2017年07月15日

にせもの

以前、ごくごくふつうに口にすることができていた言葉があります。

「あれは、にせものだね」
「あいつは、にせものだ」

これです。

たしかに、「ひと」と「もの」を同じ意味で、にせものと判断できるわけではありません。
「ひと」を「にせもの」と呼ぶのは、ある種、比喩的な表現です。

ただ、「ひと」について言えば、「ほんもの」と「にせもの」を分け隔てる境界線は
きわめて明瞭なのです。いや、明瞭なはずなのです。こう言っておきましょう。

「ほんもの」は、社会的に価値のあることや、日本という国や地域に必要だと信じて何十年も活動する「ひと」、
「にせもの」は、自分のどんな行いに価値があるかを自身で分かっておらず、吟味できておらず、
とにかく自転車操業のように、自分の単なる飲み食いのため、あるいは、自分がそれだけのカネを
受け取る価値があるかどうか吟味することをサボりながら、とにかくカネのために活動する「ひと」です。


これらの「ひと」は、まったく別なのです。

わざとらしく、人にウケているように見せかけたり、
わざとらしく、おもしろいものに見せようとしたり、
わざとらしく、意味のあるように見せかけたり、
わざとらしく、知りもしないことを知っているように見せかけたり、
わざとらしく、権威者ぶってすごんでみたり、
わざとらしく、全然そうでない自分をつくろって、人をだましたり、

... 等々


そういうのは、とにかく、すべて「にせもの」と言い切ることができたのです。

「にせもの」として、人をだまし、人から時間やカネを巻き上げる。
やめた方がいいことです。本人が気づいた時点で、即刻やめた方がいいことです。

マスメディアに自分が露出することで、自分がカネを手にする一方で、いかに多くの
人々を不快にさせ、多くの人の時間を浪費させているか推察することなく、30年も40年も
放置し、老いていく。その場限りで、「あとは野となれ山となれ」。
論外です。

自分の名前のタグをつけて、多額の税金を引っぱってくることとか、ポストを占有し続ける
ことが自分の価値だと信じて、いったい、自分がそれだけの価値を提供できているか
どうかをいっさいい吟味しないまま、老人になる。定年になっても、必死に似たようなポスト
を占有しよう、月給取りを続けようと血道をあげる。ほとんど何らの疑問も持つことなく、
そんな行動をとることができる。
論外です。

自分の生活がかかっているかどうかなんて、関係ありません。
「にせもの」に成りきるのはやめて、ほかのもっとましなことを開始
するだけでいいはずです。

ところが、ここ最近は、「にせもの」をリアルに演じている人がしつこくいつまでもやめない。

他人をだましていることを知っていて、いつまでも「にせもの」をやりつづけるのです。
それをわかっていて、「にせもの」として堂々といばっているのです。


ちまたの人々の間でも、「にせもの」を口にする人がいなくなりました。


そのことが、不思議でなりません。

「みんな、それぞれ、くるしい事情があるんだよ」
「みんな、食っていかなきゃいけないから、しかたないんだよ」

..... そんなふうに、分別くさく主張する人々もいます。それも分かっています。

しかし、事情があろうが、自分の生活をささえる必要があろうが、「にせもの」が、1人、また1人
と世の中に割り込んでくる。すると、彼らにとても大きなコストがかかっているということを知るべきです。

「にせもの」には、とても大きな社会的コストがかかっているのです。
それを知る必要があります。

そして、その一方で、

「ほんもの」

つまり、社会的に価値のあることや、日本や地域に本当に必要な人のためにかける
ことのできるコストは、奪われている。これも事実です。
「ほんもの」に必要なコストが奪い取られ、「にせもの」が運用されているのです。


しかし、一般に人は、こう考えています。

「ほんものは、誰にでもすぐ分かるからだいじょうぶだ」
「ほんものは、どっちみち、かならず世の中に影響を与えることになる」

しかしですよ。

「にせもの」が不当に場所を占有しつづけ、「ほんもの」を登場させる場所を
ことごとくふさぎ、封じ込めているのに、なぜ、「ほんもの」が分かるのでしょうか?

「にせもの」の当事者たちが、にせものであることを知りつつ、姑息に隠しつづけて
いるのに、いったいいなぜ「ほんもの」が分かるのでしょうか?


はなはだ疑問ですね。


「ほんもの」がたしかに存在しているのに、「ほんもの」にふさわしい場所を与えられて
いなかったら、それは、人々にけっして知られることがないでしょう。
人々の認知される機会がなければ、「ほんもの」は存在しないも同然なのです。


多くの人々は、

「自由競争を勝ち抜いて、自分の目にするところに躍り出ている人々がほんものなんだろ?」
「ほんものなら、表に出てくるはずだ。自分の目にするところに出てこないとおかしいだろ?」
「自分の目にするところに出てこないんなら、ほんものじゃないんだろう?」

こう考えているのです。 
ちょっと考えてみましょう。この認識がいかに傲慢で、いかに危ういものであるかを。 

多くの人々は、自分が日常生活の中で目にする、新聞・テレビ・ラジオの記事や
プログラムの中に、「ほんものなら、出てこいよ」と言っているも同然です。

あるいは、新聞・テレビ・ラジオが、吟味した上で、確実に「ほんもの」を登場
させていると信じて疑わないかのような態度です。

実際は、マスメディアが圧倒的多数の「にせもの」を人々に押し付け、そして、
「ほんもの」と「にせもの」を吟味していない、区別もしていないことは明白です。

「ほんものなら、日々の生活のなかで、きっと自分はそれを目にしているはずだ」
このような認識を持つ人々は、自分が日々、目にし耳にするものの中で
「ほんもの」をすくいとっていると信じ込んでいるのですが、その認識は完全な誤り
であることが分かります。

そもそも、どこまでも受身でいて、マスメディアの流すまんまを視聴しているだけなのに、
なぜ、「ほんもの」が彼らの面前に登場するでしょうか? するわけがありません。

「自分だって、ほんものとにせものくらいの見分けはつきますよ」

人は必ずそう主張します。 一人の例外もなく、人間ならば、そう主張するでしょうね。
誰だって、「にせもの」を手につかまされていると知ったらいきどおるでしょうし、
自分が価値を信じたものが、「にせもの」だと言われたら怒り心頭でしょう。


でも、実際のところ、一人一人の人間が持っている、その自信たっぷりの
「真贋を見分ける目」によって、いとも簡単に「にせもの」が成立し、無意味に、
そして高コストに、「にせもの」が幅をきかせているのですよ。逆説的ですが、
そうなのです。 

「ほんものにせものを見分けているぞ」と自信を持って主張する人が、一人また
一人と蓄積することで、あろうことか、「にせもの」が高コストにやしなわれている。
そして、大量のにせものが日本と地域のお荷物になっているのです。

ここがスタート地点なのです。つまり、自分では「にせものではない」と信じて
必死につかんでいる「にせもの」を、真剣に吟味にかけて、「にせもの」だと判定すること、
「にせものは、しょせん、にせものだろ」と言い切ること。
そして、それ=にせものを放擲すること。これがスタート地点なのです。



posted by 警鐘凡打 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

いい人

べつに他人のわるぐちを言いたいわけではないのに、
どこからどう見たっておかしな行動や言動を批判したら、よく、

「あの人はいい人だよ!」 という不思議な言葉がかえってきたことがありました。

... 「いい人」 なんの意味があるのか、と。そんな機会が重なったので、小さな詩を書いたことがあります。


いい人


「あの人は、いい人だよ」

「そう言うけど、あの人は、いい人なんだよ」

わたしがいままで、何百回、いや、何千回聞いてきたことばです

その度に思います


... べつにわるい人だなんて、言ってませんよ、

で、そんなに、みんないい人なんですか? と。

いい人で、だからどうなんですか...と。



結論、


いい人だって、そういうことにしておこうじゃありませんか

いい人だって、思えば、なんだか気が楽じゃないですか

みんなハッピーですよ いや、すくなくとも、

みんなハッピーになりたいんですよ

とりあえず、仲良くやりましょうよ

... 完


って、そんなに空っぽで、はずかしくないですか?

そんな、お気楽な決めごとを、人に強要したって、

なにも変わりゃしませんよ。

ある人のことを、「あの人は、いい人だ」のたったひと言で、

いったい、その人のどんな価値を説明したのですか、教えてください 

あなたのどんな価値観から、そう断じるのですか?

とにかく、わかるように、ひたすら言葉で教えてください。

...と言ったら、みなさん、逃げて行きました。

.......................................................

あぁ そうですか わたしにはよくわかりましたよ!

人が人を評価することはそれほどむずかしいということを!

だから、「いい人」という、珍妙な誤魔化しの言葉があるということを。

わるい人だなんて言ってやしないのに、先手をうって、「いい人」にしとかなきゃいけないということを!


さあどうぞ! ご自由に! 好きにしてくださいよ! 「いい人」とやら!

「いい人」と他人を明快に評価なすって、自分もどうやら「いい人」とおぼしきお方!


しかし、わたしは、自分を含めて、いい人だとは少しもおもいませんがね。



posted by 警鐘凡打 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

新年に「地方」をかたる


平成二十九年になりました。今年は酉年、丁酉(ひのととり)の年です。ことしもよろしくお願いいたします。

新年に何をかたろうか...と思い、「地方」についてかたります。円猿は、仕事の関係で東京を離れて一時的に地方で暮らしています。地方といっても地方都市ですが、どこの地方かは伏せます。

地方は、相当な人口の都会であっても、いろいろな意味で人間関係がしっかりしており、それでいて、それほど閉鎖的ではない。そんな感想を持っています。地方(都市)は、東京などと比較して、お金への依存率がかなり低いことも分かりました。これはすばらしいことです。お金が不要なのではありません。そうではなく、金銭で均しなみにものをはかる領域の外に、金融や商品経済に限定されないもっと大きな経済の次元があるからです。それから、地方では、子供たちが東京で見るよりもみんなかわいく見えます。地域に子供を大切に育てる伝統があるからだと思いますし、東京よりものびのびと育っているからでしょう。元気いっぱいに遊んでいます。また、子供から青少年、そして働き盛りの世代からお年よりまで、世代がつながっているように見えます。世代間のコミュニケーションが健在なのです。これもすごいことです。東京などと比較にならないほどです。とてもではありませんが、ここに書ききれないような数多くの独特の良さが地方にはあります。それぞれの地方固有のよさは、ほとんど無限でしょう。

ただ、地方が閉鎖的ではないと言っても、それだけで評価できるわけではありません。 円猿がはたらいている地方の人々は、マスメディア経由でしか他の都市や外国で起きている情報に関心をさいていないということもわかりました。危ないことだと考えています。 実際、円猿が仕事場で会う地元出身の人々が多くいますが、彼らは、ほとんど他の地方や東京、そして諸外国で起きている事柄に関心がないように見えます。東京が一番だなどということは全くありません。東京でやっているから、地方でもやった方がいい。そういうことばかりでもない。しかし、仕事する中で国や東京に関係する事柄が出てきても、「東京ではどうなんですか」という質問を一度も受けたことがありません。不思議に思っています。もちろん日々の会話や議論のレベルではないところで、関心を発揮していれば別ですが、そうでもないようなのです。

逆に、他愛ないことでも、地元に関する話題を振ると、みなさん揃ったように、よくぞ聞いてくれた... というような様子でにこにこ多弁に語りだします。 郷土愛はとてもよいと思いますが、「他者を知る」という本質的な努力を、自分から主体的にはたらきかけて相手に しなければ、他人を理解することはできないでしょう。漫然と一年、二年、経過していくだけです。なれ合いの関係になるかもしれませんが、それで終わりで す。相互に理解したことにはならないでしょう。 これは一人対一人の次元だけの話ではありません。

「地方は自分たちのことで精一杯なんだよ」 という声が聞こえてきそうですね。 もっともな意見に聞こえます。しかし、いかなる地方であれ、同じ声を上げて、「自分のことで精一杯で、国や他の地方のことは知らないよ」となったら、いったいどうなるでしょうか。制度の次元に限らず、日ごろから主体的に他の地方で起きている事柄に関心を持つ必要はあるのではないでしょうか。マスメディアに断片的に出てくる話題をはるかに越えて、日本の他の地方や東京、さらには諸外国で起きていることに踏み込んで関心をもち、関心を追求して、自分の地方の問題に立ち返るということも重要なのです。

なぜこのような主張をするかというと、地方の方々の中には、東京や日本の国についてもおおいに語り議論に参加するだけの潜在能力を持つ人が多いと思ったからなのです。自分の生きる地方を大切に考えながら、他の地方で起きている事、東京で起きている事、日本という国がかかわる重要な事柄、そして、諸外国で起きている事に彼らが真剣な関心を持ち、そして場当たり的な関心ではなく、ねばりづよく関心を発揮し続けたならば、それは大きな力になるはずです。


ラベル:新年 酉年 丁酉
posted by 警鐘凡打 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

次期アメリカ大統領が決まる -「リベラル」な人々のおぞましさ


次期アメリカ大統領が、D.J.Trump氏に決まりました。
この事実を受けて、地味に語ります。

この数日、日本の内外のメディアの発する情報のいくつかに接していますが、円猿的にもっともあわれに思えたのは、日本の人々です。それも、自分で自分を「リベラル」だと信じ込んでいる人々のあわれさでした。

定義まではとりあげませんが、そもそも「リベラル」というのは、多様な人々の意見や生き方を認める立場を自任するということではないでしょうか。まちがっても、自分が加担しようとする気満々の「社会的弱者」「マイノリティー」 の生き方を認め、その他の人々の意見や生き方を無視することは、リベラルでも何でもないはずです。

実際は、一般的に「社会的弱者」「マイノリティー」の支持を取り付け、弱いものたちの味方になって世論の誘導者に成り上がったという自意識を持っている人々が、「リベラル」を自称するから、そうなっているだけなのです。 逆の見方をすれば、「リベラル」を自称する人々は、自分の営業のために、しつこく「リベラル」を自称しながら、もっぱら「社会的弱者」「マイノリティー」の味方の論陣を張っているだけの偏向しきった人々、分かりやすい馬鹿だということです。彼らほど、日本の世論を形成する多種多様な要素を無視し切り、簡単に切り捨てることができると信じきっている愚かな人々もいません。要するに、もともと偏狭な人々が「リベラル」を志向して、自分の勝手に思いえがく「リベラル」になっているわけですから、どこまでも自分で自分の首をしめつつ、偏狭さ加減を露呈すればいいだけのことなのです。分かりやすい話です。

それにしても、日本のマスメディアに登場する自称リベラルの人々は、まったくD.J.Trump氏を支持したアメリカの人々の世論を受け入れることができませんでした。アメリカの人々を、情念にふりまわされた愚民だとみなす。勝手に、アメリカの危険な傾向だなどと断じて、真摯に調査研究することをさぼる。 」

挙句の果ては、この選挙結果に

「発狂しそうになる」などと感情一色

の反応を示す輩までいました。

単なる一外国の首長選挙に発狂

できるような偏狭な輩ならば、 

どこまでも「リベラルではない」 

と断じましょう。一人で発狂すれば

いいのです。


彼らは不寛容の典型であり、まった

く「リベラル」ではないのです。


選挙結果に不満な人々による暴動を

民主主義であるかのように支持する

者すらいました。これなどは、野蛮そ

のものと言うべきでしょう。


労働者の暴力で革命を起こすべきだ

という主張を振りまいた最も高齢の

共産党員ですら、いまどきそんな野蛮

な立場をとらないでしょう。


ぜんぜんリベラルではない日本のみじめな人々にとりあうのは、もうやめましょう。その値打ちすらない人々ですから。


ところで、D.J.Trump氏が大統領になったことで、日本の何がどう変わるのでしょうか。円猿はアメリカにそれほど大きな関心を持っていませんし、予言者ぶるつもりもまったくありませんが、戦後民主主義の申し子である「自民党」が政権を維持している限り、さしたる変化はないと見る立場です。

確かにトランプ氏の大統領選挙中の発言の中には、相当、日本の安全保障や外交に関係するものがありました。でも、この人物はあくまでも政治素人ですから、高度な意思決定と緻密なプロセスを必要とする案件については、党ベースで有能な人に任せることでしょう。アメリカの内外に対して、政府の連続性をアピールすること自体が、当面の事案になるはずです。


posted by 警鐘凡打 at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ニセもの(贋物)を人々に押しつけるやからども


今回、ニセものを人々に押しつける輩どもという題でかたります。

円猿は、まだ老境に達しているサルではありませんが、かれこれ数十年生きてきて、どうやら世の中には、人々(日本国民でもかまいません)に偽物をおしつけて、カネを回収している組織があまりにも常態化していることに気づいてきました。 

最初におことわりしますが、円猿はそのような組織に対してまったく「うらやましい」などという気持ちを持っていないのです。多少は無駄があったとしても、日本が居心地のいい国であってほしいと思っています。

良心ある人々や組織が、日本の人々に本当に価値のある物やサービスを提供しようと努力して、実際に「本物」を提供してほしいと願っています。 まちがっても、自分たちでそうと知っていながら、だましの入った「偽物」を国民につかませて悦に入るような外道組織・外道人間がまかり通るのはごめんです。

「本物」「偽物」の区別も簡単に示しましょう。「本物」は、それで金儲けができているかどうか、ビジネスとして成功しているかいないかには関係なく、自分の道を追求し、自分の発想・活動・芸に価値があるかどうかという本質的な問いを自分自身で常に発し、「他人を引き込んで(だまして)とりあえずカネもうけできればよい... 」という打算を排した価値観で一貫して活動する人々、組織です。

「偽物」は、とにかく金儲けありきで、金儲けできていれば自分のことを「プロ」などと称し、自分の発想・活動・芸に価値があるかどうかという本質的な問いをつづけるのを怠る人々・組織でしょう。 他人とは単なる自分の引き立て役にすぎないと「偽物」たちは考えており、ひどい場合には、自分たちの安楽な生活の資金源くらいにしか考えていません。「偽物」が悪質なのは、このような卑しい考えを心中深く隠し持っており、決して公言しないところです。そして「偽物」どうしでの暗黙の了解事項としているのです。偽物がいかにぶざまなで卑しい人々か分かるでしょう。

どうも、円猿の見るところでは、この20年ほどの間に日本には急速に「偽物」が増大しているように思うのです。実にいろんな領域に「偽物」がはびこっています。もっともひどいのは、マスメディアの領域でしょう。ラジオは置くとして、テレビという今やレガシーメディアに登場していえる人々は、テレビ局の人々から「タレント」まで、ほとんどが「偽物」で占められているように見えます。

最近、解散がとりざたされているタレントのグループがありますが、円猿にいわせればこれは典型的な「偽物」の類です。彼らは自分で自分の活動が価値があるかどうか価値判断を全然することのできない年齢から、よろこびいさんで事務所の道具となった人々です。そして、事務所の金儲けのネタにされ、世の中を無駄金の流通で満たしただけであるにもかかわらず、なにやら自分たちが世間で確固たる地位を築いたかのように勘違いし続けていました。 愚かな人々です。だが実際には、過去20年の間に、一人のタレント、一つのタレントグループがあろうがなかろうが、そんなことはどちらでもいいのです。

テレビを代表とするレガシーメディアは、今や偽物の巣窟ですが、「本物」「偽物」を見分ける機能すら持っていません。名目的には、人々にウケるとか、視聴率をかせげるとかいう指標で何かを区別しているように見えるかもしれませんが、そんなものは、「本物」か「偽物」かを判別する指標では全くないのです。電○などの広告メディアの親玉ぶっている企業も同様です。徹底した価値の吟味のシステムを社内に持っていません。ただ金になるかどうかで判断し、「偽物」を垂れ流し、自転車操業している団体なのです。

本来、多くの人々に対して一方的に情報や活動を示すならば、その情報や活動が十分に吟味され、価値を保証され、本物である必要があると円猿は考えています。日本には「本物」の価値追求に本腰を入れて数十年活動している人々も大変多いでしょう。彼らが決して「偽物」に惑わされることなく、本物を追求していかれんことを願っています。

そして、「偽物」をばらまいて意味のない金を流通させる組織、人々は退場させる仕組みを設計する必要があるのではないでしょうか。日本で「あえて」共有する価値のあるものかどうか、さまざまな組織や人々の活動の価値をより本質的に吟味する仕組みが必要でしょうし、場合によってはその種の仕組みを制度化する必要があるのではないでしょうか。


ラベル:贋物 タレント SMAP
posted by 警鐘凡打 at 05:32| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月26日

イギリスのEU離脱


英国のEU離脱について少し語りたいと思います。BREXITと呼ばれてグレートブリテン島で大きな争点になってきましたが、国民投票の結果、EU離脱賛成票が多数を占めました。この結果をどう理解すべきか。どう解釈すべきなのか。さまざまな憶測や解説が出されています。既に出されている説に対する批判を通して、より説得的な解釈を提示できるか試みたいと考えています。

「イギリスのEU離脱は、反知性主義である」 という解釈について、少し批判しましょう。反知性主義は、Anti-intellectualismという英語でも表現されます。実際にこの語(英語の方)で離脱派の人々を批判する動きも前からありました。しかし、EUに残留すべきだという主張が、知性主義で賢人の態度であり、EU離脱する主張が反知性主義で情念に振り回された主張である。引いては、一国の狭い視野に閉ざされた態度だと決めつけられるでしょうか。これは一定の留保を必要とするものではないでしょうか。

知性と情念の二分法を用いる思考パターンはプラトンの『パイドロス』あたりから見られる古いもののように思います。 一人の人間の魂には知的部分と情念的部分があり、なんとか情念的部分の粗野さ、野蛮さ、横暴さといった動物的衝動を乗り越えて、魂の知的部分にもとづいて人間は行動を導くべきである。これは明確な価値判断をともなう主張ですが、古来なされてきたものです。これを集団に適用して、人々の気分、情念に訴える主張を「反知性主義」と称して批判し警戒しようとする傾向は相当長くあるようです。

では、EU離脱の主張はもっぱら反知性主義だったのでしょうか。とてもそうは思えません。彼らも知性にもとづいて判断し、イギリスの人々の情念ではなく、彼らの知性と意志に明確に訴えかける部分を持っていたはずです。そこを検証する必要があると考えています。恐らく、EU離脱派の「知的」な理由の一つは、EUが、メンバーとなっている各国の意志を強く制限する包括的共同体であるということでしょう。イギリスはポンドの通貨使用を継続しており、その意味では、この国の政府の規定路線の一部において、EUという包括共同体に距離を置いていたのです。これは確かなことです。 国境管理に関しても、とにかくスケジュールを切ってシェンゲン協定への加盟を強力に(あるいは、脅迫的に)すすめようとしていたEUに対して、イギリスは態度を留保し続けました。これもこの国の規定路線だったのです。自国の通貨を維持し、自国の独自方針にもとづく国境管理を行う。べつに何ら反知性的な態度ではありません。基本要件を設定した上で、地域圏のプレーヤーとして他国との関係を深めることは、まったく反知性的態度とはいえないでしょう。

今の時代、交通手段の進化にともない通商がきわめて発達し、さまざまな産業において諸地域間での連携(グローバル化と言ってもいいでしょう)がすすんでいるからといって、各国家の裁量をきわめて強く制限する包括的共同体に属していなければ、すなわち排外主義の閉鎖的な孤立国家だと決めつけるべきでしょうか? 到底そうは思われません。時代に見合ったさまざまな相互関係を他の諸国や地域と作りながら自国の意志と裁量を留保するという選択肢もあっていいはずでしょう。問題は、EUがメンバーである国家を全方位的に縛る包括共同体かそうでないかという二者択一を迫っているところにあると見ることもできるのではないでしょうか。今回のイギリスのEU離脱をアメリカ大統領選挙の特定の候補者に関係付けて、閉鎖主義だと決めつける論調などは、とてもいただけません。それこそ、同時代の情報に惑わされ、いくつかの類似性で二つの現象を恣意的にむすびつけ、情念レベルで物言いしているようにしか見えません。

日本にもどりましょう。日本の多くの人々は、ともすると一国の枠組みを越えた、国際関係に、「知的に」高次のものが確実に埋め込まれているはずだと思考しがちなところがあります。その種の思考を無意識的にしてしまう傾向があると思います。国連に関してもそうですが、EUのようなヨーロッパの複数国家の共同体には、必ず設計主義にもとづいて種々の良い機能が埋め込まれ、そして実際に動いているに違いない... そう考えがちです。しかし、よく考えてみましょう。多国間の制度や仕組みが、例外なく諸国民の利益を実現しようとするもので占められているかどうか、そして、運用においてそのように機能しているかどうか。そこが重要なのではないでしょうか。

イギリスはEU諸国との関係が多少後退したとしても、孤立を深める道を突き進むことはないでしょう。EUの外の中東諸国、北米、南米、アジア、東南アジア、日本そしてアフリカ諸国などと独自の路線で関係を築く仕組みをつくるでしょうし、その仕組みの中でイギリス独自の道を「知的」に進む強靭な国家的意志を発揮するかもしれません。 

ラベル:BREXIT 反知性主義
posted by 警鐘凡打 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする