2014年06月14日

「日本人をきらいにならないで」という無意識な思考パターン

30歳をこえた、国籍上、日本国民らしき人物の言動を取り上げて語りたいと思います。自分の言動と行動にすべての責任を自分で持つべき大人であり、いい歳をした大人という表現が相応しいでしょう。

この人物の言動には、ある意味で、一部の日本国民の中に確実に根を下ろしている無意識の卑屈な思考パターンが関係していると円猿は考えています。つまり、「集団としての日本国民」が、他の外国人の価値観によって、一方的に価値ゼロと判定される危険性があるととか、そう判断されて日本国民が罪責感に陥っても仕方ないとか、そういう無意識に近い思考パターンと言ってよいものです。世界に多くの諸国民がありますが、その大多数の国民は、一般の日本国民すべてを含む「集団としての日本国民」を全否定するとか、一方的に嫌いぬいたりするとかいうことは、まず無いでしょう。 

もしも、「集団としての日本国民」を全否定するとか、一方的に嫌いぬいたりする国民があるとすれば、そのような国民は、後天的に、「集団としての日本国民を否定すべきだ」「集団としての日本国民を嫌うべきだ」と教育されている国民で間違いないでしょう。 平和を愛する諸国民などでは全然なく、生まれつき人間が持っている善良な気質や、現代の多くの文明国民が共有している価値観を排除してでも、「集団としての日本国民を否定すべきだ」「集団としての日本国民を嫌うべきだ」と後天的な教育を子供にすりこむ国民でなければ、そんなに簡単に、日本国民を否定することも、嫌うこともできないでしょう。そういう後天的に日本国民を嫌わせるような教育をやっている国民は、シナ共産党と南北朝鮮しかないでしょう。

東スポWeb 6月13日(金)14時1分配信
 歌手の宇多田ヒカル(31)が13日、自身のツイッターを更新してサッカーW杯ブラジル大会の開幕戦「ブラジル―クロアチア」で日本の西村主審がブラジルにPKを与えた件に対し「日本人を嫌いにならないで」と祈った。


「I hope Croatian people don’t hate Japanese people after their  unfortunate match against Brazil today…」(ブラジルに負けた不運な試合の後でも、クロアチアの人々が日本人を 嫌いにならないでほしい…)と英語でツイート。

 イタリア一般男性と結婚したことで注目を浴びている宇多田だけに約1時間で900を超すリツイートがある。

 試合は、1―1の後半24分にペナルティーエリア内でクロアチアのDFロブレンがブラジルのFWフレッジを後ろから倒したとして、西村主審がブラジルにPKを与えた。

 この判定にクロアチアのコバチ監督が試合後、「あれがペナルティーなら我々はサッカーなんてしない方がいい。バスケットボールをすべきだ。主審は我々とブラジルで判定基準が違っていた」と激怒した。

 ネットはすでに“祭”状態。ブラジルのユニホームを着た西村主審のアイコラがつくしのようににょきにょきと出てきている。


つまり、たった一人の日本人の審判の判定が原因で、「集団としての日本国民」が嫌われると短絡的に考える人間は、すでに、シナ共産党政府や南北朝鮮政府の思考回路で判断しているということなのです。と同時に、「クロアチア人や他の外国人も、ひどい反日教育を受けている朝鮮の人間や、シナの人間のように短絡的な判断をするだろう.... 」 と無意識のうちに想定しているに等しい。クロアチア人や他の諸外国の国民に対して、これほど失礼きわまりないことはないでしょう。


サッカーの試合に主審が一人の日本人であり、そのたった一人の日本人が、プロの審判として公正中立な判定につとめたにもかかわらず、一見、ある特定の国(クロ アチア)の代表サッカーチームに不利になるような判定をしたことが、「集団としての日本人が嫌われる」原因になると考える思考パターンの異質性・異常性こそが問題にされなければならないということです。 

好きになるとか嫌うとかは、感情にすぎません。個人個人の感情で勝手にそう思えばいいことです。それでも、もし、この程度の出来事で真剣に日本人を集団として嫌い になることのできる人がいたら、世界の諸国民の常識からすれば、奇跡みたいなものでしょう。審判という職業能力者の「国籍」が、たまたま日本だったという 程度のことが理由で、一般の日本国民を嫌う理由とするような人々が現代に集団を構成していたら、それはおそらく、特定の国の人々、つまり朝鮮の人々とかシナの人々しかいないのです。そして、どんな個別の断片的な現象でも、日本国民全員を否定し差別する理由に意図的に用いようとしている人々は、世界の諸国民の中で、極めてマイナーな 人々なのです。

スポーツの世界では、国と国を背負って選手たちが競技する機会も少なくありません。一人の選手、一人の審判が全力を尽くして行ったプレーや判定の結果については、いろいろ推測したり批判したりすることは、できて当然でしょう。 国民性や集団としての価値観に疑問を持つとしたら、プレーや判定とは関係のない行為やふるまいの次元です。例えば、試合の前や後に、自分の国の領土の所有権を露骨に主張する行為です。こういう行為は、一人の選手のプレーの次元にとどめることはできないでしょう。こういう行為こそ、一人の人間のふるまいをもとにして、集団の次元の価値観が当然問題にされ糾弾されるべきケースでしょう。

最後に、今回取上げた30代の人物の思考パターンに、日本の戦後民主主義の歪さ、日本国憲法の「平和を愛する諸国民」 という文句のもたらす判断と行為の矛盾が明瞭に現れているのです。その点も指摘しましょう。 「平和を愛する諸国民」 という言葉を元にして、諸国民をシナや南北朝鮮の人々で埋め尽くされているかのように誤って認識することによって、以下のような恐るべき低レベルな道徳に落ち着くのです。自分が日本国民であるにもかかわらず、一方的に他の日本国民を軽蔑して平然と開き直るような最低レベルの道徳的判断、道徳的行為に落ち着くのです。

「どうか自分をきらいにならないでください。 自分の主張をまげてでも、カネを貢いででもあなた(外国、外国人)の気に入られるようにしますから」 

「どうか自分をきらいにならないでください。他の日本国民を犠牲にしてでも、あなた(外国、外国人)の気に入られるようにしますから」

平和憲法という呼び方はやめるべきだという主張を以前にしましたが、GHQの作成した「日本国憲法」は、日本国民が日本国民を尊重できないようにしているのです。言い換えれば、ある日本国民が、外国のいいなりになって、他の日本国民の平和を乱すことに加担するメカニズムを作ってきたのです。日本国民が日本国民の価値判断や主張を追求できないようにしているのです。

そもそも憲法とは何でしょうか。 特定の国の憲法とは何でしょうか。それは、国民が国民どうし共感し合い、国民が国民を尊重しながら活動するベースになるはずのものです。外国や外国国民との関係領域は、日本国民が日本国民を一貫して尊重する仕組みの外縁に置かれるべきものでしょう。
posted by 警鐘凡打 at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする