2017年07月15日

にせもの

以前、ごくごくふつうに口にすることができていた言葉があります。

「あれは、にせものだね」
「あいつは、にせものだ」

これです。

たしかに、「ひと」と「もの」を同じ意味で、にせものと判断できるわけではありません。
「ひと」を「にせもの」と呼ぶのは、ある種、比喩的な表現です。

ただ、「ひと」について言えば、「ほんもの」と「にせもの」を分け隔てる境界線は
きわめて明瞭なのです。いや、明瞭なはずなのです。こう言っておきましょう。

「ほんもの」は、社会的に価値のあることや、日本という国や地域に必要だと信じて何十年も活動する「ひと」、
「にせもの」は、自分のどんな行いに価値があるかを自身で分かっておらず、吟味できておらず、
とにかく自転車操業のように、自分の単なる飲み食いのため、あるいは、自分がそれだけのカネを
受け取る価値があるかどうか吟味することをサボりながら、とにかくカネのために活動する「ひと」です。


これらの「ひと」は、まったく別なのです。

わざとらしく、人にウケているように見せかけたり、
わざとらしく、おもしろいものに見せようとしたり、
わざとらしく、意味のあるように見せかけたり、
わざとらしく、知りもしないことを知っているように見せかけたり、
わざとらしく、権威者ぶってすごんでみたり、
わざとらしく、全然そうでない自分をつくろって、人をだましたり、

... 等々


そういうのは、とにかく、すべて「にせもの」と言い切ることができたのです。

「にせもの」として、人をだまし、人から時間やカネを巻き上げる。
やめた方がいいことです。本人が気づいた時点で、即刻やめた方がいいことです。

マスメディアに自分が露出することで、自分がカネを手にする一方で、いかに多くの
人々を不快にさせ、多くの人の時間を浪費させているか推察することなく、30年も40年も
放置し、老いていく。その場限りで、「あとは野となれ山となれ」。
論外です。

自分の名前のタグをつけて、多額の税金を引っぱってくることとか、ポストを占有し続ける
ことが自分の価値だと信じて、いったい、自分がそれだけの価値を提供できているか
どうかをいっさいい吟味しないまま、老人になる。定年になっても、必死に似たようなポスト
を占有しよう、月給取りを続けようと血道をあげる。ほとんど何らの疑問も持つことなく、
そんな行動をとることができる。
論外です。

自分の生活がかかっているかどうかなんて、関係ありません。
「にせもの」に成りきるのはやめて、ほかのもっとましなことを開始
するだけでいいはずです。

ところが、ここ最近は、「にせもの」をリアルに演じている人がしつこくいつまでもやめない。

他人をだましていることを知っていて、いつまでも「にせもの」をやりつづけるのです。
それをわかっていて、「にせもの」として堂々といばっているのです。


ちまたの人々の間でも、「にせもの」を口にする人がいなくなりました。


そのことが、不思議でなりません。

「みんな、それぞれ、くるしい事情があるんだよ」
「みんな、食っていかなきゃいけないから、しかたないんだよ」

..... そんなふうに、分別くさく主張する人々もいます。それも分かっています。

しかし、事情があろうが、自分の生活をささえる必要があろうが、「にせもの」が、1人、また1人
と世の中に割り込んでくる。すると、彼らにとても大きなコストがかかっているということを知るべきです。

「にせもの」には、とても大きな社会的コストがかかっているのです。
それを知る必要があります。

そして、その一方で、

「ほんもの」

つまり、社会的に価値のあることや、日本や地域に本当に必要な人のためにかける
ことのできるコストは、奪われている。これも事実です。
「ほんもの」に必要なコストが奪い取られ、「にせもの」が運用されているのです。


しかし、一般に人は、こう考えています。

「ほんものは、誰にでもすぐ分かるからだいじょうぶだ」
「ほんものは、どっちみち、かならず世の中に影響を与えることになる」

しかしですよ。

「にせもの」が不当に場所を占有しつづけ、「ほんもの」を登場させる場所を
ことごとくふさぎ、封じ込めているのに、なぜ、「ほんもの」が分かるのでしょうか?

「にせもの」の当事者たちが、にせものであることを知りつつ、姑息に隠しつづけて
いるのに、いったいいなぜ「ほんもの」が分かるのでしょうか?


はなはだ疑問ですね。


「ほんもの」がたしかに存在しているのに、「ほんもの」にふさわしい場所を与えられて
いなかったら、それは、人々にけっして知られることがないでしょう。
人々の認知される機会がなければ、「ほんもの」は存在しないも同然なのです。


多くの人々は、

「自由競争を勝ち抜いて、自分の目にするところに躍り出ている人々がほんものなんだろ?」
「ほんものなら、表に出てくるはずだ。自分の目にするところに出てこないとおかしいだろ?」
「自分の目にするところに出てこないんなら、ほんものじゃないんだろう?」

こう考えているのです。 
ちょっと考えてみましょう。この認識がいかに傲慢で、いかに危ういものであるかを。 

多くの人々は、自分が日常生活の中で目にする、新聞・テレビ・ラジオの記事や
プログラムの中に、「ほんものなら、出てこいよ」と言っているも同然です。

あるいは、新聞・テレビ・ラジオが、吟味した上で、確実に「ほんもの」を登場
させていると信じて疑わないかのような態度です。

実際は、マスメディアが圧倒的多数の「にせもの」を人々に押し付け、そして、
「ほんもの」と「にせもの」を吟味していない、区別もしていないことは明白です。

「ほんものなら、日々の生活のなかで、きっと自分はそれを目にしているはずだ」
このような認識を持つ人々は、自分が日々、目にし耳にするものの中で
「ほんもの」をすくいとっていると信じ込んでいるのですが、その認識は完全な誤り
であることが分かります。

そもそも、どこまでも受身でいて、マスメディアの流すまんまを視聴しているだけなのに、
なぜ、「ほんもの」が彼らの面前に登場するでしょうか? するわけがありません。

「自分だって、ほんものとにせものくらいの見分けはつきますよ」

人は必ずそう主張します。 一人の例外もなく、人間ならば、そう主張するでしょうね。
誰だって、「にせもの」を手につかまされていると知ったらいきどおるでしょうし、
自分が価値を信じたものが、「にせもの」だと言われたら怒り心頭でしょう。


でも、実際のところ、一人一人の人間が持っている、その自信たっぷりの
「真贋を見分ける目」によって、いとも簡単に「にせもの」が成立し、無意味に、
そして高コストに、「にせもの」が幅をきかせているのですよ。逆説的ですが、
そうなのです。 

「ほんものにせものを見分けているぞ」と自信を持って主張する人が、一人また
一人と蓄積することで、あろうことか、「にせもの」が高コストにやしなわれている。
そして、大量のにせものが日本と地域のお荷物になっているのです。

ここがスタート地点なのです。つまり、自分では「にせものではない」と信じて
必死につかんでいる「にせもの」を、真剣に吟味にかけて、「にせもの」だと判定すること、
「にせものは、しょせん、にせものだろ」と言い切ること。
そして、それ=にせものを放擲すること。これがスタート地点なのです。



posted by 警鐘凡打 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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