出しますが、そもそも、受信料の回収は行っていないのです。経営という観点で見た場合に、BBCは、NHKとは全く異なる団体です。受信料に相当する語は英語で、license feeと呼ばれていますが、イギリスの国民とBBCの間には、BBCからは完全に切り離された政府系のConsolidated Fund という管理団体が介在しているのです。イギリスの国民は、BBCに受信料を支払うのではありません。Consolidated Fundに対して支払う仕組みです。そして、Consolidated Fundが必要な予算をBBCに付けるのです。

Television licensing in the United Kingdom (Wikipedia)

イギリスのケースをそのまま適用する必要はありません。日本国民の民意が反映するように、NHKとは切り離された別の受信料歳入管理組織を設計し立ち上げることが重要なのです。必ずしもそれが政府直属の管理部門である必要はないでしょう。とにかく、公共放送の契約と集金部門をNHKの業務から外し、国民の意志に基づく組織として立ち上げるということです。受信料の管理、NHKへの出し入れは、公共放送の出資者である国民が堂々と国民の意志で行うというスタイルを定着させましょう。

これまで国民の受信料を直でNHKが徴収してきたから、NHKはいくらでも大金をプールして国民の民意に沿わない使い方をいくらでもできるようになってきたのです。無駄遣いもやりたい放題です。理事以下の特定のポストに就いた者が長期間巨額の受信料をとり放題です。架空発注の犯罪は何度も起きています。関連会社への金の注入も外観を装えばほぼフリーです。受信料収入が増えれば増えるほど、NHKの組織は腐敗し続けてきたと言えるでしょう。限られた予算で国民のために必要な公共放送を作り上げるという意志は完全に廃れました。代わりに、プールしている多額の有り金を自分の私物として好きなように用いるというエゴイスティックなNHKの組織意志だけが現在はあります。こうした状況を改善するためには、NHKは、直接受信料収入を受け取ることはできず、「歳入管理組織」に申請して、国民のために必要な放送であることを説得的に説明して、特定番組のための予算を得ることができるという仕組みにする必要があるでしょう。

受信料歳入管理組織(NHKとは完全別組織)を間に挟むと、以下のような図になります。契約も解約も、この新組織が担当すればよいことにします。受信料の契約と収納をする機能や、受信料をプールする機能は、NHK内部には無くなります。NHK内の営業部門が嘱託の職員をやとったり、あるいは、契約と受信料徴収を自由に下請けの会社に委任することはできなくなります。

shin004.png


従来のフローと新たなフローでは、受信契約をする組織が異なります。従来はNHKの営業担当もしくはその下請けが受信契約を担当していましたが、新たなフローでは、新設の受信料歳入管理組織が受信契約を全責任のもとに担当します。そして、「契約」および「解約」を導入します。受信料の契約と解約も、一般社会で用いられているものと同じ標準的なものにしましょう。契約とは、当事者として固有の意思を持つ両者による、明文化された規定についての合意を指すものです。契約当事者双方にとって、納得できない規定があるならば、契約することはできないはずです。また、現状では、受信設備を備えていない(=テレビを設置していない)、もしくは、受信設備が壊れており機械的に機能しない(=テレビが動作しない)場合のみに、NHKを解約するという選択肢が取れるようになっていますが、これを完全に改めましょう。テレビをアンテナとともに設置しているというだけで、強制的に契約させられ、解約できないというのは、異常な状態です。自分の強い意志でNHKを全く視聴しない人も、テレビを所有しているか、テレビが壊れていないならば、NHKを解約できないことになるのです。これは、一般的な契約の概念とはまったく異なる状態です。

NHKの受信料を、公共のインフラに対する必要

不可欠な会員費と見立てて、受信料の徴収を

正当化しようとする主張もあるかもしれません。

しかし、これもおかしな主張なのです。


NHKよりも公共性の高い、電力供給のケース

から、この主張の誤りを論証しましょう。


東北大震災の後に福島第一原発事故がありまし

たが、仮に、あの事故で東京電力に完全に不信

感を抱いた人が、自分の世帯を完全に東京電力

の送電に依存しない自家発電方式に切り替えたと

しましょう。東京電力の電力をまったく使用せずに

年間を通して自家発電による電力供給を可能にす

るのです。すると、どうでしょうか。


この場合、東京電力という会社は、「東京電力の

電力がいつでも使えるように、お宅の至近まで

電線を引いているから、お金を支払う義務がある」

「自家発電していると言ったって、元の宅内への

電力の引き込み装置はそのままなのだから、

東京電力に対してお金を支払う義務がある」

「公共のインフラ維持に必要だから」という理由で、

他の世帯とまったく同額の電気の基本料金を請求

できるでしょうか? 無理でしょう。


これは法的な問題以前に、最も基本的な人間の

権利の問題なのです。


サービスを受け取らない人は、契約当事者になる

ことはできないし、彼に対して契約を求めることは

できないのです。それは、電力の供給においても、

放送の供給においても全く同じ事柄なのです。



すでに久しく前から、テレビとは一般の世帯で極めて容易に購入し設置可能な電機製品であり、さらに今となっては、テレビの受信をメインの機能としないパソコンや携帯電話も、消費者の意思いかんに拘わらず、テレビ受信が可能な機種を継続して使用する可能性があります。携帯電話のケースが典型的ですが、ワンセグは一機能にすぎません。これらを一般世帯と同様の受信端末とみなして、同等の課金をすることは、果たして公正と表現しうるでしょうか。これも無理でしょう。公正な受信料の徴収を徹底するという意思をNHKが貫徹するためには、「受信契約をしていない世帯」には、NHKの番組の視聴ができないようにするだけでよいのです。これは全く不可能なことではなく、技術的には非常に容易な方法で可能でしょう。 国会の委員会での質問などでも、スクランブル放送を導入検討すべきだと質問する質問者がいます。受信契約をしていない世帯に「契約のお願い」の20行程度の文字字幕を全画面表示に拡大して、番組の内容が分からないようにすればよいという意見もあります。デジタル放送に切り替わってからは、このような個別処置も容易に可能でしょう。技術的に何ら困難はないはずです。これに対して、公共放送をくまなく行き渡らせるために、個別の世帯を受信不可能とし、排除することができないとNHKの関係者が答えているのを見ますが、問題外です。公共放送がNHKのテレビ番組でなければならないと誰も前提にしていません。ラジオでもよいですし、NHKのラジオでなくても、一般の民放ラジオを通して自然災害やその他の必要不可欠な情報を受け取ることは可能です。インターネットでも公共性の高い放送を提供している組織はたくさんあります。気象庁のサイトなどを通して自然災害に関する情報は多く知ることができるのです。

新設の受信料歳入管理組織に関する説明をしましょう。この組織は、歳入と受信料の出し入れをメインで管理する機関として、年次予算を組むのではなく、プロジェクト制で予算を組めるようにする必要があります。可能ならば、最終的な歳出と決算を会計検査院に監査委託するという方式を採るのがいいでしょう。現状の会計検査院が、プロジェクト制の予算を細部まで監査できないのならば、会計検査院のシステム本体を刷新すべきです。刷新できないのならば、受信料歳入管理組織の監査を独自の方法でプログラムする必要があるでしょう。 諸外国で進んだ会計検査システムを導入している国においては、年次会計だけでなく、プロジェクト制の会計方式にも完全対応できる柔軟なシステムを構築している国がいくつもあります。この点では、国の仕組みが全然ついていっていません。総務省に行政評価局というのが2001年にできましたが、残念ながら、予算と決算を監査する総合的な機能を持っていません。この行政評価局が、受信料歳入管理組織の歳出を包括的に監査し評価することは無理でしょう。平成12年〜13年の、参議院憲法調査会- 予算・決算の在り方と会計検査院 というトピックを見ても、旧態依然とした年次会計の枠組みから脱出することができず、会計検査院が複数年度にまたがるプロジェクト制の予算を包括的に監査、評価するための仕組みが無いことが分かります。残念ながら、会計検査院に監査を委託しても「監査できない」ということなら、仕方ないので、一般の監査法人に監査を委託するでしょう。

予算の方式について少し説明を追加します。一年という単年度をすべての基準として作られる年次会計の有害さ、年次会計が組織の腐敗を生んできた理由について説明をする必要があります。年次会計は年単位で包括的に会計規模を管理することができるように見えるため、一見すぐれていますが、年度内の予算消化を無理にやろうとする無駄、内部の部や課が無理やり会計名目をつくって強引に内部留保金をプールしようとする無駄が頻発します。こういう無駄金のある所には必ず国民の誰も必要としていない使えない権力者が付くのです。部や課の内部の留保金を増やそうとし、国庫に返納しない。最悪ですね。とにかく、単年度だろうが複数年度にまたがろうが、プロジェクトを高精度で作り上げ、プロジェクトに応じて予算を配分してもらい、「金が足りない」という状況が発生しないようにする。もし金が余ったら、プロジェクト完了後に、1円単位ですみやかに受信料歳入管理組織に返納する。そういう仕組みを構築する必要があります。

この受信料歳入管理組織を国民の手で独自に立ち上げできたら、画期的です。財務省の管轄に入れないようにして、日本国民の意志代表者が中心となって、立法・司法・行政の代表者の諮問を受けながら、この歳入管理組織を立ち上げることができたら、それは、日本の歴史に残るものになるでしょう。そのような歳入管理組織は、ミニマムな予算規模で、ミニマムな公共放送の範囲が定義されることによって、立ち上げが現実的なものとなるはずです。しかし、間違っても、現行の国の会計のように、一般会計と特別会計のような詐欺的な見せ方にしてはいけないでしょう。「ミニマムな公共放送」の予算を一般会計でクリアに確立して、決算もばっちりやっているのに、その一方で、国民のよく分からない巨額の特別会計があって、「ミニマム外指定」された放送をすべてごたまぜにして、いい加減な会計をやっていたのでは、意味がありません。ミニマム外指定した部分については、今回は扱いません。次回以降に言及の対象にしましょう。

第七段階以降は、新しい運用の話を展開したいと考えています。
posted by 警鐘凡打 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする