2014年05月28日

イミン蝉


最近うるさく鳴いている、イミン蝉について、語りたいと思います。 イミィ〜ン イミ〜ンとほざいている人々です。期限を切った外国人労働者の受け入れと、移民は全く別の事柄である点に注意しましょう。

イミン蝉 = 「移民」 を主張するが、その論拠を説得的に述べることのできない人々

のことです。日本に、様々な国の人々が来て、日本の歴史や文化を彼らが尊重しながら、日本国民も彼らの文化や歴史を知り、共存をはかるのならいいのですが、過去20年の動向を見れば明らかなように、留学や労働で日本にやって来る人々は多様化どころか、まったくその反対に、局地化・単純化しています。つまり、シナ人、南朝鮮人という特定外国人ばかり増えているのです。その割合は、他の諸国の比ではありません。これらの二つの外国人の犯罪も大変な数です。警察庁や警視庁の統計を見れば一目瞭然です。シナ人(香港以外)と、南朝鮮人の犯罪、犯罪の中に凶悪犯罪の占める割合は驚くべきものです。

この異常さ、そして彼らの犯罪の異常さを論じないで、日本はイミンを大量に受け入れるべきだというような奇妙な主張とも言えない主張をする人々は、イミン蝉とでも呼ぶべきだと考えています。なぜ、一時的な外国人労働者受け入れではなく、イミンでなければならないのか。その論理的必然性は全くありませんね。 「日本の人口減少を止めるためだ」というのもよく聞かれる浅はかな論ですが、この論にも全く説得力はありません。なぜなら、人口を維持しなければならない理由、どの程度の人口によって何を達成するのかという理由がどこにもないからです。日本の人口は自然減に転じています。これは良くも悪くもない傾向として、いったん受け止めるべきでしょう。

多くの省庁では、日本の人口減に伴う推計を出していますが、その多くは嗤うべき内容のようです。ほんの数年前までは、人口が増加に転じない限り、日本はデフレからは脱却できないから、移民を受け入れるべきだというような驚くべき短絡的な愚論、気違いじみた論すら吐く馬鹿が世間には存在していました。 実際は、そんなことはないのです。 そして、最も重要なのは、人口というのは、その時代のトレンドや国民の傾向に依存する事象であり、ひたすら減少し続けるというような予想を立てる必要はないということです。日本の人口が、現状で1億3000万人ならば、自然減に人口が転じても、だいたい、1億人〜1臆2000万人くらいの人口を予想して、しっかり維持できる日本という国をつくればいいだけでしょう。10〜15%程度、人口が減っても、労働力や生産性に対応できるように、とりわけ高齢者の雇用を創出する必要があるのです。

高齢化社会をネガティブにとる必要は全くありません。人類が過去に経験したことのない、高齢者が人口の多くの部分を占める時代に、上手に高齢者を労働の世界に組み込むことこそが、最重要なのです。日本では、65歳以上で能力もスキルもあり、コミュニケーションも適切にでき、パソコンスキルもある高齢者の方々が沢山おられます。彼らの多くは、リタイヤする前と全く同じスタイルではなくても、仕事をしたいと考えています。その数は、今後どんどん増えるでしょう。彼らをフルタイムではなくても、ワークシェアリングの仕組みなどを活用して、様々な世代の人々とともに、やりがいのある仕事に従事してもらえる仕組みを作る必要こそ、急務と言えるでしょう。それができれば、外国人労働者や移民に依存しなければならない部分は、極めて小さいものとなります。建設現場でも同様ですよ。こういう話をすると、すぐに肉体労働は無理だろう。建設業は若い力のある外国人にやってもらうしかないだろう.... という時代遅れの意見が出てきます。全然そんなことはありません。最近では分業が進んだ建設業の様々な労働は、70歳でもゆうにできる仕事が山とあります。安全に留意して慎重に仕事を訓練すれば、人によってはもっと高齢でも取り組み、貢献できる仕事があるでしょう。日本国民の高齢者が、様々な世代の国民とともに従事できる仕事をつくることが最も重要だと改めて強調しましょう。

話を、イミン蝉に戻しましょう。イミン蝉はなぜ危険なのかという話です。この問題の核心は、移民として、日本国民=敗戦国民とみなし続けている、シナの人々、南朝鮮の人々を圧倒的な割合で入れようと想定していることです。これが一番の問題なのです。

いまだに、日本国民を「敗戦国民」として、外国人がみなすことができる状況が続いている。この状況が実は、戦後このかた、まったく改善されていません。

法や制度だけでなく、マスコミを含む社会的な仕組みすべてが、この状況を改善するようにアップデートされていない。

間違いなく、これが最大の問題です。とりわけ、反日政府の教育によって、100%勘違いの戦勝国民意識をいまだに持っている支那、朝鮮の人々が、新たに日本に来るとして、

日本国民=敗戦国民とみなした、外国人による、社会の公正に反するような不当な権利の主張、その他の様々な反社会的な行為が平然と容認される可能性こそが最大の問題

でしょう。そういう日本の主権者である日本国民への権利の侵害に対する社会的制裁やペナルティーの仕組みをつくり、反社会的な行為を排除する仕組みをつくって、まず提示するべきだと思います。

さて、実は、以上に述べてきた事柄は、多くの日本国民が気づいていますが、「戦後レジーム」と呼ばれる様々な悪弊の中に主要なものなのです。戦後レジームの国際関係における悪弊は、日本国民の一貫した戦略によって国民と国土を守るための国防を構築できないことですが、その一方で、国内における「戦後レジーム」の悪弊を一言で述べるならば、これです。

日本国民の命や権利が不当に軽く扱われ、
特定の外国人の権利が不当に尊重されている。

この事柄が、社会的な仕組みや制度を伴ってなされ続けていることが大きな問題です。その起源は、昭和20年のGHQが出したSCAPIN-33 という、シナの人間や朝鮮の人間に対し、彼らにとっていかなる不利な報道もしてはいけないという類のプレスコードに大きな原因があるものですが、NHKや朝日新聞を代表とする敗戦利得者のマスゴミは、GHQが存在していない21世紀の現代も、このSCAPIN-33を遠因とする社内の検閲によって、特定の外国人の権利が一方的に守られるように保護しているようです。

二つのケースを想定していただきたいと思います。 まず、日本国民が加害者で日本国民が被害者の殺人事件、凶悪犯罪です。この場合、加害者が成人ならば、間違いなく実名報道されますし、その人物は日本の治安の脅威となる人物だと認知される仕組みが機能します。

次に、被害者が日本国民で、加害者がシナ人や南朝鮮人、あるいは「在日朝鮮人」と呼ばれる人々である場合を想定してください。日本国民が、他の日本国民ではない外国人によって、殺害されたり凶悪な事件に巻き込まれたと想定するのです。「外国人」と言っても、どこでもいいわけではありません。この場合に、シナから来た外国人、南朝鮮から来ている外国人、誰も強制移住させたことはないのに、勝手に被害者ぶって日本に住み続けている「在日朝鮮人」を想定してください。この場合、加害者が成人であっても、実名報道されませんし、その人物は日本の治安の脅威となる人物だと認知されないように、隠蔽するマスゴミの特殊機能が作動するのです。

国内的な「戦後レジーム」という事柄の本質は、

一言でいうなら、「日本国民の命や権利が、他の

特定の外国人の命や権利よりも不当に軽く扱わ

れる仕組み」です。 

それが、最近ようやく分かってきました。その最もいい例が、拉致事件です。北朝鮮によって、日本国民が多く拉致された事件です。この事件の背後には、官公労と呼ばれる労働組合の幇助も重大な責任があります。以下の26分50秒〜29分30秒 あたりを見れば分かります。この昭和50年代の官公労の組合系の拉致協力者の一人も逮捕されていないということは、到底信じ難いことです。


しかし、拉致事件の本質には、「外国人」が一方的な加害者なのに、それを報道しないということがあるのです。どうやら、日本国民を拉致したのが「外国人」それも北朝鮮の「朝鮮人」だと分かった時点で、報道をわざとゆるくしたりやめたりする奇妙なマスゴミの行動が間違いなく過去に蓄積していたのです。円猿は、ようやく、最近になってそういうことが分かってきました。これは、日本のマスゴミによる、「報道しない自由」を行使した、明らかな日本国民に対する人権の侵害であり、外国人による犯罪幇助にあたります。外国人による犯罪幇助を、外患誘致と言い換えてもいいでしょう。日本国民の権利が、特定の外国人に一方的に剥奪される、日本国民が一方的な暴力によって殺害されることを、無言で支援しているようなものだからです。

イミン、イミンとうるさく鳴いているイミン蝉は、少なくとも以下の事柄をクリアにして、国民に説得的に説明する必要があるでしょう。とりあえず移民は不要ですから、最初は一定期間に労働者として外国人が日本で労働に従事する仕組みを立案すべきでしょう。外国人の技能実習制度は問題が多いと言われています。そういう制度にするから、特定の外国人ばかりくるという結果を生んでいるようです。ならば、別の制度を案出してもらいましょう。その程度の知的な作業をせずに、イミン、イミンと鳴くのは、やめてもらいましょう。

(1) 外国人労働者は、日本の30代までの若者の就職や日本の高齢者の再雇用によって達成できない労働市場にだけ、適用すべきでしょうから、失業している日本国民の若者に適正な職場をマッチングさせて供給する一貫した仕組みを提示してください。また、能力もスキルもある日本国民の高齢者が働くことが出来る労働市場が、どのような分野で可能かを調査して、65~80歳くらいまでの元気な日本の高齢者が労働可能な労働市場の推計を出し、実際にワークシェアリングや軽勤務という労働スタイルを用いて、高齢者が快適に働き、しかも地域や会社に貢献できる成功例を提示してください。少なくとも10程度の成功例は示してもらいましょう。

(2) 特定の外国人ではなく、多くの国々からまんべんなく日本にくるような計画を提示してください。グローバルな時代なんですから、近隣の国に偏って、圧倒的な割合の外国人が日本に来る必然性は全くありません。むしろ、シナや南朝鮮以外の地域から外国人が来るための必要な一貫した方策を説明してもらいましょう。

(3) 移民ならなおさらですが、移民でなくても、一定期間日本にきて労働に従事する外国人を万人単位で導入するという場合、イミン蝉は、人材の採用段階から、責任を持って仕事にかかわるべきです。 とりわけ、現地に、日本とその国の法律を理解し、日本国民と日本企業のことを考えた上で人材のマッチングをはかる採用チームを派遣して、採用段階からすべて仕切ってもらいましょう。そして、当初、日本で暮らす数年間については、本国に 強制送還で返すケースの条件も、二カ国で議論して、事前に決め、採用希望者に事前に説明を徹底すべきです。採用段階で、「自分は日本の国法を遵守し、遵守できない場合に、いかなる申し立てをせずに本国の費用によって本国に送還されます」と誓約させるべきでしょう。

(4) 様々な国の人々が来て、日本の歴史や文化を彼らが尊重しながら、日本国民も彼らの文化や歴史を知り、共存をはかる仕組みについて、ペナルティーや法的な対処を含めた措置を提示してください。 つまり、日本の歴史や文化を尊重できない、それどころか軽蔑しようとする、軽蔑させようとする。そういう人々をすみやかに国外退去させることまで視野に入れて提示してもらいましょう。 口で言うのは簡単ですよ。 「お互いの文化や歴史を尊重しながら、共存共栄をはかる」。本当にそれができる外国人が実際に日本に来ているんですか? それを定点観測し、検証し、不適格者に対処する法的な仕組みを提示すべきでしょう。日本国民の文化や歴史を尊重することができない。日本の文化や歴史を尊重しない分際で、自分たちの文化や歴史を一方的に押し付けようとする。そういう行為しかできない人間、そういう認識しか持っていない人間を、不適格な人物として、適切に排除する仕組みを提示してもらいましょう。



タグ:移民
posted by 警鐘凡打 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月25日

文化交流にもの申す

いまだに、「文化」「文化」と主張するお偉方が少なくありません。日本の文化を大切に思う一国民として、かたりたいと思います。

軍事力と国防を確固としたものにすることを、「国際的ではない」「国際社会に貢献しない」「自国のエゴイズム」と捉えて、文化に関係する事柄を推進すること を、「国際社会への貢献」 「平和への礎」だと考える傾向は、いまだに日本国民の中で強くありますが、実際のところ、このような傾向自体が偏見だと思います。思考の方向性自体が、戦 後の偏見に起因していると思います。

「文化」には国境を超えて何らかの国際的な対象になる

特権的な価値があり、流通させる価値がある。国防と

軍事力には国境を超えて国際的なものになる見込みも

価値も全くない。そういう偏見

です。自分の国の国防と自分の国の文化を、なぜ、ここまで無理して別に論じようとする のでしょうか。なぜ、文化> 国防 というよう価値を決めつけて、文化を何よりも優先すべき事柄であるかのように論じ、国民に押し付けようとするのでしょうか。しかし、文化といったと ころで、現代の日本国民がどれだけ日本の文化を理解し、尊重し、発信可能でしょうか。疑問です。

日本の文化に愛着を持ってる国民は多いでしょう。円猿もその一人です。しかし、仕事上でもボランティアでも構いませんが、「日本の良い文化を外国の国民に向 けて発信してください」と誰かに命令や依頼をされたら、できるとは思えません。多くの国民が同様だと思います。なぜなら、自国の文化を客観的に評価して、 すぐれた点を他の国民向け発信するという一連の作業は、自然にできる事柄ではないからです。方法が必要ですし、訓練が必要でしょう。マニュアルの有無と か、そういう話ではなく、もっと本質的な話です。文化を伝えるというのは、深い考察と哲学が必要なことすら多いのですから。

ある文化に生きていて愛着を持って尊重していること

と、それを他者に発信することは、全く別の二つの事柄

です。この別の二つの事柄を切り分けて論じていない人

がいまだに多すぎるのではないでしょうか。

そう個人的には思います。文化を伝えようとする相手に応じた方法や訓練、機会に応じた方法や訓練もない「文化」の発信を大量にやったところで何になるでしょう。自国の文化 に愛着を持って日々生きている他の国の国民にとって、「日本の文化に感染させてやろう...」という、うんざりさせる不快な雑音にしかならない可能性があ ると思います。

自分たちの文化に自分で価値を認めることと、それを発信することの慎重な切り分けを 議論もせずに、日本のアニメがウケているようだから発信しろとか、日本のサブカルチャーを見直せとか、クールジャパンで行けとか。何を考えているのでしょ うか。さっぱり意味が分からない。そうでない、もっと本格的に見える文化事業も同様です。海外で歌舞伎を上演しろとか、大相撲の公演をやれとか。単に海外 の人々を巻き込んだビジネスモデルをつくれというのならば、文化とか文化交流などという言葉抜きでやればいいのではないでしょうか。

日本の大東亜戦争の功績を十分に認めている国民も少なくありません。第二次大戦後の「戦勝国」のプロパガンダに騙されずに、日本が戦争にコミットしたことを 直接の原因、遠因として独立を達成した諸国の国民は日本の戦前、戦中の努力を認めています。その中には、戦後に交通や情報通信がさらに発展したことで、日 本の文化に関心を持とうとしてくれている諸国民も多いでしょう。その一方で、日本の独自の文化を自国民に意図的に軽蔑させ続け、日本国民の命の価値は低い と前提にし、日本国民の命を一方的に差別する教育を平然とやっているヒューマニズムのかけらもない政府もあります。そうやって、日本の文化も認めようとし ない、日本国民との公的な話し合いと議論の場を共有できない、わざと共有しないで利得を得ようとする外国政府が実際に3つほど存在します。円猿は数少ない それらを、「三匹の特亜」と呼んでいます。三匹の子豚ではありません。三匹の子豚は童話の中で各豚それぞれが、自分を守る家を上手につくりました。「特 亜」はまったく別の輩です。それらの政府をたとえるならば、三匹の子豚に出てくるしつこい狼にむしろ似ているでしょう。

とりあえず、戦後このかた、日本独自の文化はたいして見るべきものがないとわれわれはずっと信じ込まされてきたのです。 見るべき価値は日本の外にあると信じ込まされてきたのです。日本の「国外」に、「国際」に価値があると信じ込まされてきた。実際、自分の国の文化を再認識 し、発信可能な若者を育てることに、これまで、どれだけお金と国民の関心を用いてきたでしょうか。絶望的だと思います。好きなことを追求して真剣にやって いれば、文化交流など意識しないでもきっと外国の人々も認めてくれる... そんな能天気な考えならば、勘弁してもらいたいですね。繰り返しますが、文化の受容にせよ発信にせよ、自然にできる事柄ではないのです。国民の間で共有す べき一定の方法が必要ですし、訓練が必要でしょう。それがなければ、何もできないと思います。

文化交流論者の人々は、とにかく、日本を文化の行き交う場にせよということを主張しますが、現状、日本の国民のさまざまな年齢層の人々は、自国の文化を十分に 理解する積極的な機会を与えられていない、自国の文化を尊重する理由も意識していないのです。多少経験の多い人でも海外旅行や海外留学で、日本人である自 分と日本の文化を客観化する機会を個人的に持った程度ではないでしょうか。そういう恵まれた機会を持たない国民も多いはずです。そんなところへ、いきなり 他の諸国民の玉石混交のごった煮をつきつけて、何が文化でしょうか。文化交流でしょうか。文化と文化でないものの見分けすらつかないでしょう。そのような 状態で、日本が諸文化のプラットフォームになるなどとは到底思えませんね。おそらく、控えめな多くの日本国民は日本の文化発信者になることができずに、ちぢこまってしまうのではないでしょうか。そして、自分たちの文化を日本に定着させ広めようとする外国の人々と、彼らの追従者に成った日本国民によって、自分の国に居ながらにして、一方的な文化の押しつけにうんざりさせられるような機会を持つだけではないでしょうか。日本の文化を大切にすることなく、日本の伝統的な価値 を捨て去って外国の文化に染まろう染まろ うと懸命になる日本国民であればあるほど、日本は過ごしやすい国になるのではないでしょうか。すでにそういう傾向は強くありますが、もっと傾向は強まるので はないでしょうか。何もおおげさなことではなく、外国に居るかのような錯覚に陥る国民すら、出てくるのではないでしょうか。 

日本に来る外国人の多くが、文化交流を意識して日々

生活するとは限りませんね。一部の押しつけがましく

文化を強要しようとする外国の人々の中には、こんな

主張を平然としてくるやからもいるかもしれない。

「外国から来たおれたちは、日本に居ればそれだけで

十分だろ。別に努力して日本の文化を習得しないでも。

しかし、日本の人々は外国の文化を知らなすぎなんだから、

とにかくおれたちの文化を知れ。」

「日本の文化をよそにどけて、おれたちの文化のため

に場所を与えろ」

「おれたちの文化の知名度を高めるため、おれたちの文化を尊重するために予算をつけろ。それでひと儲けさせろ」 ここまで露骨ではないにしても、これに近い主張をする外国の人々も、必ずや相当数出てくるでしょう。そして、おめでたい日本人の追従者をしたがえて、国や自治体のカネをふんだくろうとするんですよ。

外国から来る文化発信者の、推定されるネガティブな主張例を示しましたが、

こういう示威的な文化拡散者というべき外国人や外国人集団

に対する「耐性」が戦後日本には無いままということです。

この無防備さは、治安のおいても、日本の文化の維持の

ためにも、きわめて憂慮すべきものです。

特定の外国による、常軌を逸脱した誤った文化発信の仕方
日本国民の関心に沿わない、特定の外国文化の押し付け

このような行為を、何らかの指標に基づいて、他の文化交

流に関わる事案から適切に識別し、問題として適切に認識

し、説得的に国民に示し、日本国民が問題共有し、議論し

た上でトラブルシュートする。そういう仕組みも、敗戦利得者

のマスゴミの怠慢が原因で、全く築かれてきていません。

現状では、外国人の示威的な文化拡散者や、文化を理由に金儲けを企む人々は、やりたい放題です。日本国民も、「これは何かがおかしい...」と漠然と思いながら、不快な思いを何年も何年も続けることになるのです。そして、外国人が文化だと称してやっている事柄の異常さを主張しようものなら、マスゴミが「外国人に対する差別だ」「文化の共 生に反する」とか、無能な条件反射的な反応しかしない。日本国民の視点に立った長期的な仕組みのための世論づくりに必要な意見や議論を封じるだけなのです。 

いろいろと予想される事柄を書きましたが、それもこれも、主権者である日本国 民の権利を一貫して重視する仕組みが戦後築かれていないから、こんな主張が平然となされるだろう... と予想できてしまうんですよ。主権者国民が第一に尊重され保護される必要があるということです。外国人は永住者であろうと一時滞在者であろうと、犯罪しな い限り公民権は保障されますが、日本国民とは別の、格下の公民であり主権者ではない。そういう認識が共有されるだけでなく、そういう仕組みが日本国内で築 かれてきていないということですよ。結局は、日本国民を守るという国防や軍事力を背景にした国内の仕組みに行きつくのです。


まずは自国の文化を大切にする「文化」を創出するために、もっと真剣に取り組むことからスタートすべきです。日本国民の礼儀正しさ、他人を思いやる心、和を 尊ぶ心、神社参りの習慣、お墓参りの習慣 等々は、日々の日常で行われている文化とも言えますが、そういう文化を実践している日本国民は、無意識な場合がほとんどです。自分が属し実践している文化 に無意識であっては、なぜその文化に価値があり尊重するのかを、説得的に異文化の人に対して説明したり、情報発信するところまで到達できないのです。他の 国民の文化は受け身でもなんとなく「そういうものか」と受け止め可能かもしれませんが、自国の文化を尊重し、客観的に評価して、諸国民に対して発信する。 繰り返しますが、自然にできる事柄ではありません。一定の方法も訓練も必要でしょう。方法も訓練もなくチャレンジして、自国の文化を「いいものだ」「伝え よう」と思っていても、単純な思い込みで終わってしまうか、無理にやろうとしても、それこそ文化摩擦になるのではないでしょうか。

「文化」には国境を超えて何らかの国際的な対象になる特権があると、しきりに信じ込む。そういう偏見を持っている国民が多いから、シナや南朝鮮などの一部の不逞な人々や国内の売国メディアが、「文化」「文化交流」などと 称して怪しげな意図で接近してきても、その有害さを識別することができないケースが多いのです。彼らは、文化などとうそぶいているだけで、実際は日本国民に対する「影響力の拡大」「力の増大」「日本国民からの金の巻き上げ」を目論んでいる場合がほとんどです。文化交流やら文化を名目にして、一方的に日本国民から(日本政府経由で)金を一方的に収奪しようとする。そんな文化交流などは唾棄すべきゴミのようなものです。双方向ではないのならば、「交流」ではない。「交流」ならば、予算も行為も相互主義でやるものでしょう。文部科学省や全国の自治体で、こういうゴミのような文化交流にどれだけ無駄な税金が使用されてきたことでしょうか。もう終わりにすべきでしょう。文化に関する領域と文化交流を厳密に定義した上で、やるべきでしょう。

日本国民の大多数が希望してもいないのに、特定の外国政府が、単なるプロパガンダを仕掛けて、日本で影響力を増そうとし、日本国民の肌に合わない気持ちの悪い 外国の「文化」をなすりつける。それも、彼らが日本の文化に価値を認めて受容する方法が同時に示されているならまだいいのですが、全然そうではない。日本の文化の価値を全然認めようとしない、受容しない人々が、一方的にそういう低次元な「文化」を、日本国民にこすりつけようと躍起になる。ひたすら吐き気を 覚えます。完全に元を断つべきです。平時から、相手を選んで、国民相互に共感し合え、相互が金を対等に出し合い、相互にとって有用な文化交流、文化関連事業の次元を開発し、設計し、実現する必要があると思います。

それから、最後に、文化や文化交流の次元とは、「外交」の本質ではないと思います。外交の本質は、自国の国民と国土という主権を守る ための、力の行使の設計であり国防の設計を元にした諸外国政府の調整の場でしょう。平和は、力の行使が暫定的に停止しているだけの状態でしょう。文化レベ ルの情報発信にこだ わって、まともな方法も訓練も磨いていないのに、「日本を理解してもらおう」「日本の発言力を増そう」... そんなことをやっていても、結局は、冷戦下の日本のまんまになってしまうと思うのです。つまり、文化の情報発信にこだわって、上手くいかなければ、結局、 「日本の良さを理解してもらえないのは、日本が悪いからだ」という自虐的な認識に陥るだけではないかと思います。軍事力と国防を確かにすることによって、 他の諸国と同じテーブルにつくことが可能になる。そういう領域が外交でしょう。

軍事力と国防についての確かな視野を持たずに、

政府のレベルを離れた民間外交だ文化交流だなどと息

巻いてがんばっても、結局行き着くところは戦後民主主義

の自国文化否定、日本国民であることのコンプレックスで

はないかと思います。文化にこだわろうと決意するのは

いいですが、結局、自分たちの文化への懐疑や否定に

落ち着いてしまうのならば、パラドックス以外の何もので

もありません。もうそういう馬鹿げた回り道は必要ないは

ずです。

posted by 警鐘凡打 at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月23日

「平和憲法」という呼び方をもうやめるべき時


憲法 constitution の件で、かたりを追加します。前回もかたりましたが、今回は、「平和憲法」という呼び方をやめせんか、という話です。憲法は、単体の「憲法」という呼び方で行きましょう、という話です。実際、世界のどこの国に、憲法に「平和な」などという語をくっつけている国があるでしょうか。

「平和な pacific 」などという形容詞をつけて、自分の国の憲法を語らなければならないような、奇妙な言語空間を形成している国があるでしょうか。

とにかく、 「平和な」という語は、憲法にくっつけることで、抽象的な理念を示すだけでなく、日本国民の自衛や防衛のための議論を封じ、自衛や防衛をやりにくくさせるだけなのです。 「平和」とは、国家間あるいは国民間の考えうるあらゆる戦争が無い状態、何も争いのない状態を示す語ではない点も指摘しましょう。平和とは、自衛を忘却し、外国との間のどんな細かい争い事も、あたかもないかのように認識しようと努めるための概念ではなかったのです。

英語だけに話を限定しますが、そもそも語源から見れば、「平和」という語は、争いをやめるとき、戦争をやめるときに使用された語です。

17 世紀のウェストファリア条約は、別名 Peace of Westphalia(ウェストファリアの平和)です。争い合っていた当事者同士、戦争していた当事国同士が、争い事や戦争をやめるときに、和平をむすぶ (make peace)という言葉を用います。 だから、戦争と平和のうち、人類の歴史の中でどちらが優勢だったかと言えば、当然、「戦争」の方です。何らかの原因によって戦争が起こり、それをやめましょうというときに、「平和」が持ち出されたというだけです。

戦争がまったくない状態が優勢だったら、そもそも、「平和」という語は発明されなかったでしょうから。戦争も争い事もなくて、戦争の観念さえ形成されない。遠い遠い牧歌的な、はるか昔の黄金時代を想像するのは自由ですが、そんな時代には、「平和」という語もなかったでしょうし、「平和」の観念自体が存在しなかったでしょう。

そんなわけですから、憲法 constitution に「平和」という語を無理やり付けて呼ぶということは、すなわち、戦争をしつこく関係づけるということになるでしょう。しかも、問題なのは、あまり意識もせずに、国民が「平和憲法」などという語を用いることによって、日本国民自身を過去の特定の戦争だけにしつこく関係づける結果をもたらすことです。数千年の歴史のある日本の国民、さまざまな道徳的資質や重要な価値観や文化を継承してきた日本国民のもっとも重要な価値を成文化するはずの憲法 constitution なのに、しつこく特定の戦争を関係づける。しかも日本国民の価値観や視点で関係づけるのならまだいいですが、そうではなく、いまだにGHQと同一化した視点によって日本国民の考え方や価値観を一方的に拘束し、自縄自縛状態をつくり続けるということを意味します。

「平和」とは停戦状態とか休戦状態の長時間バージョンでしかないのに、その程度の認識もなく、なにやら全てを犠牲にしてしがみつく価値があるかのように「平和」を吹聴する。

なぜ「平和」が必要か必要でないかを議論する視点など全くなく、冷戦後の時代の要請を考慮せず、周辺国の軍備増強や国際法違反などを考慮せず、地域の勢力均衡を考慮せず、国民と国土を日本国民が守るという本質的な議論から逃げ回り、その結果、日本国民の行動や言論を束縛することになるのです。馬鹿馬鹿しいにもほどがありますね。最近は、そういう卑しい平和イデオロギーに脳を侵食された人々が、なんと、GHQの作成した「憲法」をノーベル賞候補になどという運動をやっているということも耳にします。馬鹿の標本としか言いようがないですね。彼らのようなイデオロギー思考、古ぼけたメンタリティ、ベクトルのずれまくった思考様式と行動様式によって、日本の国民の意志と力によって日本の国土と国民を実際に守る仕組みがつくれるわけがありません。未来に負の遺産しか残さないことは間違いないでしょう。

このような人々の有害さを、さらに指摘しましょう。

彼らはなぜ、自衛隊の災害復旧活動と日本国外での平和維持活動を認めているくせに、自衛隊による国防に反対するのでしょうか。まったく意味不明です。彼らはなぜ、日本の国民と国土を守るために必要な軍事力を計算したり議論したり装備したりする、国防のための一連の知的プロセスに参加しないのでしょうか。

なぜ、国防のための軍事力の必要性の議論すらせずに、一方的に反対するのでしょうか。意味不明です。冷戦下でアメリカの核の傘下にあってはじめて主張可能だった「非武装」を、今頃になって執拗にまだ主張し、馬鹿げた平和ぼけのデモなどをやる。そんなことをやったところで、いったい何が可能となるのでしょうか? 過去60年程度の期間、シナや南北朝鮮という周辺国の軍事力増強にひたすら貢献しただけの平和イデオロギーの中に、この先生まれてくる国民へ継承する何の価値があるでしょうか? そんなのは、もう終わりにすべき時なのです。

つらつらと述べてきましたが、以上のような様々な理由から、

憲法は、「憲法」と呼ぶことだけがふさわしいのです。 憲法に何らかの形容詞をつけて、理念を体現するものであるかのように装う必要もないですし、たった一つの理念で憲法がつくられているかのように観念する必要はないのです。

そんなことをしても、イデオロギーをかつぐだけで、有用な結果にはつながらないでしょう。自衛に関する考え方、戦争に 関する考え方、戦争を中止して平和をもたらす考え方、すべては、国民が長い時間をかけて形成してきた事柄ですし、過去数千年の間の様々な歴史上の事実を考 慮に入れ、また、常に固定的ではなく徐々に変化する周辺諸外国の自衛や対外関係、軍事に関する動向を考慮に入れ、大いに議論すべき事柄なのです。そして、 過去の日本国民、現代の日本国民、さらにはこれから生まれてくる未来の日本国民に配慮して、議論し方針を決定すべき事柄です。

もう一度、今回のかたりの要点を繰り返します。最初から憲法に、戦争に関連づけられた語源であるつまらない「平和」などという語をくっつける必要は全くないのです。その程度の安っぽい観念でしかない「平和」をイデオロギーにして、過去の同胞国民を一方的に悪い人々であったかのように決めつける必要は全くないです。「平和」をイデオロギーとして用い、日本国民の国防に関するさまざまな議論を封じることは、その先に、国土や国民を守ることを通して維持されるはずの主権者国民の権利すら無視することにつながるでしょう。拉致事件がその典型です。ここまでくれば、「平和」のイデオロギーは日本国民にとって有害以外のなにものでもありません。

日本の国土と国民を日本国民の意志と力によって効率的に守る、計画的に守るための独自のコードとポリシーを設計すべく議論する必要があるでしょう。本質的 な議論を日本国民の中で構造的につくりあげることができれば、アメリカとも実務的な協議が可能になってくるはずです。自衛隊の暗号や敵味方判別システム を、全面的に米軍のものに依存する現状は終わりにすべきでしょう。日本には十分な技術があるのですから、技術を発揮し、少なくとも、日本の自衛隊独自の暗 号と敵味方判別装置を構築し、その上で、米軍のシステムとの連携を設計する必要があるのです。米軍のシステムからの切り離しが全く設計されていない現シス テムは異常と言うほかないでしょう。

posted by 警鐘凡打 at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月03日

5月3日という日に憲法改正と国軍について


憲法改正、新たな憲法制定についてかたりたいと思います。
というのは、毎年、5月3日になると、憲法改正の話が出るのですが、どうも保守と呼ばれる人々の、憲法改正の議論に同意できない点があるからです。 

憲法改正をすべきだ、という主張をする人々の論拠は、過去長らくの間いつも同じです。円猿が良く知る過去20年程度においても、いつもこれです。

「敗戦憲法だ」
「占領下に、GHQがつくった不当な憲法だ」 

この論拠自体は、まったくその通りです。それを少し長くなるが説明しましょう。日本では「終戦」を8月15日とする認識が広く共有されていますが、この認識は間違いだからです。間違いと断言できます。なぜならば、昭和20年8月15日に、個別の戦闘が終わっただけで、停戦条約も結んでいませんし、ましてや、平和条約も結んでいないからです。平和条約が発効するのは、昭和27年4月28日です。

要するに、昭和20年8月15日のあとも、戦争状態は続いていたということです。潜在的な戦争状態です。 「日本は戦争を終わりにします」と宣言したのですから、日本が相手国に仕掛ける戦争ではなく、日本の国内で何か事が起きたならば、GHQや連合軍が一方的に、日本の制度を破壊したり日本国民を殺害したり傷をつけたりする戦争状態が潜在的に存在しつづけたということなのです。

実際、戦争状態が続いていたからこそ、GHQはMilitary Tribunal という軍事法廷(これは東京裁判と呼ばれることがありますが、決して裁判ではありません)を組織して、マッカーサーがいきなりつくりだした裁判所条例(Charter)に基づいて、多くの日本国民に死刑を宣告して、実際に殺害をしました。GHQは日本の多くの制度を破壊しました。内務省を解体しました。財閥を解体しました。数千人におよぶ公職追放を行いました。日本の教育の伝統に合わない教育委員会をつくりました。数千冊の焚書をおこない、ひどい検閲を行い、さらには「真相はかうだ」などというプロパガンダ放送をNHKに流させ、独断的なプレスコードSCAPIN-33の体制を敷いて、日本国民の言論の自由を封殺しました。戦争状態が続いていたからこそ、昭和20年以降、横浜で、東京で、大阪で、佐世保でアメリカ合衆国軍人による、大規模な強姦が起きました。戦勝国の武装した軍人が一方的に日本国民の女性を犯すという許し難い行為が行われていました。この間のドキュメンタリーは、『日本の貞操』蒼樹社という昭和28年5月に出た本を読んだら分かります。

S28teisou.JPG

「昭和28年」の意味を多くの読者は理解されるでしょう。そうです。サンフランシスコ講和条約が発効する昭和27年4月28日まで、GHQは、プレスコードSCAPIN-33によって、日本女性の米兵による強姦被害をすべて握りつぶし、公論に訴えることを封じていたのです。人間の尊厳に真っ向から反対する占領制度と言えるでしょう。この本の目次だけ見ても、昭和20年は「終戦」では全くなかったということが、確かに理解できます。日本の女性たちの占領下=戦争状態における筆舌につくしがたいつらい思いが伝わってきます。
第一部 死に臨んでうったえる
第二部 私は誰に抗議すればいいのか
第三部 妻となった私の苦悩をこえて
第四部 私の生涯を踏みにじったもの
第五部 日本の貞操は奪われている

GHQは、以上のような狼藉をやったあげくに、「日本国憲法」まで勝手に作って公布させたのです。日本の憲法学者をカネで買収させ、コンメンタールなどまで書かせる周到さでした。これらは、戦勝国の代表を自任するGHQの人々の感情的な対応と言えるものでしょう。自分達の感情に基づいて、日本国民を殺させ、日本の世論を不当に操作しようとし、日本の国力が弱くなるような介入をやったのです。

アメリカ合衆国という国は、第一次世界大戦前まで400年ほど続いてきた、最高権力者どうしの戦争のやり方を著しく歪曲しました。特に勝ち負けが決まった後のプロセスを著しく歪曲したのです。簡単に示せば以下のようになります。下線を示したところが、不当に相手国にダメージを与え、普遍的な人権にも著しく反する部分です。「軍事法廷、制度の破壊」のところに注目してください。 この段階で、「憲法」までつくって公布させるというのが異常なことなのです。

勝負の趨勢が決まる→ 停戦もしくは休戦交渉→ 停戦条約→ 平和条約

勝負の趨勢が決まる→ 停戦に応じない→ 相手国の国民の大量虐殺→ 降伏させる→ 占領→ 軍事法廷、制度の破壊 →平和条約

とにかく、戦争中だという理由のみによって、相手国の国民の大量虐殺、そして、その後の占領や軍事法廷は、人権にも国際法にも反しています。東京大空襲、広島や長崎こそ、人道に反する罪なのです。東南アジアやヨーロッパのどこの国に行っても同じような世論が支 配的ですが、20世紀の代表的な大量虐殺は、ナチスと広島・長崎の原子爆弾です。円猿は、広島と長崎だけではなく、東京大空襲をはじめとする大量虐殺も国際的にもっと知られる必要があると考えています。要するにナチスとアメリカ合衆国のやったことこそ、人道に反しているということなのです。戦闘員 ではない、一般国民をあらかじめ大量虐殺することを意図し、実際に虐殺したのですから、当然の認識でしょう。だが、一部のヨーロッパの諸国では、アメリカ が戦争に参加して解放してもらったという認識があるために、おおっぴらにこのことを主張できないままだというだけなのです。彼らも内心は分かっています。

まあ、そんなわけで、憲法改正すべきだと主張する人々の論拠は正しいのです。これは感情論ではなくて、事実に基づいた整合的な判断として正しいと言えるでしょう。したがって、5月3日に記念すべきものは特になにも無く、占領時に不当にGHQが作成して押し付けた「現憲法」改正の実現プロセスに向けて動くべきだという主張は分かります。

問題は、その先です、憲法改正のプロセス、憲法改正の主旨、憲法改正後の軍隊の性格づけ、こららの点において、保守の一部の人々は、不思議なくらい陳腐化した内容にとどまっています。多くの保守の論者の人々は、憲法改正を主張されますが、彼らには憲法改正のプロセスに関するアイデアが十分にありません。お決まりの政党談義をやるだけです。ジミン党は自主憲法制定を言っていたが、やらなかったとか、シャミン党とかキョーサン党という改憲反対の人々と妥協していたとか、そういう使い古したぼろ雑巾のような分かりきった話をしつこくやる。もういいんです、そんな話は。聞き飽きています。プロセスを提示してくださいよ。なんで、それをやらないんですか。まだ20代〜40代の青壮年の主張なら、「これからあなたが一線に入ってプロセスをつくりなさい」という話になるでしょうが、もう、50歳代とか60歳代の人々が、そんな話をしたって、老人の繰言にすぎません。そんな漫談のような話を何十年やり続けるんですか。 挙句の果ては、随分と歳をとってから、日本国民が愚かだから憲法改正ができなかったというような主張をされる方さえいます。そんなに賢明ならば、あなたが実現すればよかったじゃないですか。日本国民を愚民扱いするのは誰にでもできます。そういうのは、怪しい戦後知識人の主流の傾向ですらあります。自分がなぜできなかったかを検証して、後の世代に引き継ぐべきでしょう。

また、憲法改正の主旨や、憲法改正後の軍隊の性格づけもとても同意できないものです。彼らは、議論を大いにやって、日米安保見直しをやり、憲法改正をやれと主張します。しかし、比較的多くの論者が、「自衛隊は国体を守るものだ」「自衛隊を天皇陛下を守る軍として定義せよ」 というような話を最初に置いてしまうのです。この点が、円猿には理解できないんです。説明しましょう。

国体も天皇陛下もきわめて重要ですが、日本の国軍たるもの、「国体」「天皇陛下」を守るだけの存在だ、と言い切ってなぜ平気なのか、それが理解できない。これは、古ぼけた復古的な議論ではないでしょうか。なぜなら、時計の針を大東亜戦争前に戻して、日本の兵士たるものは、「国体と天皇陛下のために死を覚悟せよ」ということだからです。 これが21世紀の現代の日本の国軍の要件として妥当でしょうか。円猿には、まったくそうは思えません。保守の論者の方々が、もし仮に、日本の対外的な戦争の歴史や伝統において、天皇陛下をお守りするということを通して、実は、陛下や皇室だけでなく、日本の国民と国土がしっかり守られてきた事の方が多かったのだから、「国体」「天皇陛下」を守るという体制で軍隊を再定義すれば、日本の国民のためにもなるという主張ならば理解できます。しかし、国軍が守る対象として、国民も国土も全然入れることなく、「国体」「天皇陛下」だけを守るなどという主張は、あまりに不可思議というべきです。

「主権」に関する十分な知識なく議論しようとしても、議論にならないということです。国土と国民という「主権」を守るという定義をしないで、ひたすら天皇陛下を守る国軍を作れば、自動的に、国体も守られるというような主張は、楽観論にしか見えません。なぜ楽観論かも説明しましょう。今上天皇陛下は戦争を経験され、戦争の悲惨さ、戦後の占領の悲惨さを知りぬいておられる。それだけでなく君主としての徳も備えておられるでしょう。しかし皇太子と呼ばれる方はどうでしょうか。彼は、自分の誕生日に、平然と「平和憲法(=現憲法)をこれからも尊重する」などと言い放っています。保守の方々が、日本の国防とは天皇陛下を守ることによって国体を守るのだ...と言っていながら、未来のある時点において、時の天皇陛下の方から、「そういうのはやめてください。GHQのつくったヘイワケンポーでいいのです」と拒否されたらどうするんでしょうか。誰が時の天皇陛下に対して教え諭し、あるいは議論し、認識をあらためさせるのでしょうか。無理でしょう。なぜならば、一般国民は天皇陛下に対して、教え諭したり、議論したり、認識をあらためさせるなどということは絶対にできないからです。このようなことを考えると、保守を自任する一部の人々の、議論のもろさが見えてきます。

円猿も保守です。こちらは、日本国民の少なくとも千年以上の伝統には、天皇陛下をいただく君主政治の徳だけでなく、実は共和主義的な徳もあるのではないかということを示唆したいと思います。 もう馬鹿な市民革命を主張する時代は完全に終わりましたから、このような主張をしたところで、「なにぃ、お前は天皇陛下を退位させろというのか!」「なにぃ、お前は天皇陛下の存在を否定するのか!」という条件反射的な反応をする人物はだいぶ減ったでしょう。誤解しないでください。君主政治か共和政治かという二者択一ではないのです。これから先、共和主義にしろなどという主張も円猿はしません。天皇陛下がいたから、ただその一点のみによって、日本国民がひとしなみに平等で、お互い共感し合えたわけではないと言いたいのです。もちろん天皇陛下がおられた伝統は非常に大きいことは間違いありませんから、なんとしてもそれは守るべきでしょう。しかし、日本国民が、この日本に長い間住みつき、地震や台風をはじめとする多くの災害に立ち向かう中で身につけてきた、自分と他者に優劣をつけずに、互いに共感し合う姿勢、相互扶助の文化は確実にあるのではないか。そう考えるのです。

「民主主義」という言葉がありますね。これは、とても新しい制度的な価値であり、第一次大戦前までネガティブなものでしかなく、また、「民主主義」がナチスを生んだのです。円猿は、こういう近代を騙るあやしい仕組みをイデオロギーとして信奉する必要はないと考えています。「民主主義」を騙る人々に限って、天皇陛下や皇室を不用だなどと決め付けますね。なぜでしょうか。民主主義=新しい価値=戦後民主主義 という馬鹿な図式がまだ通用すると考えているからです。 馬鹿そのものです。新しい制度を次々に採用していれば、どんどんよくなると他人に信じさせようとする馬鹿だからですよ。そういうやからには注意しましょう。そういうやからは、実は、「新しいかどうか」だけの判断しかできないのです。本当に日本国民が何を必要としているのか、日本国民が伝統にしたがって大切に守り継承しなければいけないものは何か、そういう「価値判断」がまるでできないのです。「新しいかどうか」だけを判断できるが、伝統や制度や文化が重要かどうかの「価値判断」ができない。そんな判断なら、あなたである必要はありません。機械にでもやらせればいいんじゃないでしょうか。とにかく、価値判断ができない人物、価値判断を理由を含めて説得的に語れない人間が、他人がかかわる事柄に口出しするのはやめた方がいいし、日本国民という集団の過去・現在・未来がかかっている領域に立ち入るのはやめるべきです。新しもの好きな彼らには、新着商品のレビューでも書かせていればいいんです。

重要なのは、日本国民、日本人が数百年、あるいは千年以上日本の地で身につけてきた、国民相互に共感し合い、協力し合うことのできる長所を、どう表現するのが適切なのかということです。制度的なものではありません。伝統的な道徳的資質です。ここでは、それをとりあえず「共和主義的な徳」と言っておくだけです。もっと理解しやすい言い方があれば、それでいいと考えています。ただし、この日本国民の徳は、天皇をいただいて身につけてきた日本国民の思考様式や道徳的判断と同じくらい重要だと考えますので、それに相応しい呼び名が必要でしょう。それも、「民主主義」以外の呼び名です。

日本国民が戦後の短い期間ではなく、これまで長い間に身につけてきた長所として、現代の世界の諸国民において見られる、君主政治をいただく諸国民に見られる長所(徳)も見出され、また、共和主義政治をいただく諸国民に見られる長所(徳)も見出されるということです。実際にそうではありませんか? 日本の国民は、君主をいただいている国へ行っても、その国の仕組みを非常によく理解できるし、君主が敬われることで国民のモラルが保たれる理由を深く理解することができ、また他方で君主の腐敗の可能性についても理解できます。そして、日本の国民は、君主をいただかない共和主義の国で、平等な公民どうしが共感し合い、議論して物事を決めていくという仕組みも理解できますし、共和主義だと言いながら一部の一握りの人々が圧倒的な富を手中に収め権力を振り回す異常さについても、その悪性を非常によく理解できます。ここで重要なのは、日本国民のこの二つの長所が、いきなり戦後に形成されたのではなく、日本の古い伝統において形成されてきたのではないか、ということです。そういう認識を共有できなければ、馬鹿な安易な人間が、天皇陛下をなくせとか、またぞろ主張するでしょう。円猿はそんなことは主張しません。
 日本が君主制の制度的基礎と共和制の制度的基礎の両方を兼ね備え、それらを混合した制度の伝統を持っているという思想は、とっぴでも何でもありません。制度と呼ばずに、慣習でもかまいません。このタイプの考え方は、実はヨーロッパの政治論・政治思想の古い伝統に接合させることも可能なのです。それは混合政体論gouvernement mix / mixed constitution という議論領域です。少なくともアリストテレス以来確立され存在している議論領域です。政体は、君主制か共和制の二者択一ではありません。幾つかの政体のメリットを組み合わせて、その国に適した最良の政体が形成されてきたという解釈も十分成り立つのです。もはや古ぼけたとしか言いようのない近代の誤った思想、誤った思想史観が、とにかく暴政を敷いた君主を追い出して市民が革命を起こし民主主義を確立するように世界は動いているし、動くべきであると決めつけているために、君主制→民主制という不可逆的な歴史の時間が進んでいるかのようにわれわれは支配され続け、錯覚しているにすぎないのです。いくらでも君主制と民主制を両立させる議論を深めることができるし、それを日本独自の思想において深めることも可能でしょうし、ヨーロッパの政治思想の伝統と関係付けて深めることも十分に可能なのです。近代の民主主義など別に最良の制度でも何でもありません。純化され最高に機能的にはたらく民主主義の制度など別にありもしません。混合政体論の議論を掘り起こし、「天皇陛下というヨーロッパ流に見れば皇帝に近い精神的権威が存在しても全く問題ではない」「君主制のよい点と、古くからある共和制的な要素を両立させることができるはずだ」と議論することはいくらでも可能なのです。むしろ、そういう混合政体系の議論がぜんぜんなされていない戦後の思想が異常だと円猿は考えています。

まとめですが、日本国民は、君主を持つ国民の良さももっているし、そうでない国民の良さも持っている。しかも、長い伝統の中でそれを持っているのではないか、ということです。したがって、憲法改正が国軍を再定義するものであったとしても、その国軍のミッションは、天皇陛下と国体だけを守るのだけで満足すべきではないということです。それで満足する人間は、日本の国土を保守できないでしょうし、日本の国民の生命や財産を保守できないでしょう。日本国民と日本の国土を大切に守る。そういう内容も最重要視すべきではないでしょうか。そのことが、将来の日本国民に国防の大切さを伝え、天皇陛下と国体を守る精神を通じて、国民と国を守るという事柄の本質が継承されていくきっかけになるはずです。日本国民の北朝鮮による大量拉致のような悲惨な事が二度と起きないように、日本国民を大切に守る。そのような事が自衛隊のもっとも重要なミッションになってほしいと願っています。

posted by 警鐘凡打 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする