2013年09月16日

戦争犯罪


「戦争犯罪」という、とっつきにくそうなテーマで少しかたりたいと思います。

この言葉から、何を想起されるでしょうか。多くの方は、戦争中に行われた残虐な行為、非人道的な行為を指すと思われるのではないでしょうか。
あるいは、「戦争犯罪」という言葉を目にして、もっと具体的な事柄を想起される方もおられるかもしれません。第二次大戦中にナチス・ドイツの行った事柄、民族粛清のような事柄を想起される方もおられるでしょう。 そこまで具体的でなくても、漠然と、太平洋戦争とか、日本の関係した戦争を想起される方もおられるかもしれません。

戦争犯罪。そもそも、この語の元の意味は何か。そこからはじめましょう。「戦争」と「犯罪」という2つの異なる語が、一体になっていますが、この語の意味は必ずしも分かり易いものではありません。

(1)戦争がまさに起きている最中、つまり戦時中に犯される特定の非人道的な行為、交戦国が守るべき行為を逸脱した行為を罪とすることなのか? 

(2)戦争がなかったところに、何か戦争に結びつくような相手を害する意図にもとづく具体的な行為をしたことを犯罪とするのか? 

この二つのどちらなのかという事も、「戦争犯罪」という語だけを見ただけでは明確ではないのです。円猿も調べるまで、全然分かっていませんでした。しかし、どうやら、(1)戦争がまさに起きている最中、つまり戦時中に犯される何らかの行為に適用される罪を、一般には、「戦争犯罪」という意味で理解していいようです。

しかし、まだまだ問題はたくさんあります。そもそも「戦争」というのは、主権国家どうしの戦いです。とすると、主権国家の内部にあるグループ同士で起きた紛争において、犯罪的な残虐行為、非人道的行為が起きた場合は、どうなるのでしょうか? それは、当然、戦争犯罪ではないのです。いかに血なまぐさい争いで、殺し合いがなされていたとしても、それが、主権国家どうしの戦いではなければ、「戦争犯罪」と呼ばれないでしょう。その場合は何と呼ぶでしょうか。犯罪という語はまず用いられません。「内戦」もしくは「治安維持」程度のことばで済まされるでしょう。

実際に国内において相当非人道的な行為が行われている場合でも、「国内問題だ」ということを主張することによって、戦争犯罪という非難を免れることができるのです。代表権を維持したその国の政府が、「治安維持のために力を行使しているのだ」 と主張すれば、どんなに非人道的な行為が行われている場合でも、外国の人々は、ほとんど批判できなくなってしまいます。でも、実際は、外国が介入することによって、何らかの問題解決ができる仕組みになっているのです。もう少しだけ、「戦争」という語の使用域に達していない国内的な武力衝突について考察しましょう。

外国の人々は、ある国の国内において、殺し合いや、非人道的な行為が行われている場合に、全く放置せずに、介入できる可能性があります。2つあると考えていいでしょう。1つは国際法を理由にするものです。核兵器、生物兵器、化学兵器という国際法上使用が禁止されている武器が内戦で用いられた場合に介入できる。もう1つは、かつては代表権を持っていると考えられていた政府が、内戦というプロセスによって完全に無力化した場合です。主権を行使できておらず、国土も国民も守れていない。それなのに、「自分が支配者だ」と主張して、戦闘行為を続ける場合です。このような場合、内戦が延々と続けられてしまえば、その国の中にいる罪のない一般国民の死傷者が増えるだけであり、人道的に外国が介入できる。内戦状態を早期に終わらせるために介入できる。

さて、「戦争犯罪」の話にもどりましょう。 

言葉の本来の意味からすれば、

戦争犯罪=戦時国際法違反、開戦法規

違反のはずです。特に戦時国際法は交

戦法規とも呼ばれていますが、17世紀

以来、少しずつ国家間で慣習法として

つくられてきたものです。


ius in bello と呼ばれるものです。人類は古くから、戦争するからには一定の決め事をして戦ってきたのですが、戦争をたたかっている最中の決め事を、主権国家どうしで決めておきましょうとなったのは、ここ数百年のことです。戦争の最中にやってはいけない「具体的な行為」を主権国家どうしが相互に予めきめておいて、それに違反したら、「戦争犯罪」になるという仕組みです。

この仕組みでは、重要な事柄が2つあります。1つめ。犯罪とは行為に関するものであるということ。具体的な行為に関して適用される仕組みですから、人格は否定されてはならないし、ましてや、ある国民全体が犯罪者になることなど有り得ないのです。2つめは、「予め決めておく」という点です。決められていないのに事後的に戦争犯罪と一方的に断罪されることはあってはならないということですね。 多少曖昧規定であっても、やってはいけない行為を、予め決めるということが重要なのです。

ここから先は、日本が関係する事柄です。日本の国は、大東亜戦争という名前で戦争をしていました。その戦争が終わった後に、

アメリカを代表とする連合軍の軍人に

よって構成された軍事法廷 military tribunal

という不思議な仕組みによって裁かれる

という事象が起きました。

極東国際軍事法廷 international military tribunal for the far east とも呼ばれている仕組みです。円猿は、この軍事法廷を、「裁判」として認知することができないのです。

客観的な正義を判定可能な裁判官のもとで、双方の責任当事者が、共有可能な価値を持つドキュメントを元に争うという性質を全然もっていません。一般的には、この軍事法廷は、東京裁判などと呼ばれていますが、この呼び方は誤りだと考えています。「軍事法廷」で通します。この仕組みの意味を最もよく汲み取るならば、「軍事仮設法廷」と呼んだ方がいいと考えています。仮設なのです。即席でつくって、死刑にする人を決めたら無くなるのですから、常設ではなく、完全に仮設です。

どうやら、この軍事法廷の起源は、東インド会社という植民地向けの組織に起源があるようです。その起源はかなり新しいもののようです。軍事法廷の起源は、ギリシャ・ローマの法廷弁論や市民の保護、社会的正義の確立とはまったく別の伝統に基づいているようなのです。一般的な学校教育では教えていませんが、東インド会社は、商取引だけに特化した丸腰の組織ではなく、実は小さな国家のような組織です。法廷と総督を有しています。武器の売買を特権的に行うことができ、開戦を宣言する法的な権能、戦争を終結する法的な権能まで与えられていたのです。つまり、東インド会社は主権国家のミニチュア版と言っていいものだったのです。戦争を始めることができる。武器を自由に流通調達することができる。まさに、やりたい放題できる組織です。現地で独自の法を運用することもできました。この点に関心のある方は、マイケル・ハワードという人の書いている『ヨーロッパ史における戦争』(改訂版)中公文庫の、94頁 をご確認ください。そのことが書かれています。

それから、とりわけ東南アジアの諸地域に陰惨きわまりない政治犯収容の牢獄が今でも残っていますね。多くは、欧米の幾つかの国家の東インド会社が進出した地域です。東インド会社の活動をさまたげる集団や組織に対して一方的に武力を行使したり、逮捕したり、政治犯を牢獄に収容したりする権能も持っていたということです。こうしたヒューマニズムに反する法の運用が行われていたこと、および軍事法廷は、ヨーロッパの古い法文化に属するものでは全くなく、別のルートで、17世紀以降の植民地主義により開発されたもので間違いありません。円猿としては、今後より専門的な研究が出され、戦後日本で設けられた極東軍事法廷が、すなわち東インド会社の直系の軍事法廷だという論点が解明されることを期待しています。

さて、日本に戻りましょう。日本で仮説された軍事法廷はどうだったのでしょうか。

この軍事法廷で何がなされたのでしょうか?

 実に摩訶不思議なことが起きていたのです。

戦争犯罪=戦時国際法違反のはずです

が、この軍事法廷では、戦時国際法を

参照しませんでした。


国際法を用いないで、裁判みたいなことをやったのです。しかし、国際法でなくても、何も参照とする基準がなければ、何も議論できないし、何も決められないですね。では、連合軍の軍人(代表者はマッカーサーという人物です)は、

何を最高規範として参照したのでしょうか? 

この軍事法廷専用の法律を自分で勝手に

即席でつくってしまったのです。正確には、

国際軍事法廷条例

charter of the International Military Tribunal


と呼ばれるものです。

条例の元の語は、チャーター charter です。

法として、戦時国際法とは関係のない戦勝

国が作成した軍事法廷の条例にもとづき、

「戦争犯罪」を後から決めて、日本国民を

処罰する。そういうことが起きていたのです。


この軍事法廷の条例の内容については、法律文っぽくいかめしく訳された日本語よりも、元の英語を見たほうが楽です。

As leaders, organisers, instigators, or accomplices in the formulation or execution of a common plan or conspiracy to wage wars of aggression, and war or wars in violation of international law.

こう冒頭に書かれている。なんともお粗末かつシンプルな文章ですが、こんな文言によって、戦争犯罪が後から定められたのです。日本語では、「共同謀議」などと訳されますが、conspiracy です。 そして、wars of aggression という言葉に注目しましょう。この言葉は侵略戦争などと訳されることがありますが、侵略などという語を安易に用いるのはやめた方がいいことです。侵略=侵攻+略奪 と分解してみれば分かることです。「しんりゃく」「しんりゃく」と無思想に連呼する人々は、とりあえず放置しますが、この、aggression という言葉の定義は、戦後、国連で議論して1974年にようやく意見がまとまったというものでした。

Definition of aggression 国連のページ

この条例に、「国際法違反 violation of international law」という語が入っていますが、具体的にどのような行為を指して、国際法違反としたのでしょうか。何も明示されていない。大東亜戦争の戦中においては、1907年改正のハーグ陸戦条約が明文規定としては最新であり、権威のあるものでした。この条約の何を侵犯したのか、明確に示されていないのです。

 
ご関心のある方は、佐藤和男さんの話をご確認ください。

話を戻しますが、となると、

軍事法廷は、日本のリーダー達がどの

ような理由によって、どのような価値観に

よって、何を最終的な目的として戦争を

していたのかを完全に無視し、さらには

当時の国際法に違反しているかどうか

の個別の行為の吟味を経ることもなく、

ひたすら「共同謀議をして戦争を企てた」

という理由のもとに断罪した


ということです。

十分な理由も背景もなく、共同謀議をして

戦争を企てる。そんな人々がこの世に存在

するでしょうか。

当時同じ日本国民だった方でも、現代の日本国民でも、想像するのも難しいことです。しかし、結果的に軍事法廷はそういうことにしてしまったのです。そのようにして、日本のケースでは、「戦争犯罪」とは理由や背景が何も議論されることなく、共同謀議をして戦争を企画したということを犯罪とした。 

「戦争犯罪」は、アメリカによって、国際法から切り離された別のものにされたと言っていいかもしれません。戦争によって、戦勝国になった国の政府が、一方的に対戦国の政府、敗戦国の政府に事後的に科す犯罪が、「戦争犯罪」になったのです。法とはなにか、根本的な認識を厳しく問うべき事柄ではないでしょうか。すべての戦争は、「負けるからわるい」「負けた方が一方的にわるい」それだけのものになった。アメリカ政府、アメリカ軍が原子爆弾によって、数十万人の罪のない日本国民の民間人を殺害したことも、戦争を終わらせるために必要なことだったなどという欺瞞を可能とするものになって、今に至っているのです。
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2013年09月08日

不実な人間 - オリンピックと戦争を無理に結びつけようとする


「不実な人間」という内容で、かたります。

東京で2020年の夏季オリンピック開催が決まりました。日本国民としては、それをシンプルによろこび、大会をうまく組織して多くの国々の人を歓迎し、競技者の人に力を発揮してもらいたい、と素直に表現すればいいのではないでしょうか。その程度の国民としての基本モラルを発揮できない変な人々が中にはいるのです。

夏季オリンピック開催が決まったことを受けて、意味不明な発言をしている不実な人間がいたということを知りましたので、その発言を徹底批判しましょう。

2013/09/08 サンデーモーニング 寺島実郎の発言

寺島「1964年、ぼく高校一年生の時に、東京オリンピックを経験した年なんですけども
   あの時から見ると日本の一人あたりGDPって40倍になってるわけですよ。
   貿易量ってのは100倍になってんですねその時からみれば。
   で、そういう中でね国際社会と向き合っていくって時に…
   1964年のオリンピックってわたし高校生としてですね
   『世界は広いな』とか世界を意識した瞬間だったんです。
   そういう意味においてね、今なんとなくですね、『近隣の国に舐められたくない』
   みたいな小さなナショナリズムにうずくまりがちな日本がですよ、
   これをきっかけに…まあ別な言い方をするとね『戦争のできない国になった』と
   いうのかな、その、戦争の誘惑に駆られてはオリンピックの開催…
    かつて戦前、返上したことがあるんだけども」

関口「戦時中の東京オリンピック中止になったあれですね」

寺島「要するにそういう意味から言ってね、
   『日本は戦争のできない国になって近隣の国とも正面から向き合っていかなきゃ
   いけないんだ、っていう気迫を込めてこのオリンピックを受け止めるべきだ』
   と僕は言いたかったわけですよ」

小さなナショナリズムにうずくまりがちな日本
... 低レベルな比喩というか擬人化ですね。ナショナリズムに大も小もないし、自衛のために軍隊を持ち運用を想定して訓練すること、そのために法を整備することは、ナショナリズムでも何でもありません。世界のどんな国でもやっている基本中の基本です。日本だけを例外にする必要はありません。「うずくまる」のは、寺島が自分でそういう動作やポーズによって示してください。よく分からないです。「日本がうずくまる」イメージできないですね。寺島がその身体を用いて具体的にやって示すべきでしょう。「こうです、こういうふうに丸くなる、日本がうずくまるイメージですね」と実演すべきでしょう。言葉だけではまったく意味が分からない。意味不明な言葉です。

それから、前回の東京五輪の当時に比べ、日本国民の「一人あたりGDPが40倍、貿易量が100倍」になっていることが、「国際社会に向き合う」ことの条件となり、なぜか、落としどころが、「戦争のできない国」になるという、奇妙なロジックを見逃すことができないものです。これも、意味不明なロジックです。共有不可能な、個人的でローカルなロジックです。なぜローカルなのか。ためしに、寺島は、日本以外のすべての国の政府に対して、これとまったく同じロジックを適用して、さまざまな言語を駆使して、説き勧めればいいのです。

「以前に比べてGDPや貿易量が増大したら、国際社会に向き合い、とにかく戦争できない国になる。これが最も重要です」
「GDPや貿易量が増えたら、ひたすら、戦争できない国を目指してください」

と。まったく相手にされないでしょう。馬鹿もやすみやすみ言え、という言葉は、こういう意味不明なロジックに対して叩きつけるべきものでしょう。

寺島は、世界を見回して、過去50年の統計に基づいて発言したらいいんですよ。GDPや貿易量が飛躍的に伸びた国は数多いでしょうが、そうなることで、「はい、われわれの国は戦争やめました」「はい、戦争できない国になりました」「はい、防衛を含めた軍備を完全にやめました」と宣言して、「戦争できない国」がつぎつぎに大量生産されてきたんですか? 馬鹿馬鹿しい。そんな状況とはほど遠いのが過去50年の歴史でしょう。

GDPや貿易量が伸び、自分の国の国民が

豊かになったら、その国民の生命・財産を

しっかり守るために、国防するのが国の最も

基本的な責務


でしょう。必要十分なコストを投じ、戦略的な防衛を構想し、自国の国土を守る国防のための軍隊を増強し訓練し、防衛をがっちりと固めた上で、世界の各国と交流し貿易する。それが世界の現実です。そんなことを一言も発言しないのが寺島です。世界の現実と、寺島が自分で「こうなるべきだ」と考えている事柄は、見事に乖離し切っているのです。この乖離からすると、彼はほとんど空想主義者のように見えます。

さて、赤太字にしましたが、「戦争のできない国」というのが、二回も出てきます。おかしな言葉ですね。言葉もおかしいですが、戦争ができるとか、できないということが、この不実な人間にとっては最重要な事柄だということが分かりますね。昭和22年にうまれであり、戦争経験者ではまったくない、この寺島不実郎が、なぜ日本は「戦争のできない国」などということを、しきりに主張しようとするのでしょうか。ここが最も重要なポイントです。日本が国として、戦争ができるかできないか。寺島が個人的に価値判断することではないでしょう。

世界のどこの国に、オリンピック招致と戦争を即座に結びつける馬鹿がいるでしょうか? 

戦争経験者でもない人間、それでも65歳を

超えた老人が物知り顔で、「オリンピックを

開催する国は戦争することができない」など

と奇妙な第一声を上げる。馬鹿としか言い

ようがないですね。


こんな事柄を、IOCの決定の直後になぜわざわざ主張して、日本国民に向けて発信する必要があったのでしょうか。


開催が決まった直後にテレビで「戦争のでき

ない国」などと執拗に主張するのは、一般

国民からは想像できないような思考のメカ

ニズムによって、この人物がプロパガンダ

を、視聴者に押し付けようとしたからだと思わ

れます。



それが妥当な解釈でしょう。「平和」というプロパガンダです。


「オリンピック開催と戦争の関係」を、別の

機会に論じるということが、この不実郎に

はできなかったのでしょうか? やろうと

思えばいくらでも可能じゃないですか。



円猿も、オリンピックと戦争を関係づけて論じるのを禁止しろ、とは主張しませんよ。このタイミングでなぜ? ということなのです。多くの国民は同じように感じたでしょう。 このタイミングで不実郎が焦って、声を大にして「戦争のできない国」などという、ローカルな不実郎の価値判断をふんだんに含んだ発言をしていることが、奇妙きわまりないということなのです。

オリンピックから話がそれますので、退屈な読者の方には申し訳ありません。関心のある方はおつきあいください。

「戦争ができない国」。最初に、この語を簡単に分析します。戦争を、するしない。これは単に行為や状態です。戦争をするべきではない、すべきだ。こうなると、価値判断ですね。べき論ですから。寺島の、「戦争ができない国」はどちらでしょうか。 もちろん後者です。この語の背後にあるのは、寺島の、「戦争をするべきではない」という、いわゆる「べき論」なのです。単なる寺島の個人的な価値判断です。行為や状態ではありません。寺島は、日本国は、(防衛だけが目的のものでも)戦争をするべきではない、という考えがひたすら中心にある戦後民主主義者であり、どんな事柄があっても、戦争をするべきではないと主張することが平和主義だとかリベラルだとか妄信している人物のようです。オリンピックが東京で開催されることになったことを、すぐさま戦争と結びつけて、「オリンピックをやるのだから、どんな事情があろうが、どんな状況になろうが、日本国は、ぜったいに戦争をやるべきではない」と主張しているのです。

さらに、「戦争ができない国」。これを英語に訳してみましょうか。幾つかの可能性があると思いますが、元のニュアンスを考慮して、寺島のこの言葉を翻訳するとして、以下の2つをあげましょう。

a country which cannot be a belligerent
 (in any case) :
(いかなる場合でも)交戦国になることができない国

a country which gives up any war  : 
いかなる戦争をも放棄する国



日本を伏せてみましょう。いったん、日本が対象であることを伏せるのです。そして、上記のような英語の言葉を用いて、ある人物が、自分の国のことを表現していると想像してみます。

「自分の国は、どんなケースでも交戦国にはなることができないんだ。なるべきじゃない。」
「自分の国は、防衛を含めてすべての戦争をすることができないことになっているんだ。するべきじゃないんだ。」

英語を解する外国人は、どう考えるでしょうか? おそらく「君の国は、どう考えても植民地だろう」「そんな国には主権は無いに違いない」。このように考えるでしょうね。 海外へ行って、ほかの国の人が誰かいて、その人物が自分の国のことを寺島のように説明したならば、われわれ日本人も同じように考えると思います。そんな国には、主権もないし、どのような仕組みなのかは分からないが、間違いなく「植民地」なのだと強く確信するでしょう。

「戦争ができない国」についての語の分析は以上です。この語がいかに珍妙な語であり、ほとんど翻訳不能な語であるかが理解できます。

さて、寺島が論証すべきことは、日本が戦争すべきでないということでもないし、戦争ができるできないなどという事柄ではありません。彼は、なぜ、戦後に日本が「平和憲法」などというものを持ち続けたことによって、周辺国の軍事力増強につながっているか、ということを論証すべきでしょう。その事実を認識し、それに対して、日本国政府は、日本の国土と国民を守るために、何をすべきか?ということが問われているわけですよ。 なぜ事柄の本質を論じないのでしょうか。卑怯にも事柄の本質を避けるのでしょうか。寺島が表現しているような、なめるとかなめられるなどという矮小化された狭い領域ではなく、これははるかに重要な領域なのです。根本的な問題です。なぜなら、日本の国土の主権と国民の生命や安全が深く関わっているのですから。

寺島がそれに気づきがない、気づきいているのにスルーしている時点で、「戦争を経験していないくせに、戦争に過敏に反応し、しかも、戦争がぜったいに無いものだと信じる」 のが寺島だということが理解できますね。完全な徹頭徹尾の平和ぼけによって、全身が構成されているのが寺島だということが理解できます。自衛を名目にした戦争、自分たちの同胞国民、国土を守るという戦争も、この全身平和ぼけの人間にはイメージさえできないのでしょう。いまだに、アメリカとソ連の核の傘下にいるかのように、ぬくぬくと食い太り、自分の利害だけに集中し、好き勝手発言する冷戦の平和ぼけ人間には。まったく恐るべきことです。

日本は「専守防衛」という、世界のどこの国も採用していない軍事ポリシーを持っていますね。しかし、国連憲章51条に 自衛/ 正当防衛 (self-defence /  légitime défense) と明記してあります。防衛のための戦争は起こりうると、まともな日本国民ならば強く認識する必要が日常的にあるのです。それに、日本の専守防衛は、日本国政府や日本国民だけが勝手に決めて運用できるものではない。周辺国の善意を前提としています。

周辺国の、日本の国土や国民に危害を

加えないという善意が明確かどうかが重要


なのです。さらには、侵略の明確な意図がなければ、自分たちからは攻撃しない。相手の軍用機、軍用船から、日本側を標的とした発砲がなければ、どんなに大規模に外国の軍隊が展開しても、いかなる攻撃も日本からは仕掛けない、などという軍事ポリシーなのです。 

それがどうですか? 戦後、周辺国の善意は十分だったでしょうか。それを、この寺島は検証し、国民に説明すべきでしょう。

「専守防衛」によって、日本と国境を接する他国が、日本の国土や国民を尊重してきたでしょうか。北朝鮮は日本国民の拉致を続けてきたのではないですか。シナは日本を明確な仮想敵国としており、実際に核ミサイルをいつでも発射できるように通化に配備しているのではないですか。南朝鮮も同様です。日本国民を完全に敵国民として認識し、ひどい反日教育をやり、軍事的なレベルでも非軍事的なレベルでも、日本国民を搾取の対象とみなしているのではないですか。彼らは、あたかも自分たちに隷属するべき世界で唯一の国民が日本国民だというような、非人間的で、前近代的な認識を共有しているようです。これは、とうていまともな人間集団とは思えない野蛮な想定を、戦争が起きていない日常において想定していることを意味します。

「日本は攻撃しないと言っている。日本の平和にもとづいた行動を尊重して、自分たちも、国境を侵犯しないようにしよう」 と、このように考えて国境を侵さない国々だったのであれば、意味があるでしょう。 しかし、実際はどうでしょうか? シナや南朝鮮が過去65年でやっていたことは。「日本は攻撃しないと言っている。日本は平和イデオロギーに縛られて、国境を侵犯しても、攻撃さえしなければ手出しはしてこないから、領海も領空も侵犯してやれ」 という発想で、 竹島を侵略し、尖閣諸島周辺に露骨な軍事行動を行ってきたのではないでしょうか。

要するに、日本が平和を希求することを、自分たちの軍備拡張や軍事行動に利用し、自分たちが日本に対して侵略者として振舞うことに活用していると断言できるのではないでしょうか。それを、戦前の日本軍は残虐だったとか冷酷無惨だったなどというプロパガンダによって、彼らは自分たちの行為を正当化しつつ、行い続けているのではないでしょうか。 そもそも、

周辺国の軍事行動を活発化させる、活発化

させてきた、そういう平和とは何でしょうか。
 

寺島は、平和を定義すべきでしょう。



ブログ主から見れば、平和とは、休戦や停戦が長期化したものでしかないということです。「恒久平和」口先だけで言うのは簡単ですよ。「コウキューヘイワ」そういう言葉を子供に言わせるのも簡単です。「恒久平和」を信奉するのも簡単ですよ。しかし、最も重要なのは、平時から、万が一の「攻撃を受けた」戦争状態になることを想定して、国民が危機意識を持ち、必要な場合に訓練することでしょう。

寺島の論文でも論述でもありませんが、彼の小話がインターネットでアップされているのを見ることができます。ご関心があれば、それをご確認ください。こんな人物が、戦略などという言葉を口にする資格など到底ないだろう... と思えるほどの平和ぼけ満載の文章です。平和ぼけを日本の一般国民に感染させてやろう、という意気込み満々の内容だと言っていいでしょう。 国防という言葉はこの中に一度も出てきません。自衛という語も、実質的に一度も出てきません。「自衛隊」という語が、自衛隊に極度に批判的な人物の発言の一部として出てくるだけです。

この小話の中で、ベトナムに平和を市民連合=ベ平連という、旧ソ連から資金提供を受けていた(冷戦崩壊後に判明)ような、特殊偏向団体の活動内容に、寺島はおおいに共感を示していますね。日本国民が自ら議論することを封じて、イデオロギーとして平和を振り回そうとしている。日本国民が自分たちの安全をいかに守るか、いかに先祖から受け継いだ国土を守るかという意見を出し合って議論する領域そのものを否定しているのが寺島だということが理解できます。そして、ベ平連のぶざまな精神を継承して、「戦争のできない国」という語まで寺島は継承している。そのような語を、2020年の東京オリンピック開催が決定した直後に執拗に用いた上で、日本国民が国防について、自衛の戦争の可能性までを想定して考えたり議論したりすることを封じようとしているのです。このような考え方は、前に論じましたが、自衛の戦争を含めて、いかなる戦争においても日本が負けることに賭けている 人の考え方、敗戦利得者の典型的な考え方でしょう。

寺島が、戦争をまったく体験しない戦後民主主義者で、冷戦構造下の状況がいまだにあると深く信じて疑わない人物であることが分かりますね。彼がいかにアメリカの核の傘下にいることを意識しないように努めているかいかに他国の軍備や軍事力の存在を無視して、イデオロギーとしての平和を主張し続けようとしているか、国民をそのような浅はかな主張で感染させようとし、国民を平和ぼけの渦中に置き続けようとしているか、そのようなことがリアルに如実にわかる内容です。寺島のような人間の根本的な認識の誤りは、「他国の軍備や軍事力の存在を無視」していることです。アメリカの核だけでなく、


日本の周辺に存在する利害関係国の軍備

や軍事力のすべてを無視し切って、日本国民

に対しても無視するよう説得につとめている


も同然です。不実そのものではないでしょうか。



このような不実な人間は、日本の国民や国土、国防について語るためのものを何も持っていない。そうみなすべきでしょう。
ずいぶん昔の冷戦時代の思考様式から脱却できず、ずいぶん昔の自分の実績を武器にして21世紀の日本国民に対して影響力を行使しようとしている。このタイプの不実な人間は、今後100年いや、今後数世紀にわたる日本の国民と国土、国防のために、むしろ有害です。一刻一秒をあらそって論壇から完全に撤退することだけが、自分の義務だと自覚すべきでしょう。

しかし、65歳を越えた寺島が論壇から撤退する義務を自覚できていたならば、この2013年に上記で紹介したような馬鹿げた意味不明な言論を視聴者国民に対して吐くことはなかったはずですね。彼は自分の義務を自覚できないとみなす必要があるかもしれません。そして、これから先も、さらに自分が高齢になっていくのに、有害でしかない言論をしつこく吐き続け、追加的なカネや名誉を手にしようとし、影響力を行使しようという醜悪なエゴイズムを発揮するかもしれません。それならば、論壇の人々だけでなく、一般国民によって、有害でしかない奇妙な論をやめさせるように、そのつど強力に反論していく必要があるでしょう。円猿が上で展開した反論などは、その一つにすぎません。おかしいと考える日本国民が、そのつど強力な反論をつくりあげていただきたいと思う次第です。
posted by 警鐘凡打 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする