2017年10月28日

中国崩壊論から中国脅威論に「変わり身」する恐るべき人物


今回は、ちまたの言論人を批判しましょう。

評論家で、三橋貴明という名前で活動している人物です。ブログ主は、この人物の話に、3〜4年前くらいは「そうかな」と思える内容も幾つかあったのを覚えています。 しかし、最近の彼の言論の奇妙さにおどろいています。

三橋氏は、中国崩壊論を主張していました。


これを聴くとわかりますが、その内容は中国は実質的に経済崩壊するから、

「経済難民が日本に押し寄せてくる」 

と話をしていたのです。


ところが、、です。

最近、この人物は、急に中国脅威論をぶちあげてきました。 

では、どうなるのか?

最近は「日本は中国の属国になるしかない」

などと主張し出したのです。


どっちなんでしょうか?


以前は、日本で(経済の)低成長が続き、デフレが続けばという条件をつけていたようだが、もう、なりふりかまわず、これを主張している。

「2040年には、日本のGDPが中国のGDP

の10分の1になる。防衛費は20分の1になる」


というのが論拠になっている。

日本は、「中国の経済難民を受け入れなければならない」のか、「中国の属国になる」のか、どちらなのでしょうか?


大きな言論の矛盾が指摘できます。


そもそも、彼が以前主張していた通り、

中国経済が崩壊したら、中国の名目GDPが、

将来この通りになりえるわけがないですね。

というのも、 中国経済が崩壊するのならば、

チャイナの通貨が暴落して、GDPが日本の

10倍になるどころか、10分の1にすらなりえる

ということです。

直近でそのようになりうると主張していたも

同然です。 すると、中国経済崩壊の主張と、

「日本が中国の属国になるしかない」という

主張は矛盾していることが分かりますね。


ひたすら、中国共産党政府を賞賛しているのも矛盾している。

「こんだけ政府がまともだったらコケない」
「経済面から見れば立派」
「われわれは中国語を勉強した方がいい」
「ぜんぶ(日本の)財務省がわるい」
と断言している。お粗末きわまりない話ぶりだ。
極端すぎる。

中国は国際標準の統計もとれないどうしよう

もない国だという意見だった人物が、

いきなり感満載で、今度は、「政府がまとも」

「立派」と言う。そして、政府がまともな中国に

対して、政府がまともではない日本は、その

属国になるしかないと決めつける。

おそるべき変化でしょう。


なんでしょうか? この矛盾し切った言論人としての態度は。

彼には「そうである」という事実と、

「そうであるべき」という価値判断の

区別ができていない。

区別して伝えようという責任感すらない。

「このままでは中国の属国になる」というのは、事実ではない。上に示したように、彼が以前から主張していたように、中国経済崩壊すれば、成り立たなくなる立論だからです。ただ単に、彼一人が、「このままでは中国の属国確定だと認めるべきだ」と価値判断しているだけなのです。背言論人として誠実であろうとするのならば、「べき論」だということを、もっと聞く人にわかるように明確に伝えるべきでしょう。

言いたい放題言って、事実と価値判断の区別を、

すべて聞く人に丸投げする。

これが、無責任の極みなのです。

地上波の劣化したマスメディアと同じようなこと

をしているのです。

勝手に自分の価値判断を混入させて、事実であるかのように人に押し付け、自分の言いなりにしようとする。その劣悪さに気づく人々が増えてきてほしいものです。
ラベル:評論家 無責任
posted by 警鐘凡打 at 20:00| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月24日

選挙後の議員と政党の「行為」を検証する必要性


「政党論」が必要だと書きました。これに関して、以前に説明したのをほぼ同じ内容ですが、

「選挙後」 の政党の行為=実施した事柄の検証の必要性を主張します。

以前は、「選挙後サイト」の立ち上げが必要だという主張を展開しました。この主張は変わりません。 個々の議員の人々が、個々別々に自分の主観で実績をアピールするのは、見飽きています、聞き飽きています。 どこに行きました。誰と会いました。何を挨拶しました。党内で何をしました、等々。それらは、議員としての公的な基本行為のレベルであり、選挙で「やります」 と主張した事柄とは違うでしょう? そんなミクロな実績を100積み上げても、1000積み上げても、別に何ともならないですよ。 そんなことは、一人の最低レベルの礼儀をわきまえた日本人ならば、誰でもあなたの代わりにつとめを果たすことができます。 その程度の仕事ならば、くじびきで議員を決めても、仕事は十分に果たされます。 そういう仕事で、「議員さん!」「先生!」とか呼ばれて、うれしそうに応じたとしても、あなたの高コストに見合った責務を果たしたとは言えないのです。

政治とは、「行為」なのです。


政治とは、議員であるという

「状態」ではないのです。


この点を、ぶれることのない定点として、断固として主張しましょう。 そして、

行為といっても、

「誰々と会いました」

「どこそこの学校で挨拶しました」

「党内で○△の委員をやっています」

「○△という肩書(役職)がつきました」

○△議員連の集まりに出ました」

等々ではないですよ。勘弁してください。

それらは、政治の行為の本質ではなく、

あくまでも、周縁なのです。


行為としての政治を検証するためには、

選挙時に本人が「やります」と主張した事柄の

進捗を厳密にトレース可能にする必要があります


「訴えて参ります」

「主張して参ります」
...

NGです。どこまでもNGです。

行為ではないですから。


口だけで言うなら、あなたでなく

ても余裕でできます。

ちゃんと、政治という行為を

具体的に示してください。


ひとりひとりの議員だけでなく、政党も同様です

政党も問われているのは、行為なのです。


各政党は、選挙前に有権者に示した

「やります」 という事柄をすべてプロセスに

分解して、達成率とともに示しましょう。

いつ、どこで切っても、どこまで進捗しているのか

が分かるように示しましょうよ。

その程度の最低レベルのことをしないから、

マニフェストではなく、「詐欺フェスト」だと

揶揄されるのですよ。


それを、「選挙後サイト」をつくって、すべて公開

してくださいよ。



さらに、達成率が十分でなければ、自発的に

算定して、政党交付金の一部を国民に返して

ください。

その程度のことは、国民にいわれなくても、本来、政党どうしで話し合って紳士協定として取り決めるべきなのです。
どの政党が音頭をとってもかまいません。

さっさとやってください。
posted by 警鐘凡打 at 00:40| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

おそらく、平成最後の衆議院議員選挙(平成29年)を終えての感想


天皇陛下の譲位が、平成31年3月末となることが法制化されるようです。この法制化の是非はともかく、このタイムスケジュールに沿って見れば、おそらく、それまでに衆議院選挙は無いでしょう。

とすると、ほぼ、

今回の平成29年(2017年)の衆議院選挙が、

平成最後の衆議院議員選挙となることは確実です


その結果も判明しました。今のタイミングで、警鐘凡打ことブログ主が考えたことをつらつらと述べたいと思います。



一つめ、政党の動きのひどさです。政党のひどさが

投票率を下げていると確信します。


好き勝手な、政党のぶっこわし、政党の捏造をするなよ! 
好き勝手なぶっこわしや捏造を、政治活動の自由だの、結社の自由だのと勘違いするなよ!
自分たちで勝手に恣意的な政党のぶっこわし、捏造をやっているのに、だまされる国民が悪いとか主張するなよ!

何度も重ねて、こう主張したいと思います。

どこまでも国民=有権者不在で平然とひらきなおる。選挙をクリアすれば、すべてが許されると信じ切っている傲慢さ、劣悪さ。それが、厚化粧の緑のタヌキをはじめとする政党のぶっこわし屋、政党の捏造屋たちの本性です。 

これは、希望の党の人々だけではありません。立憲民主などという有象無象も全く同様です。「立憲」を永遠にするわけがない人々です、後生大事に憲法九条を守り、軟弱なテロリストである自分たちが暴力で革命を起こす可能性を先送りすることで安楽な夢を見ることのできる人々です。こんな最低モラルの人々が、日本の未来を50年、100年見据えることは不可能でしょう。 自分だけ、できるだけ多くの回数当選すればよい、後のことはどうでもいい。そういう人々が、立憲民主の有象無象です。共産党のひどさも指摘すべきでしょう。 

共産党の選挙カーは、日本の周辺にある幾つかの国のリアルな軍国主義を黙殺していました。北朝鮮のICBMが本州のはるか上空を横切っているのに、いつまでも、「森友学園、家計学園疑惑を許すな!」 です。そんなみすぼらしいていたらくで議席を守れるわけもなく、惨敗でしたが。

自民党も、批判をまぬかれるわけではありません。

自民党という党が、日本国民の生命と財産を守るだけでなく、日本の伝党を守るために真摯な努力をつづけてこなかったことは、明らかです。昭和30年代から、自主憲法制定といい続けているくせに、60年以上さぼりつづけている。冷戦終結後25年にもなるが、まださぼりつづけている。 

野党の時、あれだけ多くの下野した議員がいたにもかかわらず、自分たちの政党の過去の総括や反省のレポートを1つも出しませんでした。戦後もっとも長い時間与党にあった人々ですから、しっかりと過去の自分たちの政治を振り返れば、未来を見据えた重要なドキュメントになったはずですが、彼らには、それができないのです。そういうアイディアがあったとすら聞きませんでした。つまり、自民党の多くの議員は、読み、考え、構想し、議論し、書くという行為ができないのです。論文やレポートを書くことができないのです。議論めいた、お気楽な「おはなし会」を多数こなしているだけなのです。行き当たりばったりなのです。自民党の人々も、その日暮らしの人がほとんどだということです。

日本の伝統を守るために、何が必要なのか? ゲゼルシャフト(近代社会、商業社会、カネで動く社会の層)のレベルの政策に限定することなく、ゲマインシャフト(地域、家族、お金に還元されない価値の層)としての日本の維持のために何が必要なのか? という知を追求しない、研究しない、ただ放置し続ける。無くなったら無くなったで仕方ないじゃないかという無関心を決め込む。 自分の利害関心にかかわることだけ、メモに書いて官僚に調べさせる。 自分ではレポートも論文も全然書けない。 「総務会」というブラックボックスで満場一致で決定しているだけなのに、「日本型民主主義」という笑止千万な主義だと言い張り、胸を張る。 地方の伝統や慣習を深く知る努力をさぼり、地方には土建工業とカネを落とせばよいと信じ込む。その斡旋屋・利権屋になって、よいことをしたと満足する。そういう人々が寄り集まった自民党という政党は、18歳の有権者から、さまざまな世代の有権者にとって、興味を引く組織ではない。 ただ、景気が少し良くなったように見えるし、町の人の声が明るくなったように聞こえるから投票しようか... 程度の動機しか与えないのです。 政治への無関心を増大させている人々です。

二つめ、マスメディアの報道のひどさです。 

日本のマスメディアほど、特定政党に肩入れする

メディアはありません。そして、その政党の議席が

伸びたり、その政党が政権をとったりすると、自分

たちの功績だと信じ込む、愚昧をきわめた、

おめでたいメディア(人)は世界に類がない。 


政治家はこれを指摘しづらいでしょうから、ここで指摘しましょう。 そもそも、日本のマスメディアの多くの人々においては、自分たちが何をすべきかというミッションが脳内から完全に欠落しているのです。 左翼政党の議席を伸ばすことがミッションであるかのように、アホ同然の勘違いをする。今回もそうです。 立憲民主などという価値のない用済みの反社会的な人々の寄せ集めを強力に支援していたようです。多くの視聴者、読者が気づいていたでしょう。朝日新聞、毎日新聞、それらの系統のメディアにその特徴があらわれていました。 AI(電子頭脳)で、取り扱い方法、取扱時間を分析させれば、すぐに目に見える指標として現れるでしょう。 

マスメディアの人々の多くは、自分たちの仕事が保守権力とみなされている権力を手段を選ばずに批判中傷することだと信じ込む。 世間の人々にそういう役割を求められていると信じ込む。 いわゆる左翼とか、隠れ左翼(リベラルを自称することが多い)の人々が、さも世間の人々の支持をうけているかのように報道する。 「政権を倒せ!」と連呼し、恫喝する変な人々をやたらクローズアップする。そのくせ、政権を倒した後どうするかを、国民とともに考え構想するということを一切しない、できない。

日本の周辺にある幾つかの国のリアルな

軍国主義を黙殺する。北朝鮮のICBMが本州

のはるか上空を横切っているのに、いつまでも、

森友学園だ加計学園だと騒ぎ続ける。

特に朝日新聞のひどさは、多言を要さないでしょう。


と、二つでいっぱいいっぱいになりましたが、この辺でやめておきます。

とにかく、日本の「政党」がレベル低すぎます。 そして、日本のマスメディアが、最低最悪すぎます。 このふた言につきます。じゃあ、どうするのか。それは、機会を改めて少しずつ説明するでしょう。
posted by 警鐘凡打 at 18:00| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

保毛尾田騒動にもの申す


最近、地上波テレビの番組で登場する「保毛尾田」について、「保毛尾田」を登場させたテレビ局と特定の団体の間で問題が起きているようです。 ことの成り行きを見ると、テレビ局側が一定の非を認め、表現に注意する旨を表明したようです。この問題について語りたいと思います。

ブログの読者の中に、書き手が同性愛者かどうか気にする人がいるでしょう。全くそうではないと断っておきます。ただ、以下の意見は、同性愛者の論者であれ、そうでない論者であれ、双方の立場に立つ人間が考えうる内容、書きうる内容を想定して書いています。

まず最初に、テレビ一般の傾向を強く批判することにします。1つめは、おもしろければ何をやってもゆるされるというタイプの打算的な傾向への批判です。

人をおもしろがらせてやれば、何をやってもいい。

その番組を見ている視聴者を笑わせれば、それでよい。

こういう考え方です。世間には、保毛尾田を「糞つまらない」と思い、視聴しない人々が大量に存在します。または、その時間に、意に反してその番組を視聴させられている人も一定数存在する。30年前と比較して、テレビ番組の視聴ははるかに個人限定のものになっていますが、100%そうなっているわけではない。今でも、他の家族の嗜好に振り回され、必ずしも見たいわけではない番組を一緒に見せられる人は存在します。

これに対して、番組をおもしろがって見ている視聴者は、つまらなければ見なければいいだろうと主張するかもしれない。しかし、見なければ済むという問題ではありません。 テレビ局は、公共性に配慮する義務のある組織です。ということは、10%の視聴率の番組を、その時、その番組を偶然視聴している人々をおもしろがらせてやれば、後は何の問題ないという立場で済む組織ではない。当然のことです。

2つめには、保毛尾田をおもしろがっている視聴者を批判することにします。彼らの少なからぬ部分は、保毛尾田は「キャラクター」であり、すでに過去に確立されたものなのだから、今さら批判されるすじあいはないと意見している。

 「キャラクター」とは何でしょうか? この保毛尾田というのは、同性愛者を戯画化して、笑いの対象にしていることも間違いないでしょう。すべての点でそうだと断定はできないにせよ、一定の範囲で、男性の同性愛者のふるまいを戯画化しているのです。フィクションなのだから、何でも許されると思ったら、大間違いです。

人は、どんな対象でも笑うこと


ができます。しかし、


誰とでも笑えるわけではない。 


この程度の人間としての基本を認識しておらず、「フィクションなんだし、おもろいキャラクターなんだから、笑って何が悪い?」 と開き直っても、それが、社会的な認識として通用するわけではありません。きわめてローカルな言い分にすぎない。 

同性愛者(性的少数者)の

「権利団体が被害者づらをしている」

「被害者づらするな!」 

という主張もなされていますが、

これも論点のすりかえを含む主張です。 

そもそも、加害/被害の問題ではない。

それに、権利団体の人々は、加害者/被害者を決め付けて、被害者に成り切って圧力をかけているわけではない。問題の本質は、表現に一定の配慮をしながら、強い公共性を持つ放送事業を最適化しましょうという話でしょう。

お笑い芸人の「芸」をぜんぜん笑えない人々も相当多いわけで、その一部が同性愛者であるということを受けて、権利団体の人々が代弁者として行動しているだけです。「自分たち被害者の言い分を聞け!」と一方的に主張しているのではない。議論が必要な事象だと判断し、議論をしている。そういう性格があるのです。 

この程度のことを類推できない視聴者は、よほど地上波の弛緩したお笑い芸にひたり切った鈍感な人々なのでしょう。おもしろければそれでいいじゃないか、と言わんばかりです。自分がおもしろいと信じ込んでいる番組に対して、自分が理解できない視角から批判されたら、「弱者のヒステリックな叫びだろう」だの、「被害者ぶってごね得しようとしているんだろう」だのと偏見で決め付けようとする。そういう視聴者ばかりではないと思いますが、偏見で決めつけて気が済む人々は、鈍感なものごとを考えない人々に違いない。

それから、30年前の過去につくられたキャラクターだから、近未来においても、また、その先の未来においても、通用して当然だなどという認識は幼稚もいいところです。

過去に通用した表現だのキャラクターだのを権威化し

未来の視聴者に押し付けるのはナンセンス


でしょう。 「キャラクター」とやらに、おもしろがらせれば問題ないという打算的な考えが入っているかどうかも問題になるでしょう。 もちろん、入っています。 

3つめに、「表現の自由に反する」という主張を批判しましょう。コメディアンが、保毛尾田を演じるのは、表現の自由ではないかという主張です。 これも、1つめの批判と関係しますが、

表現を自由にして、では、何の成果を得るのか? 

ということですよ。それが問題なのです。保毛尾田に関して言えば、保毛尾田というキャラクターを何十年先にも通用させて、大上段に構えた「表現の自由」を確保したとしましょう。 で、いったい何の成果を得るんですか? それに対する答えとしてあるのは、ただ消費される「笑い」を得るだけでしょう。 それとも、価値あるテレビの放送文化を確保すると主張する視聴者がいるでしょうか? おそらく、いないでしょう。 つまり、「おもしろければいい」「おもしろがらせてもらえばいい」「あとは知らない」という無責任な態度の裏で、

表現の自由を行使して、とにかく

自分をおもしろがらせてほしい

と主張しているにすぎないのです。 それなら、別の笑いでもかまわないでしょう。 必ずしも、保毛尾田限定でおもしろがる必要はなかったはずです。他のもっと「おもしろい」、同性愛とは関係ないキャラクターで、おもしろがらせてもらえば、それで問題なかったのではないでしょうか。

保毛尾田を離れますが、最近、別のある発言が話題になったことも知っています。ラスベガスで起きた銃乱射事件について、無抵抗な人を一方的に傷つけようとするのは、「馬鹿かきちがいしかいない」 という発言です。 

この発言は、知的な障害のある人々を揶揄する表現では決してないことは間違いありません。 自分がおもしろがればいいとか、おもしろがらせればいいという打算もないと見ることができるでしょう。この表現について、「不適切な表現がありました」 とテレビ局側がアナウンスしましたが、このアナウンスは、必ずしも必要なかったのではないか、というのがブログ主の意見です。

最後にもう一度。

おもしろがらせれば、ゆるされる

人々をおもしろがらせれば、それでいい

こういう打算を、徹底的に批判しつづける必要がある


でしょう。

うそ臭い方法でおもしろがらせてやろうとする人々に対し

「糞同然につまらないね」 断固、そう主張しつづけます。


芸人だけを批判しても仕方がありません。糞つまらない芸人をはびこらせているテレビ局、その関係者をも断固批判し続ける必要があるでしょう。

一部の視聴者をおもしろがらせれば仕事をしたことになる

と打算しているテレビ局関係者に対しては、もっと今の日本

に必要な仕事をさが吟味した上で、丁寧に番組を作って

放送しろ。そう主張しつづけます。


中には、おもしろがらせればいいのだという打算のもとに、「キャラクター」をわれがちに選択し、実際にはそうではないにもかかわらず、同性愛者を下手糞に演じ続け、カネを手にしている人々もいるようです。実にぶざまな奴らですよ。そういう糞つまらない典型的な「にせもの」を多数飼いならしている地上波のテレビメディアは、最低と言うべきでしょう。

平成29年の日本には、ただつまらない笑いでおもしろがってすごすのではなく、世代をこえて、もっともっと多くの共有すべき情報、知識があるはずです。

ラベル:保毛尾田
posted by 警鐘凡打 at 01:21| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

厚化粧の緑のタヌキを叱る


緑のタヌキと呼ばれつつある、緑がパーソナルカラーの小池百合子という人物がいます。


この人物を、「厚化粧の緑のタヌキ」と呼びたいと思います。


tanuki.png


タヌキは化けてヒトをだまそうとする

という伝承がありますね。

そう、何か別の存在に化けて、人をだまそうとするのです。

ぶんぶくちゃがま(分福茶釜)


では、茶釜に化けて、元に戻れなくなったタヌキが出てきますね。

この厚化粧の緑のタヌキも、この意味では同じなのです。 

「希望の党」などという、まったく新しい政治勢力に化けて、

日本国民をだまそうとしています。


では、実態はどうなのでしょうか。 200人も立候補者を立てる

というような情報が出ており、いったいぜんたい、

誰が立候補者になるのか.... 見ていましたら、なんと、

191人中109人は、元民進党議員だそうです。57%に相当します。


厚化粧の緑のタヌキは、化けても無駄


だということに、われわれ国民は気づきましょう。 

「憲法改正」「集団的自衛権」を規約の中でうたっていますが、結局は、

タヌキの化けの皮をはげば、そこには

大量の無能な元民進党議員


が、税金の掠奪をつづけてやろうとたくらんでいるだけなのです。


「政党論」が必要な時期だとブログ主は思っています。

「政党とは、いったい何か」
「政党の本質は、何か」
「政党が実現することは、何か」

政党のミッションを再定義して、このような不毛きわまりない離合集散、

国民の目を欺こうとする意図が明確な動きを禁止可能にする仕組みを

導入する必要があるのです。 諸外国で、選挙が決まったとたん、いきなり

「解党」する政党など見たことがありません。

ぶんぶくちゃがまの

タヌキの化けくらべの次元


のことを地でやっている。 


選挙のための、その場しのぎの卑劣な行為をやめろと批判すると、多くの議員の人々は、


「国民が愚かだからだ、だまされるんだ」

「政治活動は自由だ」 

「結社の自由だ」 

などと、子供じみたリアクションをするでしょう。

こういう上っ面だけの薄っぺらな反論には、さらに強力な反論が必要です。


はっきりと反論しましょう。 日本の場合はまさに、

政党を、好き勝手に

こわしたり、つくったりする。

この身勝手な政党の操作こそが、

政治腐敗そのものなのです。


つづけます。

わずか、1年、2年前に、その政党が

政治という行為(政局ではない)をやる

だろうと期待して、投票用紙に政党名を

書いた有権者が大量に存在しますね?


政党のぶっこわし、捏造は、有権者たち

の政治参加の権利を、事実上侵害して

いるのです。 結社の自由だ、政治活動

自由だの話の次元ではありません。


国民=有権者の政治参加の権利侵害

の大問題をクリアしてから、「結社の自由」

「政治活動の自由」を主張してもらいましょう。


おそるべき政治腐敗があるような国でも、ここまで、「政党」を恣意的に

操作し、好き勝手に有権者をだまし、税金を簒奪しようという反社会的行動

を野放しにしているところはありません。 

日本の多くの国会議員という存在は、国民の政治参加の権利を侵害しつつ、

国民の財産を掠奪する自分に酔っているも同然です。 

新しい政党を否定しませんよ。

むしろ新たな政党は必要です。

国民の意志を受けて新しい政党をつくれる

要があります。ただ、そういう新しい勢力

は、すでに議員として既得権益化している

人々、過去に既得権益者で、また既得権益

に預かろうとしている人々、そういう人々とは

無縁に作ることができる仕組みが必要でしょう。

それが存在しないことが問題なのです。


もう数十年、政治屋連中のどこまでも恣意的な「政党」の改廃を見せつけられ

てきた国民は、これも日本の風物だ...  とあきらめているかもしれませんが、

決してそれではいけません!

これから先、日本でこのよう な無意味な「政党」の改廃を徹底的に終わらせる

必要があるのです!


日本国民が必要とする「政治」の実現にほとんど関係のない、

「政党」関係のダマシの入った動きを、国民は必要としていないのです。

当選した人々が、国会内で作業する際に、「会派」として結びついたり

離れたりすればよいだけです。

「政党」を単なる選挙管理集団だとみなすような、不毛をきわめた

動きは、徹底的に禁止することが必要です。

「政党」なら、一定の理念と足並みをそろえた行動によって、日本国民と

地域のための「政治」を実現する行動者集団として一貫した動きをとり、

選挙に際して政党は、解体する

のではなく、なおさら結束して、

国民に支持を訴えるべきなのです。


支持率が低かろうが高かろうが、

そうすべきです。


もしもそれができないのなら、

もともと、「政党」ですらなかった

ということです。


つまり、民進党、その前身の民主党は、元々「政党」ではなかったということです。

おそろしいことです。 実質的に政党でもなんでもないくせに、国民の財産を

掠奪し、国民の政治参加の権利を一方的に侵害していたわけです。


そして、厚化粧の緑のタヌキはと言えば、この、


元々政党ではなかったような団体の連中を引き入れ、立候補させ、またもや

国民の資産を簒奪させようとしている。


厚化粧の緑のタヌキは、


徹底的に批判される必要があるということです。


都知事ならば、すべての都知事としての公務をキャンセルすることなく

すべて実現し、都政に集中すべきなのです。


posted by 警鐘凡打 at 22:05| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

日本版「ファーストレディ」のおかしさを強く批判する


今回は、現首相の夫人のあり方について、かたります。
日本の首相の夫人をいつから「ファーストレディ」と呼称するようになったのか、それは分かりません。しかし、以下に説明するように、アメリカの「ファーストレディ」と日本の「首相夫人」は本質的に異なるのです。決して、日本の首相夫人を「ファーストレディ」として認知することはできません。

一つ、おことわりがあります。今回、現首相については、かたりの対象とはしません。安倍首相の政策についても多くの疑問点や議論すべき点はありますが、それとこれとを混同させるのはよくありません。夫人について、非常に目に余ることが多いので、この人物の行為について強く批判したいと考えています。ブログ主は、このかたりによって倒閣運動に加担しようとしているのではありません。その点を誤解されないようにしていただきたいと思います。政治の外の話です。


さて、本題です。

かつて、安倍夫人ほど、総理大臣の夫人の中で露骨に自身のキャリアに夫の地位を利用した人物はいないということです。ひと言でいって、前代未聞の変人でしょう。そう認識して差し支えないと思います。

もともと「ファーストレディ」というのは、アメリカ発の概念です。ヨーロッパではありません。アメリカの場合は「大統領夫人」であることに注意しましょう。元首の夫人ということです。「首相夫人」ではないのです。

アメリカがよくて日本がよくないと言うわけではないにせよ、アメリカの場合は、夫が大統領になる以前から、その夫人は多くの社会活動に従事し、職業人としてもプロとして活躍している場合がほとんどです。
 より決定的なのは、夫その人が候補者になる大統領選挙でも、夫人の人となり、公式の場での演説、そして社会活動が大きくものを言うという点です。つまり、私人として夫を支えたからという理由ではなく、「公人」としての発言と行為によって、配偶者の大統領選出の功労者の一人となる。それがアメリカのファーストレディなのです。

では、日本の「首相夫人」の場合は、どうでしょうか。 もちろん首相になる前から、私生活でたいへんなご苦労があり、さまざまなサポートをされているでしょう。それは、アメリカの場合と同様です。しかし、決定的な違いがあります。議員内閣制の日本において、

夫の首相選出プロセスに

日本の(未来の)首相夫人は

公人として関係がありません。


日本の場合も、首相になるための選挙がありますが、実質的に政党内でやる選挙なのです。安倍氏の場合なら、自民党という党内における総裁選挙です。この総裁選挙において、夫が(首相という地位につながる)候補者となり、そして選挙に立ち、選挙をたたかう一連のプロセスにおいて、夫人の公人としての活動は物を言いません。
 それに、夫が「公人」になるため(首相になるためではない)の何らかの選挙において、夫人が多少の影響力を持つとしても、せいぜい地元での選挙ていどのものです。衆議院選挙のようなケースでも、候補者の夫人が、選挙での勝利のために決定的な力を持つことはまずないでしょう。

以上のような背景がありますので、

アメリカの「ファーストレディ」を

日本の首相夫人にかぶせるのは

100%無理があります。

単に首脳会談、サミットなどの個別のケースで、首相に同行した場合に、一時的に、アメリカの「ファーストレディ」の同格者として扱われることもある人物。それが、日本の「首相夫人」なのです。日本にいるすべての時間、すべての機会において、日本の首相夫人が「ファーストレディ」と同等・同格なのではありません。この点を決して誤解してはならないでしょう。


ところがです。


安倍昭恵氏の場合は、首相夫人に

なったということで「ファーストレディ」

に意図的に成ろう、成りきろうとした

のです。この気持ちわるさです。

これが問題なのです。


しかも、多額の税金でやしなわれ

ている何人もの官僚を、自分の

秘書のように私物化し、実質的に

自分の使用人にした。


そして、やってもやらなくてもよい

居酒屋の経営をはじめた。


いきなり感満開で自分のキャリア

づくりに精を出しはじめたのです。

さまざまな公的な場において、「夫とめざすところは同じだ」などと比喩でしかない曖昧な言葉で公人として振る舞い、自分をもちあげてくれる国民を自分の全人格を絶賛している支持者であるかのように勘違いしているように見えます。言語道断というほかないでしょう。 


首相夫人が、公人として

「夫とめざすところが同じ」なら、

それはそれで結構です。

その主張を実現すべく、

国民の審判を得るべく、

立候補して当選するところまでやり、

公人=政治家として活動してください。


それくらいの本気度がないのならば、

「夫と同じ」などという比喩的な表現で

地域の有権者や国民をあざむくのは

絶対にやめるべきです。


公人格として夫がちゃんと政治家になり首相になっているわけですから、共通する価値観や思想があるのなら、公人として政治家になっている夫に託せばよいだけなのです。

もちろん、マスメディア等で発言しなくとも、私的な集まりなどで議論したり意見交換する程度なら問題ないでしょう 

あるいは、公人としてではなく、私人として好みや思想が似ている場合、私人としてめざすところが同じである場合を考えましょう。この場合は、なおさら大きな理由によって、夫人は公的な場で黙るべきです。 プライベートな事柄なわけですから。

最近報道されたことに、首相夫人に付き人が5人ついていたのを、3人に減らしたというものがありました。この「付き人」は、首相ではなく、首相夫人の意思と要望にもとづく人員配置に違いありませんが、きわめて大きな疑問があります

そもそも、国家公務員を、国民の審判を経ていないくせに「公人」としてふるまおうとする首相夫人のためにサポートさせることが可能なのでしょうか。 そうは思えません。即刻、ゼロ人にすべきでしょう。ケースに応じた個別の身辺警護のみで十分のはずです

国民の公の金を、プライベートな関係(=夫婦)に拡張し、総理では全然ない人物のキャリアづくり支援に充当するといのは異常なのです。国民の同意なく、それが行われている。 5人であろうと3人であろうと、異常です。 これは、恣意的な官房費の流用に相当しますし、一歩間違えば、公金横領に相当します。 官房費の使途や人員配置について、禁止条項を設けて、このような運用を禁止すべきです。

首相夫人の「付き人」を官房費などでまかなうことが許されている現運用は、法にもとづいて即刻変える必要があります。もし、現在の仕組みを容認するとしましょう。首相になったとたん、「めざすところは同じ」と主張する血縁者のキャリアづくり支援が可能な体制がどんどん進むとしましょう。すると、夫人だけでなく、もっと別のプライベートな関係(例えば、親子だとか甥姪の関係)に拡張し、平気で、首相の身内のキャリア作り支援に公的な資源が利用される道筋がつくられかねないということです。 血縁が遠くなればなるほど、実質的な公金横領になることが理解されるでしょう。

ブログ主は、首相夫人の人格を非難しているわけではありません。あくまで行動と価値観を強く非難しているのです。 官房付きの役人、官房費の適正な使用を検討し、必要に応じて法的な規制を加え、未来の首相夫人の方々のすぐれた行動規範を確立すること、そして、よりよい前例を吟味して作ってほしいと考えています。

 基本的に、首相の家族に対する「警護」は必要です。首相在任中に、その家族が私人としての活動をさまたげられたり、身の危険にさらされてはならないでしょう。しかし、「お付の職員」は間違いなく不要です。国民の民意を経ないおつき職員の恣意的な新設はやめるべきです。

日本の首相夫人には、何ら法的な根拠はありません。法的な根拠がない一私人に、権力(に相当するもの)を与えることはできないし、国民の同意を経ていない公的資金を与えることもできません。そして、一般国民とは比べものにならないような強い発言権を、その人物に与えることも非常に危険なことです。


posted by 警鐘凡打 at 06:27| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする