2017年10月18日

保毛尾田騒動にもの申す


最近、地上波テレビの番組で登場する「保毛尾田」について、「保毛尾田」を登場させたテレビ局と特定の団体の間で問題が起きているようです。 ことの成り行きを見ると、テレビ局側が一定の非を認め、表現に注意する旨を表明したようです。この問題について語りたいと思います。

ブログの読者の中に、書き手が同性愛者かどうか気にする人がいるでしょう。全くそうではないと断っておきます。ただ、以下の意見は、同性愛者の論者であれ、そうでない論者であれ、双方の立場に立つ人間が考えうる内容、書きうる内容を想定して書いています。

まず最初に、テレビ一般の傾向を強く批判することにします。1つめは、おもしろければ何をやってもゆるされるというタイプの打算的な傾向への批判です。

人をおもしろがらせてやれば、何をやってもいい。

その番組を見ている視聴者を笑わせれば、それでよい。

こういう考え方です。世間には、保毛尾田を「糞つまらない」と思い、視聴しない人々が大量に存在します。または、その時間に、意に反してその番組を視聴させられている人も一定数存在する。30年前と比較して、テレビ番組の視聴ははるかに個人限定のものになっていますが、100%そうなっているわけではない。今でも、他の家族の嗜好に振り回され、必ずしも見たいわけではない番組を一緒に見せられる人は存在します。

これに対して、番組をおもしろがって見ている視聴者は、つまらなければ見なければいいだろうと主張するかもしれない。しかし、見なければ済むという問題ではありません。 テレビ局は、公共性に配慮する義務のある組織です。ということは、10%の視聴率の番組を、その時、その番組を偶然視聴している人々をおもしろがらせてやれば、後は何の問題ないという立場で済む組織ではない。当然のことです。

2つめには、保毛尾田をおもしろがっている視聴者を批判することにします。彼らの少なからぬ部分は、保毛尾田は「キャラクター」であり、すでに過去に確立されたものなのだから、今さら批判されるすじあいはないと意見している。

 「キャラクター」とは何でしょうか? この保毛尾田というのは、同性愛者を戯画化して、笑いの対象にしていることも間違いないでしょう。すべての点でそうだと断定はできないにせよ、一定の範囲で、男性の同性愛者のふるまいを戯画化しているのです。フィクションなのだから、何でも許されると思ったら、大間違いです。

人は、どんな対象でも笑うことができますが、

誰とでも笑えるわけではない。 

この程度の人間としての基本を認識しておらず、「フィクションなんだし、おもろいキャラクターなんだから、笑って何が悪い?」 と開き直っても、それが、社会的な認識として通用するわけではありません。きわめてローカルな言い分にすぎない。 

同性愛者(性的少数者)の

「権利団体が被害者づらをしている」

「被害者づらするな!」 

という主張もなされていますが、

これも論点のすりかえを含む主張です。 

そもそも、加害/被害の問題ではない。

それに、権利団体の人々は、加害者/被害者を決め付けて、被害者に成り切って圧力をかけているわけではない。問題の本質は、表現に一定の配慮をしながら、強い公共性を持つ放送事業を最適化しましょうという話でしょう。

お笑い芸人の「芸」をぜんぜん笑えない人々も相当多いわけで、その一部が同性愛者であるということを受けて、権利団体の人々が代弁者として行動しているだけです。「自分たち被害者の言い分を聞け!」と一方的に主張しているのではない。議論が必要な事象だと判断し、議論をしている。そういう性格があるのです。 

この程度のことを類推できない視聴者は、よほど地上波の弛緩したお笑い芸にひたり切った鈍感な人々なのでしょう。おもしろければそれでいいじゃないか、と言わんばかりです。自分がおもしろいと信じ込んでいる番組に対して、自分が理解できない視角から批判されたら、「弱者のヒステリックな叫びだろう」だの、「被害者ぶってごね得しようとしているんだろう」だのと偏見で決め付けようとする。そういう視聴者ばかりではないと思いますが、偏見で決めつけて気が済む人々は、鈍感なものごとを考えない人々に違いない。

それから、30年前の過去につくられたキャラクターだから、近未来においても、また、その先の未来においても、通用して当然だなどという認識は幼稚もいいところです。

過去に通用した表現だのキャラクターだのを権威化し

未来の視聴者に押し付けるのはナンセンス


でしょう。 「キャラクター」とやらに、おもしろがらせれば問題ないという打算的な考えが入っているかどうかも問題になるでしょう。 もちろん、入っています。 

3つめに、「表現の自由に反する」という主張を批判しましょう。コメディアンが、保毛尾田を演じるのは、表現の自由ではないかという主張です。 これも、1つめの批判と関係しますが、

表現を自由にして、では、何の成果を得るのか? 

ということですよ。それが問題なのです。保毛尾田に関して言えば、保毛尾田というキャラクターを何十年先にも通用させて、大上段に構えた「表現の自由」を確保したとしましょう。 で、いったい何の成果を得るんですか? それに対する答えとしてあるのは、ただ消費される「笑い」を得るだけでしょう。 それとも、価値あるテレビの放送文化を確保すると主張する視聴者がいるでしょうか? おそらく、いないでしょう。 つまり、「おもしろければいい」「おもしろがらせてもらえばいい」「あとは知らない」という無責任な態度の裏で、

表現の自由を行使して、とにかく

自分をおもしろがらせてほしい

と主張しているにすぎないのです。 それなら、別の笑いでもかまわないでしょう。 必ずしも、保毛尾田限定でおもしろがる必要はなかったはずです。他のもっと「おもしろい」、同性愛とは関係ないキャラクターで、おもしろがらせてもらえば、それで問題なかったのではないでしょうか。

保毛尾田を離れますが、最近、別のある発言が話題になったことも知っています。ラスベガスで起きた銃乱射事件について、無抵抗な人を一方的に傷つけようとするのは、「馬鹿かきちがいしかいない」 という発言です。 

この発言は、知的な障害のある人々を揶揄する表現では決してないことは間違いありません。 自分がおもしろがればいいとか、おもしろがらせればいいという打算もないと見ることができるでしょう。この表現について、「不適切な表現がありました」 とテレビ局側がアナウンスしましたが、このアナウンスは、必ずしも必要なかったのではないか、というのがブログ主の意見です。

最後にもう一度。

おもしろがらせれば、ゆるされる

人々をおもしろがらせれば、それでいい

こういう打算を、徹底的に批判しつづける必要がある


でしょう。

うそ臭い方法でおもしろがらせてやろうとする人々に対し

「糞同然につまらないね」 断固、そう主張しつづけます。


芸人だけを批判しても仕方がありません。糞つまらない芸人をはびこらせているテレビ局、その関係者をも断固批判し続ける必要があるでしょう。

一部の視聴者をおもしろがらせれば仕事をしたことになる

と打算しているテレビ局関係者に対しては、もっと今の日本

に必要な仕事をさが吟味した上で、丁寧に番組を作って

放送しろ。そう主張しつづけます。


中には、おもしろがらせればいいのだという打算のもとに、「キャラクター」をわれがちに選択し、実際にはそうではないにもかかわらず、同性愛者を下手糞に演じ続け、カネを手にしている人々もいるようです。実にぶざまな奴らですよ。そういう糞つまらない典型的な「にせもの」を多数飼いならしている地上波のテレビメディアは、最低と言うべきでしょう。

平成29年の日本には、ただつまらない笑いでおもしろがってすごすのではなく、世代をこえて、もっともっと多くの共有すべき情報、知識があるはずです。

ラベル:保毛尾田
posted by 警鐘凡打 at 01:21| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

厚化粧の緑のタヌキを叱る


緑のタヌキと呼ばれつつある、緑がパーソナルカラーの小池百合子という人物がいます。


この人物を、「厚化粧の緑のタヌキ」と呼びたいと思います。


tanuki.png


タヌキは化けてヒトをだまそうとする

という伝承がありますね。

そう、何か別の存在に化けて、人をだまそうとするのです。

ぶんぶくちゃがま(分福茶釜)


では、茶釜に化けて、元に戻れなくなったタヌキが出てきますね。

この厚化粧の緑のタヌキも、この意味では同じなのです。 

「希望の党」などという、まったく新しい政治勢力に化けて、

日本国民をだまそうとしています。


では、実態はどうなのでしょうか。 200人も立候補者を立てる

というような情報が出ており、いったいぜんたい、

誰が立候補者になるのか.... 見ていましたら、なんと、

191人中109人は、元民進党議員だそうです。57%に相当します。


厚化粧の緑のタヌキは、化けても無駄


だということに、われわれ国民は気づきましょう。 

「憲法改正」「集団的自衛権」を規約の中でうたっていますが、結局は、

タヌキの化けの皮をはげば、そこには

大量の無能な元民進党議員


が、税金の掠奪をつづけてやろうとたくらんでいるだけなのです。


「政党論」が必要な時期だとブログ主は思っています。

「政党とは、いったい何か」
「政党の本質は、何か」
「政党が実現することは、何か」

政党のミッションを再定義して、このような不毛きわまりない離合集散、

国民の目を欺こうとする意図が明確な動きを禁止可能にする仕組みを

導入する必要があるのです。 諸外国で、選挙が決まったとたん、いきなり

「解党」する政党など見たことがありません。

ぶんぶくちゃがまの

タヌキの化けくらべの次元


のことを地でやっている。 


選挙のための、その場しのぎの卑劣な行為をやめろと批判すると、多くの議員の人々は、


「国民が愚かだからだ、だまされるんだ」

「政治活動は自由だ」 

「結社の自由だ」 

などと、子供じみたリアクションをするでしょう。

こういう上っ面だけの薄っぺらな反論には、さらに強力な反論が必要です。


はっきりと反論しましょう。 日本の場合はまさに、

政党を、好き勝手に

こわしたり、つくったりする。

この身勝手な政党の操作こそが、

政治腐敗そのものなのです。


つづけます。

わずか、1年、2年前に、その政党が

政治という行為(政局ではない)をやる

だろうと期待して、投票用紙に政党名を

書いた有権者が大量に存在しますね?


政党のぶっこわし、捏造は、有権者たち

の政治参加の権利を、事実上侵害して

いるのです。 結社の自由だ、政治活動

自由だの話の次元ではありません。


国民=有権者の政治参加の権利侵害

の大問題をクリアしてから、「結社の自由」

「政治活動の自由」を主張してもらいましょう。


おそるべき政治腐敗があるような国でも、ここまで、「政党」を恣意的に

操作し、好き勝手に有権者をだまし、税金を簒奪しようという反社会的行動

を野放しにしているところはありません。 

日本の多くの国会議員という存在は、国民の政治参加の権利を侵害しつつ、

国民の財産を掠奪する自分に酔っているも同然です。 

新しい政党を否定しませんよ。

むしろ新たな政党は必要です。

国民の意志を受けて新しい政党をつくれる

要があります。ただ、そういう新しい勢力

は、すでに議員として既得権益化している

人々、過去に既得権益者で、また既得権益

に預かろうとしている人々、そういう人々とは

無縁に作ることができる仕組みが必要でしょう。

それが存在しないことが問題なのです。


もう数十年、政治屋連中のどこまでも恣意的な「政党」の改廃を見せつけられ

てきた国民は、これも日本の風物だ...  とあきらめているかもしれませんが、

決してそれではいけません!

これから先、日本でこのよう な無意味な「政党」の改廃を徹底的に終わらせる

必要があるのです!


日本国民が必要とする「政治」の実現にほとんど関係のない、

「政党」関係のダマシの入った動きを、国民は必要としていないのです。

当選した人々が、国会内で作業する際に、「会派」として結びついたり

離れたりすればよいだけです。

「政党」を単なる選挙管理集団だとみなすような、不毛をきわめた

動きは、徹底的に禁止することが必要です。

「政党」なら、一定の理念と足並みをそろえた行動によって、日本国民と

地域のための「政治」を実現する行動者集団として一貫した動きをとり、

選挙に際して政党は、解体する

のではなく、なおさら結束して、

国民に支持を訴えるべきなのです。


支持率が低かろうが高かろうが、

そうすべきです。


もしもそれができないのなら、

もともと、「政党」ですらなかった

ということです。


つまり、民進党、その前身の民主党は、元々「政党」ではなかったということです。

おそろしいことです。 実質的に政党でもなんでもないくせに、国民の財産を

掠奪し、国民の政治参加の権利を一方的に侵害していたわけです。


そして、厚化粧の緑のタヌキはと言えば、この、


元々政党ではなかったような団体の連中を引き入れ、立候補させ、またもや

国民の資産を簒奪させようとしている。


厚化粧の緑のタヌキは、


徹底的に批判される必要があるということです。


都知事ならば、すべての都知事としての公務をキャンセルすることなく

すべて実現し、都政に集中すべきなのです。


posted by 警鐘凡打 at 22:05| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

日本版「ファーストレディ」のおかしさを強く批判する


今回は、現首相の夫人のあり方について、かたります。
日本の首相の夫人をいつから「ファーストレディ」と呼称するようになったのか、それは分かりません。しかし、以下に説明するように、アメリカの「ファーストレディ」と日本の「首相夫人」は本質的に異なるのです。決して、日本の首相夫人を「ファーストレディ」として認知することはできません。

一つ、おことわりがあります。今回、現首相については、かたりの対象とはしません。安倍首相の政策についても多くの疑問点や議論すべき点はありますが、それとこれとを混同させるのはよくありません。夫人について、非常に目に余ることが多いので、この人物の行為について強く批判したいと考えています。ブログ主は、このかたりによって倒閣運動に加担しようとしているのではありません。その点を誤解されないようにしていただきたいと思います。政治の外の話です。


さて、本題です。

かつて、安倍夫人ほど、総理大臣の夫人の中で露骨に自身のキャリアに夫の地位を利用した人物はいないということです。ひと言でいって、前代未聞の変人でしょう。そう認識して差し支えないと思います。

もともと「ファーストレディ」というのは、アメリカ発の概念です。ヨーロッパではありません。アメリカの場合は「大統領夫人」であることに注意しましょう。元首の夫人ということです。「首相夫人」ではないのです。

アメリカがよくて日本がよくないと言うわけではないにせよ、アメリカの場合は、夫が大統領になる以前から、その夫人は多くの社会活動に従事し、職業人としてもプロとして活躍している場合がほとんどです。
 より決定的なのは、夫その人が候補者になる大統領選挙でも、夫人の人となり、公式の場での演説、そして社会活動が大きくものを言うという点です。つまり、私人として夫を支えたからという理由ではなく、「公人」としての発言と行為によって、配偶者の大統領選出の功労者の一人となる。それがアメリカのファーストレディなのです。

では、日本の「首相夫人」の場合は、どうでしょうか。 もちろん首相になる前から、私生活でたいへんなご苦労があり、さまざまなサポートをされているでしょう。それは、アメリカの場合と同様です。しかし、決定的な違いがあります。議員内閣制の日本において、夫の首相選出プロセスには、日本の(未来の)首相夫人は公人として関係がありません。日本の場合も、首相になるための選挙がありますが、実質的に政党内でやる選挙なのです。安倍氏の場合なら、自民党という党内における総裁選挙です。この総裁選挙において、夫が(首相という地位につながる)候補者となり、そして選挙に立ち、選挙をたたかう一連のプロセスにおいて、夫人の公人としての活動は物を言いません。
 それに、夫が「公人」になるため(首相になるためではない)の何らかの選挙において、夫人が多少の影響力を持つとしても、せいぜい地元での選挙ていどのものです。衆議院選挙のようなケースでも、候補者の夫人が、選挙での勝利のために決定的な力を持つことはまずないでしょう。

以上のような背景がありますので、アメリカの「ファーストレディ」を日本の首相夫人にかぶせるのは、100%無理があります。単に首脳会談、サミットなどの個別のケースで、首相に同行した場合に、アメリカの「ファーストレディ」の同格者として扱われることもある人物。それが、日本の「首相夫人」なのです。日本にいるすべての時間、すべての機会において、日本の首相夫人が「ファーストレディ」と同等・同格なのではありません。この点を決して誤解してはならないでしょう。

ところがです。

安倍昭恵氏の場合は、首相夫人になったということで、「ファーストレディ」に意図的に成ろう、成りきろうとしたのです。

彼女は、いきなり感満開で自分のキャリアづくりに精を出し、さまざまな公的な場において、「夫とめざすところは同じだ」などと比喩でしかない曖昧な言葉で公人として振る舞い、自分をもちあげてくれる国民を自分の全人格を絶賛している支持者であるかのように勘違いしているように見えます。言語道断というほかないでしょう。 


首相夫人が、公人として

「夫とめざすところが同じ」なら、

それはそれで結構です。

その主張を実現すべく、

国民の審判を得るべく、

立候補して当選するところまでやり、

公人=政治家として活動してください。


それくらいの本気度がないのならば、

「夫と同じ」などという比喩的な表現で

地域の有権者や国民をあざむくのは

絶対にやめるべきです。


公人格として夫がちゃんと政治家になり首相になっているわけですから、共通する価値観や思想があるのなら、公人として政治家になっている夫に託せばよいだけなのです。

もちろん、マスメディア等で発言しなくとも、私的な集まりなどで議論したり意見交換する程度なら問題ないでしょう 

あるいは、公人としてではなく、私人として好みや思想が似ている場合、私人としてめざすところが同じである場合を考えましょう。この場合は、なおさら大きな理由によって、夫人は公的な場で黙るべきです。 プライベートな事柄なわけですから。

最近報道されたことに、首相夫人に付き人が5人ついていたのを、3人に減らしたというものがありました。この「付き人」は、首相ではなく、首相夫人の意思と要望にもとづく人員配置に違いありませんが、きわめて大きな疑問があります

そもそも、国家公務員を、国民の審判を経ていないくせに「公人」としてふるまおうとする首相夫人のためにサポートさせることが可能なのでしょうか。 そうは思えません。即刻、ゼロ人にすべきでしょう。ケースに応じた個別の身辺警護のみで十分のはずです

国民の公の金を、プライベートな関係(=夫婦)に拡張し、総理では全然ない人物のキャリアづくり支援に充当するといのは異常なのです。国民の同意なく、それが行われている。 5人であろうと3人であろうと、異常です。 これは、恣意的な官房費の流用に相当しますし、一歩間違えば、公金横領に相当します。 官房費の使途や人員配置について、禁止条項を設けて、このような運用を禁止すべきです。

首相夫人の「付き人」を官房費などでまかなうことが許されている現運用は、法にもとづいて即刻変える必要があります。もし、現在の仕組みを容認するとしましょう。首相になったとたん、「めざすところは同じ」と主張する血縁者のキャリアづくり支援が可能な体制がどんどん進むとしましょう。すると、夫人だけでなく、もっと別のプライベートな関係(例えば、親子だとか甥姪の関係)に拡張し、平気で、首相の身内のキャリア作り支援に公的な資源が利用される道筋がつくられかねないということです。 血縁が遠くなればなるほど、実質的な公金横領になることが理解されるでしょう。

ブログ主は、首相夫人の人格を非難しているわけではありません。あくまで行動と価値観を強く非難しているのです。 官房付きの役人、官房費の適正な使用を検討し、必要に応じて法的な規制を加え、未来の首相夫人の方々のすぐれた行動規範を確立すること、そして、よりよい前例を吟味して作ってほしいと考えています。

 基本的に、首相の家族に対する「警護」は必要です。首相在任中に、その家族が私人としての活動をさまたげられたり、身の危険にさらされてはならないでしょう。しかし、「お付の職員」は間違いなく不要です。国民の民意を経ないおつき職員の恣意的な新設はやめるべきです。

日本の首相夫人には、何ら法的な根拠はありません。法的な根拠がない一私人に、権力(に相当するもの)を与えることはできないし、国民の同意を経ていない公的資金を与えることもできません。そして、一般国民とは比べものにならないような強い発言権を、その人物に与えることも非常に危険なことです。


posted by 警鐘凡打 at 06:27| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

にせもの

以前、ごくごくふつうに口にすることができていた言葉があります。

「あれは、にせものだね」
「あいつは、にせものだ」

これです。

たしかに、「ひと」と「もの」を同じ意味で、にせものと判断できるわけではありません。
「ひと」を「にせもの」と呼ぶのは、ある種、比喩的な表現です。

ただ、「ひと」について言えば、「ほんもの」と「にせもの」を分け隔てる境界線は
きわめて明瞭なのです。いや、明瞭なはずなのです。こう言っておきましょう。

「ほんもの」は、社会的に価値のあることや、日本という国や地域に必要だと信じて何十年も活動する「ひと」、
「にせもの」は、自分のどんな行いに価値があるかを自身で分かっておらず、吟味できておらず、
とにかく自転車操業のように、自分の単なる飲み食いのため、あるいは、自分がそれだけのカネを
受け取る価値があるかどうか吟味することをサボりながら、とにかくカネのために活動する「ひと」です。


これらの「ひと」は、まったく別なのです。

わざとらしく、人にウケているように見せかけたり、
わざとらしく、おもしろいものに見せようとしたり、
わざとらしく、意味のあるように見せかけたり、
わざとらしく、知りもしないことを知っているように見せかけたり、
わざとらしく、権威者ぶってすごんでみたり、
わざとらしく、全然そうでない自分をつくろって、人をだましたり、

... 等々


そういうのは、とにかく、すべて「にせもの」と言い切ることができたのです。

「にせもの」として、人をだまし、人から時間やカネを巻き上げる。
やめた方がいいことです。本人が気づいた時点で、即刻やめた方がいいことです。

マスメディアに自分が露出することで、自分がカネを手にする一方で、いかに多くの
人々を不快にさせ、多くの人の時間を浪費させているか推察することなく、30年も40年も
放置し、老いていく。その場限りで、「あとは野となれ山となれ」。
論外です。

自分の名前のタグをつけて、多額の税金を引っぱってくることとか、ポストを占有し続ける
ことが自分の価値だと信じて、いったい、自分がそれだけの価値を提供できているか
どうかをいっさいい吟味しないまま、老人になる。定年になっても、必死に似たようなポスト
を占有しよう、月給取りを続けようと血道をあげる。ほとんど何らの疑問も持つことなく、
そんな行動をとることができる。
論外です。

自分の生活がかかっているかどうかなんて、関係ありません。
「にせもの」に成りきるのはやめて、ほかのもっとましなことを開始
するだけでいいはずです。

ところが、ここ最近は、「にせもの」をリアルに演じている人がしつこくいつまでもやめない。

他人をだましていることを知っていて、いつまでも「にせもの」をやりつづけるのです。
それをわかっていて、「にせもの」として堂々といばっているのです。


ちまたの人々の間でも、「にせもの」を口にする人がいなくなりました。


そのことが、不思議でなりません。

「みんな、それぞれ、くるしい事情があるんだよ」
「みんな、食っていかなきゃいけないから、しかたないんだよ」

..... そんなふうに、分別くさく主張する人々もいます。それも分かっています。

しかし、事情があろうが、自分の生活をささえる必要があろうが、「にせもの」が、1人、また1人
と世の中に割り込んでくる。すると、彼らにとても大きなコストがかかっているということを知るべきです。

「にせもの」には、とても大きな社会的コストがかかっているのです。
それを知る必要があります。

そして、その一方で、

「ほんもの」

つまり、社会的に価値のあることや、日本や地域に本当に必要な人のためにかける
ことのできるコストは、奪われている。これも事実です。
「ほんもの」に必要なコストが奪い取られ、「にせもの」が運用されているのです。


しかし、一般に人は、こう考えています。

「ほんものは、誰にでもすぐ分かるからだいじょうぶだ」
「ほんものは、どっちみち、かならず世の中に影響を与えることになる」

しかしですよ。

「にせもの」が不当に場所を占有しつづけ、「ほんもの」を登場させる場所を
ことごとくふさぎ、封じ込めているのに、なぜ、「ほんもの」が分かるのでしょうか?

「にせもの」の当事者たちが、にせものであることを知りつつ、姑息に隠しつづけて
いるのに、いったいいなぜ「ほんもの」が分かるのでしょうか?


はなはだ疑問ですね。


「ほんもの」がたしかに存在しているのに、「ほんもの」にふさわしい場所を与えられて
いなかったら、それは、人々にけっして知られることがないでしょう。
人々の認知される機会がなければ、「ほんもの」は存在しないも同然なのです。


多くの人々は、

「自由競争を勝ち抜いて、自分の目にするところに躍り出ている人々がほんものなんだろ?」
「ほんものなら、表に出てくるはずだ。自分の目にするところに出てこないとおかしいだろ?」
「自分の目にするところに出てこないんなら、ほんものじゃないんだろう?」

こう考えているのです。 
ちょっと考えてみましょう。この認識がいかに傲慢で、いかに危ういものであるかを。 

多くの人々は、自分が日常生活の中で目にする、新聞・テレビ・ラジオの記事や
プログラムの中に、「ほんものなら、出てこいよ」と言っているも同然です。

あるいは、新聞・テレビ・ラジオが、吟味した上で、確実に「ほんもの」を登場
させていると信じて疑わないかのような態度です。

実際は、マスメディアが圧倒的多数の「にせもの」を人々に押し付け、そして、
「ほんもの」と「にせもの」を吟味していない、区別もしていないことは明白です。

「ほんものなら、日々の生活のなかで、きっと自分はそれを目にしているはずだ」
このような認識を持つ人々は、自分が日々、目にし耳にするものの中で
「ほんもの」をすくいとっていると信じ込んでいるのですが、その認識は完全な誤り
であることが分かります。

そもそも、どこまでも受身でいて、マスメディアの流すまんまを視聴しているだけなのに、
なぜ、「ほんもの」が彼らの面前に登場するでしょうか? するわけがありません。

「自分だって、ほんものとにせものくらいの見分けはつきますよ」

人は必ずそう主張します。 一人の例外もなく、人間ならば、そう主張するでしょうね。
誰だって、「にせもの」を手につかまされていると知ったらいきどおるでしょうし、
自分が価値を信じたものが、「にせもの」だと言われたら怒り心頭でしょう。


でも、実際のところ、一人一人の人間が持っている、その自信たっぷりの
「真贋を見分ける目」によって、いとも簡単に「にせもの」が成立し、無意味に、
そして高コストに、「にせもの」が幅をきかせているのですよ。逆説的ですが、
そうなのです。 

「ほんものにせものを見分けているぞ」と自信を持って主張する人が、一人また
一人と蓄積することで、あろうことか、「にせもの」が高コストにやしなわれている。
そして、大量のにせものが日本と地域のお荷物になっているのです。

ここがスタート地点なのです。つまり、自分では「にせものではない」と信じて
必死につかんでいる「にせもの」を、真剣に吟味にかけて、「にせもの」だと判定すること、
「にせものは、しょせん、にせものだろ」と言い切ること。
そして、それ=にせものを放擲すること。これがスタート地点なのです。



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2017年07月11日

いい人

べつに他人のわるぐちを言いたいわけではないのに、
どこからどう見たっておかしな行動や言動を批判したら、よく、

「あの人はいい人だよ!」 という不思議な言葉がかえってきたことがありました。

... 「いい人」 なんの意味があるのか、と。そんな機会が重なったので、小さな詩を書いたことがあります。


いい人


「あの人は、いい人だよ」

「そう言うけど、あの人は、いい人なんだよ」

わたしがいままで、何百回、いや、何千回聞いてきたことばです

その度に思います


... べつにわるい人だなんて、言ってませんよ、

で、そんなに、みんないい人なんですか? と。

いい人で、だからどうなんですか...と。



結論、


いい人だって、そういうことにしておこうじゃありませんか

いい人だって、思えば、なんだか気が楽じゃないですか

みんなハッピーですよ いや、すくなくとも、

みんなハッピーになりたいんですよ

とりあえず、仲良くやりましょうよ

... 完


って、そんなに空っぽで、はずかしくないですか?

そんな、お気楽な決めごとを、人に強要したって、

なにも変わりゃしませんよ。

ある人のことを、「あの人は、いい人だ」のたったひと言で、

いったい、その人のどんな価値を説明したのですか、教えてください 

あなたのどんな価値観から、そう断じるのですか?

とにかく、わかるように、ひたすら言葉で教えてください。

...と言ったら、みなさん、逃げて行きました。

.......................................................

あぁ そうですか わたしにはよくわかりましたよ!

人が人を評価することはそれほどむずかしいということを!

だから、「いい人」という、珍妙な誤魔化しの言葉があるということを。

わるい人だなんて言ってやしないのに、先手をうって、「いい人」にしとかなきゃいけないということを!


さあどうぞ! ご自由に! 好きにしてくださいよ! 「いい人」とやら!

「いい人」と他人を明快に評価なすって、自分もどうやら「いい人」とおぼしきお方!


しかし、わたしは、自分を含めて、いい人だとは少しもおもいませんがね。



posted by 警鐘凡打 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

新年に「地方」をかたる


平成二十九年になりました。今年は酉年、丁酉(ひのととり)の年です。ことしもよろしくお願いいたします。

新年に何をかたろうか...と思い、「地方」についてかたります。円猿は、仕事の関係で東京を離れて一時的に地方で暮らしています。地方といっても地方都市ですが、どこの地方かは伏せます。

地方は、相当な人口の都会であっても、いろいろな意味で人間関係がしっかりしており、それでいて、それほど閉鎖的ではない。そんな感想を持っています。地方(都市)は、東京などと比較して、お金への依存率がかなり低いことも分かりました。これはすばらしいことです。お金が不要なのではありません。そうではなく、金銭で均しなみにものをはかる領域の外に、金融や商品経済に限定されないもっと大きな経済の次元があるからです。それから、地方では、子供たちが東京で見るよりもみんなかわいく見えます。地域に子供を大切に育てる伝統があるからだと思いますし、東京よりものびのびと育っているからでしょう。元気いっぱいに遊んでいます。また、子供から青少年、そして働き盛りの世代からお年よりまで、世代がつながっているように見えます。世代間のコミュニケーションが健在なのです。これもすごいことです。東京などと比較にならないほどです。とてもではありませんが、ここに書ききれないような数多くの独特の良さが地方にはあります。それぞれの地方固有のよさは、ほとんど無限でしょう。

ただ、地方が閉鎖的ではないと言っても、それだけで評価できるわけではありません。 円猿がはたらいている地方の人々は、マスメディア経由でしか他の都市や外国で起きている情報に関心をさいていないということもわかりました。危ないことだと考えています。 実際、円猿が仕事場で会う地元出身の人々が多くいますが、彼らは、ほとんど他の地方や東京、そして諸外国で起きている事柄に関心がないように見えます。東京が一番だなどということは全くありません。東京でやっているから、地方でもやった方がいい。そういうことばかりでもない。しかし、仕事する中で国や東京に関係する事柄が出てきても、「東京ではどうなんですか」という質問を一度も受けたことがありません。不思議に思っています。もちろん日々の会話や議論のレベルではないところで、関心を発揮していれば別ですが、そうでもないようなのです。

逆に、他愛ないことでも、地元に関する話題を振ると、みなさん揃ったように、よくぞ聞いてくれた... というような様子でにこにこ多弁に語りだします。 郷土愛はとてもよいと思いますが、「他者を知る」という本質的な努力を、自分から主体的にはたらきかけて相手に しなければ、他人を理解することはできないでしょう。漫然と一年、二年、経過していくだけです。なれ合いの関係になるかもしれませんが、それで終わりで す。相互に理解したことにはならないでしょう。 これは一人対一人の次元だけの話ではありません。

「地方は自分たちのことで精一杯なんだよ」 という声が聞こえてきそうですね。 もっともな意見に聞こえます。しかし、いかなる地方であれ、同じ声を上げて、「自分のことで精一杯で、国や他の地方のことは知らないよ」となったら、いったいどうなるでしょうか。制度の次元に限らず、日ごろから主体的に他の地方で起きている事柄に関心を持つ必要はあるのではないでしょうか。マスメディアに断片的に出てくる話題をはるかに越えて、日本の他の地方や東京、さらには諸外国で起きていることに踏み込んで関心をもち、関心を追求して、自分の地方の問題に立ち返るということも重要なのです。

なぜこのような主張をするかというと、地方の方々の中には、東京や日本の国についてもおおいに語り議論に参加するだけの潜在能力を持つ人が多いと思ったからなのです。自分の生きる地方を大切に考えながら、他の地方で起きている事、東京で起きている事、日本という国がかかわる重要な事柄、そして、諸外国で起きている事に彼らが真剣な関心を持ち、そして場当たり的な関心ではなく、ねばりづよく関心を発揮し続けたならば、それは大きな力になるはずです。


ラベル:新年 酉年 丁酉
posted by 警鐘凡打 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする