2016年06月26日

イギリスのEU離脱


英国のEU離脱について少し語りたいと思います。BREXITと呼ばれてグレートブリテン島で大きな争点になってきましたが、国民投票の結果、EU離脱賛成票が多数を占めました。この結果をどう理解すべきか。どう解釈すべきなのか。さまざまな憶測や解説が出されています。既に出されている説に対する批判を通して、より説得的な解釈を提示できるか試みたいと考えています。

「イギリスのEU離脱は、反知性主義である」 という解釈について、少し批判しましょう。反知性主義は、Anti-intellectualismという英語でも表現されます。実際にこの語(英語の方)で離脱派の人々を批判する動きも前からありました。しかし、EUに残留すべきだという主張が、知性主義で賢人の態度であり、EU離脱する主張が反知性主義で情念に振り回された主張である。引いては、一国の狭い視野に閉ざされた態度だと決めつけられるでしょうか。これは一定の留保を必要とするものではないでしょうか。

知性と情念の二分法を用いる思考パターンはプラトンの『パイドロス』あたりから見られる古いもののように思います。 一人の人間の魂には知的部分と情念的部分があり、なんとか情念的部分の粗野さ、野蛮さ、横暴さといった動物的衝動を乗り越えて、魂の知的部分にもとづいて人間は行動を導くべきである。これは明確な価値判断をともなう主張ですが、古来なされてきたものです。これを集団に適用して、人々の気分、情念に訴える主張を「反知性主義」と称して批判し警戒しようとする傾向は相当長くあるようです。

では、EU離脱の主張はもっぱら反知性主義だったのでしょうか。とてもそうは思えません。彼らも知性にもとづいて判断し、イギリスの人々の情念ではなく、彼らの知性と意志に明確に訴えかける部分を持っていたはずです。そこを検証する必要があると考えています。恐らく、EU離脱派の「知的」な理由の一つは、EUが、メンバーとなっている各国の意志を強く制限する包括的共同体であるということでしょう。イギリスはポンドの通貨使用を継続しており、その意味では、この国の政府の規定路線の一部において、EUという包括共同体に距離を置いていたのです。これは確かなことです。 国境管理に関しても、とにかくスケジュールを切ってシェンゲン協定への加盟を強力に(あるいは、脅迫的に)すすめようとしていたEUに対して、イギリスは態度を留保し続けました。これもこの国の規定路線だったのです。自国の通貨を維持し、自国の独自方針にもとづく国境管理を行う。べつに何ら反知性的な態度ではありません。基本要件を設定した上で、地域圏のプレーヤーとして他国との関係を深めることは、まったく反知性的態度とはいえないでしょう。

今の時代、交通手段の進化にともない通商がきわめて発達し、さまざまな産業において諸地域間での連携(グローバル化と言ってもいいでしょう)がすすんでいるからといって、各国家の裁量をきわめて強く制限する包括的共同体に属していなければ、すなわち排外主義の閉鎖的な孤立国家だと決めつけるべきでしょうか? 到底そうは思われません。時代に見合ったさまざまな相互関係を他の諸国や地域と作りながら自国の意志と裁量を留保するという選択肢もあっていいはずでしょう。問題は、EUがメンバーである国家を全方位的に縛る包括共同体かそうでないかという二者択一を迫っているところにあると見ることもできるのではないでしょうか。今回のイギリスのEU離脱をアメリカ大統領選挙の特定の候補者に関係付けて、閉鎖主義だと決めつける論調などは、とてもいただけません。それこそ、同時代の情報に惑わされ、いくつかの類似性で二つの現象を恣意的にむすびつけ、情念レベルで物言いしているようにしか見えません。

日本にもどりましょう。日本の多くの人々は、ともすると一国の枠組みを越えた、国際関係に、「知的に」高次のものが確実に埋め込まれているはずだと思考しがちなところがあります。その種の思考を無意識的にしてしまう傾向があると思います。国連に関してもそうですが、EUのようなヨーロッパの複数国家の共同体には、必ず設計主義にもとづいて種々の良い機能が埋め込まれ、そして実際に動いているに違いない... そう考えがちです。しかし、よく考えてみましょう。多国間の制度や仕組みが、例外なく諸国民の利益を実現しようとするもので占められているかどうか、そして、運用においてそのように機能しているかどうか。そこが重要なのではないでしょうか。

イギリスはEU諸国との関係が多少後退したとしても、孤立を深める道を突き進むことはないでしょう。EUの外の中東諸国、北米、南米、アジア、東南アジア、日本そしてアフリカ諸国などと独自の路線で関係を築く仕組みをつくるでしょうし、その仕組みの中でイギリス独自の道を「知的」に進む強靭な国家的意志を発揮するかもしれません。 

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2016年06月19日

樋口陽一という老害


日本には、「憲法学者」というかなり特殊な人々が多数存在し、大学という組織ほぼ限定で生息しています。彼らは自分で自分を職能者だと自認しているようですが、どうも相当怪しい点がありますので、今回、樋口陽一という人物の物言いを採り上げて批判することにしましょう。何十年も学生の親のお金や国民の税金で飲み食いして、「憲法」を教えている・研究していると信じ込んでいる人間が、81歳にもなってこの体たらくだということを、多くの国民は知っておいた方がいいと思います。

憲法学者を自称する人々にも発言する自由がありますし、彼らは彼らで自由に物言いしてかまいません。憲法学者になるつもりなど全くないわれわれにも言論の自由があり、自由に物言いしてかまわないのです。特定の憲法学者を自称する人物の人格を否定する必要はありませんが、彼らの学者としての行為や言動は徹底して批判して何ら問題ありません。彼らの特殊な行為、言動が積み重なっていかに酷い状態になっているか、いかに有害な結果を生んでいるか。そこまで踏み込んで批判して何ら問題はないのです。

まず、この人物が何を言っているか。つい最近夕刊紙に出た記事をお読みください。かなり長い記事ですが、聞き取り程度の内容ですので容易に読み流すことができるでしょう。


2016年6月13日
憲法学者・樋口陽一氏 「国民が求めるのは改憲ではない」
「言うべきことは言わなくては」と語る樋口氏(C)日刊ゲンダイ

 来月10日に参議院選挙が行われる。安倍政権は争点を「アベノミクスを進めるか、後戻りさせるか」などと言っているが、その裏で、憲法改正という野望を抱いているのは間違いない。9条の解釈改憲、違憲の安保法施行と、憲法破壊を断行した政権が「本当の改憲」に向けて蠢いているのだ。そこで自らの政治活動を40年間禁じてきた憲法学界の権威が立ち上がった。闘う憲法学者、小林節氏との対談「『憲法改正』の真実」(集英社)も話題。今そこにある危機を語ってもらった。

――先生は81歳ですよね。安保法案採決前の昨夏は、ご高齢を押して、小雨の降るなか、何度も国会前での演説に立たれた。「立憲デモクラシーの会」「立憲政治を取り戻す国民運動委員会」などの団体でも積極的に活動し、安倍政権の立憲主義破壊や自民党がもくろむ憲法改正の危険性を訴え続けていらっしゃる。その原動力とは何ですか。

私の専門は憲法学で、他の人より多少は知っていることがある。だからこそ言わなければならないことがあるし、国民のひとりとしても、言うべきことは言わなくてはなりません。

――安保法が成立し、政治権力が憲法の根幹を勝手に骨抜きにしてしまった。「学者は中立的な立場で論評していればいい」という悠長な局面ではなくなったということですか。

「象牙の塔」にこもって学問に専念できる時代のほうが研究者にとっては幸福です。しかし、いつでもそのような幸せな時代だとは限らない。

 戦後を振り返ってみると、改憲を目指した岸首相が1957年に内閣憲法調査会を発足させたのに対して、私どもの恩師世代が「憲法問題研究会」に結集し、世論に問題のありかを訴えました。大内兵衛さん(経済学者)が代表で、憲法学者では私の直接の恩師の清宮四郎さんと宮沢俊義さん、それから民法の大御所の我妻栄さん、そして湯川秀樹さんほかが発起人でした。戦時中の困難な状況に耐え、ようやく学問ができる。論壇に復帰できた。学者にはそんな思い、時代背景がありました。発起人の記者会見は各新聞が1面トップ記事で大きく報道した。それほどの出来事だったのですね。

我妻、宮沢のおふたりは政府の憲法調査会からの招請を断って、民間の憲法問題研究会を立ち上げた。当時の政府の要人が「政府からの要請を断っておきながら、札付きの左翼と研究会を発足させるとはけしからん」というような談話を出したのに対して、宮沢さんが、この問題については札付きの左翼とも一緒にやる必要があるというだけだ、と答えたのをおぼえています。

■問われているのは「改憲草案」賛成か反対か

――改憲をめぐって、自民党VS学者という構図が、岸信介の孫である安倍首相の時代に再燃していることに因縁を感じます。ところが、改憲が参院選の「争点」だということを自民党は伏せたがっている。

 首相は国会答弁で「憲法改正問題については国民レベルで大いに議論して下さい」と言う。しかし、いま国民の大多数は「憲法を変えて欲しい」などと政府に要求していないのです。世論調査でも分かるように、国民が求めているのは「原発停止」「TPPの影響や問題点の提示」「格差是正」「社会保障の将来への不安の解消」など、生活に直結する身近で具体的な課題です。

――だから、安倍政権は改憲問題を参院選で前面には持ち出さない。争点を明確にしないまま、選挙に臨み、3分の2の議席を得れば改憲について“信を得た”とばかりに突き進む。そんな懸念を感じます。

「護憲」「改憲」という言葉を、抽象的に憲法を変えた方がいいのか、変えない方がいいのか、という意味で使う人がいますが、間違いです。それぞれが「理想の憲法」を出し合え、というのが改憲問題ではありません。いま問われているのは、2012年4月に自民党が発表し、現に掲げ続けている「憲法改正草案」に賛成か、反対か、それを作った人たちが描いているこの国の未来像への賛否なのです。抽象的に改憲が問題になっているわけではないのです。

――「『憲法改正』の真実」のなかで、自民党改憲草案の問題点を子細に分析なさっていましたが、とくに驚いたのは、この草案が、戦前回帰、明治憲法回帰どころか、江戸時代の「慶安の御触書」レベルのものだと断言なさっていたことです。

 これは友人の歴史家が使った言葉なのですが、本質的な意味を含んでいる警句です。自民党改憲草案は明治憲法のようだというのは正しくない、むしろ明治以前の法秩序に戻るようなものだという主張で、その通りだと受け止めました。

 近代憲法は国民が国家を縛るものであり、民法や刑法は国民自身に向けられたものだ、という区別は大切です。しかし、実は民法も刑法も一人一人の行動に直接、命令は下さない。刑法には「人を殺した者は○○に処する」とあり、「人を殺すな」という書き方ではない。法が制裁を科すことで国民を縛っているように見える場合でも、やっていいのか、いけないのかという“良心”にまで踏み込んで縛っているわけではない。法と道徳は違うのです。

明治憲法制定にかかわった井上毅はこう書いています。「立憲政体ノ主義ニ従ヘハ君主ハ臣民ノ良心ノ自由ニ干渉セズ」

――ところが、自民党改憲草案では、国家がズカズカと人々の良心に踏み込んでいいことになっている。そのうえ、国家を縛るはずの憲法で、国民の方に「憲法を尊重する義務」や「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と命じています。自民党らしい、右傾化、保守化した改憲草案と言えますね。

 現政権を「保守」と呼ぶ人が多いが、本来の意味での「保守」には3つの要素が不可欠です。第1は、人類社会の知の歴史遺産を前にした謙虚さです。第2は、国の内・外を問わず他者との関係で自らを律する品性。第3は、時間の経過と経験による成熟という価値を知るものの落ち着きです。私たちをいま取り巻いているのは、そのような「保守」とはあまりにも対照的な情景です。

2012年12月の第2次安倍政権の発足時、日本のメディアが「保守化」と捉えた鈍感さとは対照的に、例えば、英エコノミスト誌は、「歴史修正主義に執着」する「ラディカル・ナショナリスト(急進民族主義者)の政権」と論評していました。当時から欧州では、そうした勢力が台頭し始めていて、懸命にそれを抑え込もうと苦慮していただけに、アジアで唯一、「価値観を共有」する仲間として安心して見ていた日本で、そのような勢力そのものが政権に座ったのか、という驚きだったのです。翌年初めの首相訪米の時のびっくりするほどだった冷遇は、その表れだったのでしょう。一転して去年の首相訪米の時の厚遇ぶりは、安保法制との物々交換で、「価値観の共有」より、それを優先させたということでしょう。

――安倍政権の言う「戦後レジームからの脱却」を、世界の秩序を揺るがしかねない構想だとして海外メディアは危惧していたのですね。

 欧米の教養のある人々は「戦後レジームからの脱却」というスローガンを聞くと、ナチスとカール・シュミットを思い出します。シュミットには「ベルサイユ・ワイマール・ジュネーブ」という論稿があります。それぞれ、第1次世界大戦にドイツが敗北して「押し付けられた」条約と憲法と、そして国際連盟を指す地名で、それらを拒否する宣言の意味を込めたものでした。

――ナチスといえば、民主主義的な手段でワイマール憲法をほごにしてしまった。安倍政権も「民主主義にのっとって」と装いながら、結果的に立憲主義を破壊し、民主主義を制限する憲法に作り変えてしまおうとしている。非常に巧妙で危険な手口に見えます。

 有権者は3年半の間に3回の国政選挙で現政権に多数議席を与え続けてきました。その意味で言えば、「民主」というカードの枚数の多さの上に政府与党が座り続けてきた。4度目の機会にそのカードを何枚、奪い返せるか、それが選挙の争点です。

 結党以来の自民党政権は、実は派閥という名の中小政党の連立政権で、政権内部の抑止要因が働いていました。3分の1の議席を確保できていた野党や労働運動、それにメディアの姿勢も権力に対する抑止要素となっていました。

 ところが、これしかないという「決める政治」を掲げて安全ベルトを外した政治は、この国をどこに連れてゆくのか。長らく自民党に投票してきた有権者たちが支持してきた自民党と、現在の政権与党は同じ政党なのか。ここが最も肝心な点です。

(聞き手=本紙・小塚かおる)

▽ひぐち・よういち 1934年宮城県生まれ。東京大学・東北大学名誉教授。法学博士。パリ大学名誉博士。国際憲法学会名誉会長。最新刊に小林節慶大名誉教授との対談「『憲法改正』の真実」(集英社新書)

nikkan-gendai.com/articles/view/news/183163



本ブログの読者はどのように、この聞き取りを読まれたでしょうか。反応はさまざまでいいと思います。幾つかの点にしぼって批判しましょう。

円猿的に、真っ先におかしいと思ったのは、この人物の「保守」に関する部分です。きわめて恣意的で情緒的な定義によって、「保守」の 意味を捏造しています。自分の与えた恣意的な意味に合うか合わないかの問題であるかのような外観を与え、読者を騙そうとしていることが見て取れます。法を学問 の対象とする者の詭弁がいかに危険か、われわれは強く認識する必要があるでしょう。そ もそも日本に関して、何を保ち、そして守るのか(保守)という根本的な思考において、「国民」「国土」がまったく出てこないのはなぜでしょうか。自明すぎて出てこないのでしょうか。決してそうではないはずです。

守る対象として、国民と国土を論じず、むしろ意図的に避けるのが、この人物が採る奇妙な態度なのです。彼は自身の議論の中心から「国民」「国土」を排除しているように見えます。とりわけ、「国土」を法的枠組みを用いて方法的に守るという思想を完全に放棄しているように見えます。それは憲法に関係ないと言わんばかりです。だが、この人物は同時に、憲法=日本という国の最高法規だと認識しているわけです。すると、容易に分かってくることですが、「日本という国の最高法規に、日本の国土を守る思想がなくてよい...」 こう樋口は暗に主張し、そして、国民をそのように価値判断するように導こうとしているのです。ふざけるのもいい加減にした方がいいでしょう。

話題を変えます。では彼は、「国民」「国土」の代わりに、何を保守すべき対象として繰り出してくるのでしょうか。よくよく注意して、彼が保守すべきだと主張する対象を読み取っていただきたいと思います。その部分をあらためて引用しましょう。

本来の意味での「保守」には3つの要素が不可欠です。第1は、人類社会の知の歴史遺産を前にした謙虚さです。第2は、国の内・外を問わず他者との関係で自らを律する品性。第3は、時間の経過と経験による成熟という価値を知るものの落ち着きです。

鼻でせせらわらった読者も多いでしょう。ずいぶんと大仰なお題目をかかげたものです。「謙虚さ」「品性」「成熟」が保守の三要素だそうです。彼は、これらの三要素をいかに方法的に保守するのか? 問われてもまともに回答できないでしょう。何一つ、これらのきわめて抽象的な三要素を「保守」するプログラムを提示できないでしょう。個人レベルで保守する対象なのでしょうか、集団レベルで保守する対象なのでしょうか、もし集団レベルだとするのならば、どのような大きさの集団として保守する対象なのでしょうか? まるで明らかではありません。ひどく曖昧なのです。それに、日本国民の多くが、この勝手な保守の定義に同意するでしょうか? 到底そうは思えません。きわめて抽象的な三要素は、いわば日本において近代以前からの一定の伝統として実現されてきているはずのものです。

いったん、樋口が、これらの保守すべき対象を日本国民という集団レベルで設定していると仮定しましょう。成熟は置くとしても、多くの日本国民が人として備えている「謙虚さ」「品性」は、きわめて長い時間をかけて世代から世代へ継承され、一定の集団性・民族性として実現されているものです。さらに言うならば、日本国民の「謙虚さ」「品性」は、今の時点で完成されているわけではなく、未来へ向けたさらに長い時間軸の中で完成されたものになっていくはずのものでしょう。樋口は、「謙虚さ」「品性」が集団レベルで実現されていく過程=プロセスにまったく意識的ではないように見えますが、これらは、戦後のわずか70年で実現されたものでは決してありません。また、樋口の述べるような「謙虚さ」「品性」を残念ながら備えていない(ように見える)多くの人々から形成された国も、この21世紀の世界に存在しているでしょう。当然です。樋口が保守すべきと主張する価値は、たった数十年で実現できるものではなく、幾つもの世代を要し、数百年の伝統を必要とするからです。「謙虚さ」「品性」に価値を置く伝統がなければ、そんなものは人々の属性にすらなりません。その程度のことにすら、樋口は意識的ではないように見えます。

さてここで、もう一歩踏み込んで、「品性」として彼が語っていることに注目しましょう。赤字の部分に注目してください。「他者との関係で自らを律する品性」。個人のレベルでは、こんなの常識でしょう。もちろん自らの意志で自分を律することが大前提ですが、他者に配慮し、他者に共感し、他者との関係を経由して自らを律しながら人間関係を作っていく。社会的動物である人間が古代からやっていることです。ゴリラやチンパンジーなどの一部の動物も限られた範囲でそれを実践しています。では、国民という集団のレベルではどうでしょうか。そうなるとさっぱり意味がよく分かりません。国民が自律的に動くことと、他者との関係で動くことは、どのように整合的になりうるのでしょうか? 自律的に動くことは品性を欠いたことなのでしょうか? 樋口の物言いでは、自律的に日本国民が動くと品性を外れて危険だから、日本国外の「他者」との関係で、他律的に動くべきだ、それを品性と理解すべきだということのようです。この21世紀に実に嗤うべきナイーブで情緒的な「他者との関係性」を繰り出したものです。それが、どこでどう間違って品性そのものになっていくのでしょうか。実に驚くべきことです。 何なら、南シナ海の南、南沙諸島すなわちフィリピン至近の海域に「他の諸国との関係で自らを律する品性」を欠いて、3000メートル級の滑走路を備えた軍事目的の人工島を勝手に作っている中華人民共和国政府を、樋口は強く非難すべきでしょうね。このシナの人工島には、日本のJALやANAの「民間」飛行機が自由に往来するということは絶対にないでしょう。明らかに軍事目的の拠点だからです。「他者との関係で自らを律する」のではなく、「自らの独断で自らの軍事行動を律し、他者(他国)の意に反して他者(他国)を強制しようとしている」 そのように見えます。これは樋口の思想によれば品性の欠けた行為なわけでしょう? ならば樋口は、シナの政府の行為を徹底的に非難するべきでしょう。

このように見てくると、そもそも樋口には、日本語で日本で学問する者としての良心が欠落しているとしか思えません。自身が日本という地で生命・自由・財産を守られ、日本語で学問できたことに対し、信じられないような無自覚さ、無神経さを発揮しているということです。それも81歳の老人として発揮しているということです。戦後71年もの時間が人間を老いさせると、ここまで領土、領海を守 るということに鈍感きわまりない人間の標本が出来上がるということを、まさにこの老人は体現しているのです。

「国防」が一度も出てこない奇抜さをさらに指摘しましょう。国連憲章51条、そして17、18世紀以後の自然法思想に精通することなく、「自身の身体を守る」「自身の生存をはかる」という 根本思想について考察できない人間は、おそらく、この現代において憲法を語る資格はありません。

国の最高法規が、国民という集団の生存に最大の関心を持たないわけにはいかないでしょう。

日本国民という集団の生存を、日本国民が「民主的」な方法を用いて自律的に達成するのではない、それは無理であると価値判断したり、国防を自律的に達成するべきではないと価値判断するのならば、そのような人は、民主主義を否定するだけでなく、近代の人間の自己保存をめぐる自然法思想の基礎すら理解していないということになります。 

もちろん、人間ひとりの身体の保存から、国民という集団の生存、国土(領 土・領海)という主権の保守へは、単なる比喩的な思考の拡張で済むわけではない。無媒介ではいけないのです。ですから、この個人→国民集団への媒介部分に関する方法的な思考こそ、近代の憲法学者がもっとも深く精通すべき部分なのです。それが、実際はどうでしょうか? 樋口に典型的に見られるのは、自律的に日本国民という集団が日本国民を守るという思想を放棄し、国民に放棄させようとし、あくまで国内レベルの権力抑制論に憲法の論点を局限しようとしていることです。

樋口は、あたかもこの問題を安部政権とか自民党の問題に還元しようとしているようですが言語道断です。円猿は安部政権を全面的に支持していませんし、自民党の党員などに一度もなったことがありませんし、これからも自民党支持者ではありませんが、樋口のような卑怯者はさらに支持しません。

国民を国民の民主的なプロセスを通じて国の内外の危険から守る、国民の手で「国防」を構想するという事業に81歳になるまで一度も真剣にコミットしたことのないお気楽な「憲法学者」が、民主主義を否定して、日本国民が自律的に価値判断して国防をつくりこむのを否定するのは、無責任のきわみでしょう。

そう断言しましょう。さて、ここでフランスを例にとるならば、2015年11月に悲惨な大規模テロが発生しました。それを受けて、2016年3月にフランスの憲法は改正されたのです。樋口をはじめ、日本の憲法学者を自称する人々は、このヨーロッパを代表する国の一つでもっとも最近になされた憲法改正の経緯をなぜ分析しないのでしょうか? 彼らには、この憲法改正の詳細を日本国民に説明し、日本の憲法改正と関連付けた論を展開する重要な責任があるのではないでしょうか? 彼らは驚くほどそれをしないし、できないのです。つまり、憲法学者を自称する人々は、自分たちローカルの「飲み食い」という 自己保存欲求を達成させようとしているだけの人々であり、「日本国内において、他のさまざまな国民=他者との関係において自らを律する品性」の欠けた人々と考えるよりほかないでしょう。

彼らも大学の教師や元教師という典型的な社会的「権力者」です。われがちに自身の権力をふりかざし、代議制というプロセスをぜんぜん経ていないのに政治や立法のレベルで自分の権力を行使しようとする。言語道断な人々です。もし他の日本国民と同格の一国民として発言するというのなら、「憲法学者」だの「名誉教授」だのといった社会的権力を示す肩書きはきれいさっぱり取り外して、「一人の国民として、一貫して物言いします」と毎回毎回ことわりをいれて、発言すべきでしょう。それほど困難なことではないはずです。

憲法で自衛について全く語 らず、国民と国土を守り保守する重要性を一切規定しないのならば、法として最上位文書として取り扱い可能な別文書を用意し、憲法との相互関係を明示する必要があるはずです。それすらせずに、

国防を完全に黙殺して、国内レベルの権力濫用防止だけに極端な近視眼を向ける。「立憲主義」という語で、国内問題だけを憲法の取り扱い領域であるかのように信じ込ませようとする。そして、そういう嗤うべき近視眼的思考を国民に強制しようとする。学者としての良心を放棄したというべきでしょう。

もはや、国防を視野の外において「憲法学者」を名乗る愚か者は、日本に不要だと国民は 認識すべき段階にきていると思います。彼らは大日本帝国憲法が一度も改正されることなく戦後を迎えたことを象徴的に示す人々であり、日本において憲法が国民の手で一度も改正されたことがないことを利用し、自分たちの利害を実現している人々にほかなりません。「日本国憲法」が民定憲法というのならば、この憲法は国民の手で改正されて全く問題ありませんし、代議制を通じて改正されて全く問題ありません。そのような憲法の法運用を難しくしようとしている「憲法学者」は、一度も改正されたことのない大日本帝国憲法の運用にいまだに守られている古道具のように使えない連中です。

つまらないことですが、「英エコノミスト誌」だけを引き合いに出して、なにやら、外国の視点を示しているように見せかけているのもお粗末です。ほとんど単なるプロパガンダの片棒担ぎであり、学者の良心に反する態度です。そもそも、商売や金の計算に関心がある英語の読者を対象とした ローカル新聞、グローバル資本への関心で国際的な新聞だと錯覚させている新聞の記事など引き合いに出しても大した意味はありません。学者を自称するのならば、英語だけにとどまら なず、せめて仏語や独語等の複数言語の論調にもとづいて公論にうったえるべきだったでしょう。樋口が憲法の改正を大きい問題だと考えているのならば、なおさらでしょう。エコノミストなどという新聞だけを参照すべきではなかったはずです。 

彼は、ぜひとも、東南アジア、南米などを含めて、利害関係の異なるさまざまな諸外国の新聞、相 異なる現地語で書かれた論調の中に、日本の憲法(改正)に関して下された判断を読み解いて自ら考え、そして国民に紹介すべきなのです。

81歳だろうが90歳だろうが100歳だろうが、学者なら学問で勝負すべきでしょう。ごくごく常識的なことです。
日本語で日本国民に向けて発信するのならば、日本国民を守るための具体的な構想と憲法を結び付けて議論を可能にする必要があるでしょう。
 それができないのならば、「国防に関しては自分は全く無知無能です」と事前に宣言し、「自分は憲法のごくごく一部、権力抑制のテクニカルな議論に集中して憲法論議をします」と宣言すべきです。

ぬくぬくと日本国憲法の条文や判例の中に閉じこもる必要もありません。国民が知るべき憲法改正の様々な事例を諸外国からも最大限収集し、公正中立な視点で提供すべきでしょう。下手な芝居がかった政権批判、倒閣運動を誰も彼に求めていないはずです。

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