2017年10月18日

保毛尾田騒動にもの申す


最近、地上波テレビの番組で登場する「保毛尾田」について、「保毛尾田」を登場させたテレビ局と特定の団体の間で問題が起きているようです。 ことの成り行きを見ると、テレビ局側が一定の非を認め、表現に注意する旨を表明したようです。この問題について語りたいと思います。

ブログの読者の中に、書き手が同性愛者かどうか気にする人がいるでしょう。全くそうではないと断っておきます。ただ、以下の意見は、同性愛者の論者であれ、そうでない論者であれ、双方の立場に立つ人間が考えうる内容、書きうる内容を想定して書いています。

まず最初に、テレビ一般の傾向を強く批判することにします。1つめは、おもしろければ何をやってもゆるされるというタイプの打算的な傾向への批判です。

人をおもしろがらせてやれば、何をやってもいい。

その番組を見ている視聴者を笑わせれば、それでよい。

こういう考え方です。世間には、保毛尾田を「糞つまらない」と思い、視聴しない人々が大量に存在します。または、その時間に、意に反してその番組を視聴させられている人も一定数存在する。30年前と比較して、テレビ番組の視聴ははるかに個人限定のものになっていますが、100%そうなっているわけではない。今でも、他の家族の嗜好に振り回され、必ずしも見たいわけではない番組を一緒に見せられる人は存在します。

これに対して、番組をおもしろがって見ている視聴者は、つまらなければ見なければいいだろうと主張するかもしれない。しかし、見なければ済むという問題ではありません。 テレビ局は、公共性に配慮する義務のある組織です。ということは、10%の視聴率の番組を、その時、その番組を偶然視聴している人々をおもしろがらせてやれば、後は何の問題ないという立場で済む組織ではない。当然のことです。

2つめには、保毛尾田をおもしろがっている視聴者を批判することにします。彼らの少なからぬ部分は、保毛尾田は「キャラクター」であり、すでに過去に確立されたものなのだから、今さら批判されるすじあいはないと意見している。

 「キャラクター」とは何でしょうか? この保毛尾田というのは、同性愛者を戯画化して、笑いの対象にしていることも間違いないでしょう。すべての点でそうだと断定はできないにせよ、一定の範囲で、男性の同性愛者のふるまいを戯画化しているのです。フィクションなのだから、何でも許されると思ったら、大間違いです。

人は、どんな対象でも笑うことができますが、

誰とでも笑えるわけではない。 

この程度の人間としての基本を認識しておらず、「フィクションなんだし、おもろいキャラクターなんだから、笑って何が悪い?」 と開き直っても、それが、社会的な認識として通用するわけではありません。きわめてローカルな言い分にすぎない。 

同性愛者(性的少数者)の

「権利団体が被害者づらをしている」

「被害者づらするな!」 

という主張もなされていますが、

これも論点のすりかえを含む主張です。 

そもそも、加害/被害の問題ではない。

それに、権利団体の人々は、加害者/被害者を決め付けて、被害者に成り切って圧力をかけているわけではない。問題の本質は、表現に一定の配慮をしながら、強い公共性を持つ放送事業を最適化しましょうという話でしょう。

お笑い芸人の「芸」をぜんぜん笑えない人々も相当多いわけで、その一部が同性愛者であるということを受けて、権利団体の人々が代弁者として行動しているだけです。「自分たち被害者の言い分を聞け!」と一方的に主張しているのではない。議論が必要な事象だと判断し、議論をしている。そういう性格があるのです。 

この程度のことを類推できない視聴者は、よほど地上波の弛緩したお笑い芸にひたり切った鈍感な人々なのでしょう。おもしろければそれでいいじゃないか、と言わんばかりです。自分がおもしろいと信じ込んでいる番組に対して、自分が理解できない視角から批判されたら、「弱者のヒステリックな叫びだろう」だの、「被害者ぶってごね得しようとしているんだろう」だのと偏見で決め付けようとする。そういう視聴者ばかりではないと思いますが、偏見で決めつけて気が済む人々は、鈍感なものごとを考えない人々に違いない。

それから、30年前の過去につくられたキャラクターだから、近未来においても、また、その先の未来においても、通用して当然だなどという認識は幼稚もいいところです。

過去に通用した表現だのキャラクターだのを権威化し

未来の視聴者に押し付けるのはナンセンス


でしょう。 「キャラクター」とやらに、おもしろがらせれば問題ないという打算的な考えが入っているかどうかも問題になるでしょう。 もちろん、入っています。 

3つめに、「表現の自由に反する」という主張を批判しましょう。コメディアンが、保毛尾田を演じるのは、表現の自由ではないかという主張です。 これも、1つめの批判と関係しますが、

表現を自由にして、では、何の成果を得るのか? 

ということですよ。それが問題なのです。保毛尾田に関して言えば、保毛尾田というキャラクターを何十年先にも通用させて、大上段に構えた「表現の自由」を確保したとしましょう。 で、いったい何の成果を得るんですか? それに対する答えとしてあるのは、ただ消費される「笑い」を得るだけでしょう。 それとも、価値あるテレビの放送文化を確保すると主張する視聴者がいるでしょうか? おそらく、いないでしょう。 つまり、「おもしろければいい」「おもしろがらせてもらえばいい」「あとは知らない」という無責任な態度の裏で、

表現の自由を行使して、とにかく

自分をおもしろがらせてほしい

と主張しているにすぎないのです。 それなら、別の笑いでもかまわないでしょう。 必ずしも、保毛尾田限定でおもしろがる必要はなかったはずです。他のもっと「おもしろい」、同性愛とは関係ないキャラクターで、おもしろがらせてもらえば、それで問題なかったのではないでしょうか。

保毛尾田を離れますが、最近、別のある発言が話題になったことも知っています。ラスベガスで起きた銃乱射事件について、無抵抗な人を一方的に傷つけようとするのは、「馬鹿かきちがいしかいない」 という発言です。 

この発言は、知的な障害のある人々を揶揄する表現では決してないことは間違いありません。 自分がおもしろがればいいとか、おもしろがらせればいいという打算もないと見ることができるでしょう。この表現について、「不適切な表現がありました」 とテレビ局側がアナウンスしましたが、このアナウンスは、必ずしも必要なかったのではないか、というのがブログ主の意見です。

最後にもう一度。

おもしろがらせれば、ゆるされる

人々をおもしろがらせれば、それでいい

こういう打算を、徹底的に批判しつづける必要がある


でしょう。

うそ臭い方法でおもしろがらせてやろうとする人々に対し

「糞同然につまらないね」 断固、そう主張しつづけます。


芸人だけを批判しても仕方がありません。糞つまらない芸人をはびこらせているテレビ局、その関係者をも断固批判し続ける必要があるでしょう。

一部の視聴者をおもしろがらせれば仕事をしたことになる

と打算しているテレビ局関係者に対しては、もっと今の日本

に必要な仕事をさが吟味した上で、丁寧に番組を作って

放送しろ。そう主張しつづけます。


中には、おもしろがらせればいいのだという打算のもとに、「キャラクター」をわれがちに選択し、実際にはそうではないにもかかわらず、同性愛者を下手糞に演じ続け、カネを手にしている人々もいるようです。実にぶざまな奴らですよ。そういう糞つまらない典型的な「にせもの」を多数飼いならしている地上波のテレビメディアは、最低と言うべきでしょう。

平成29年の日本には、ただつまらない笑いでおもしろがってすごすのではなく、世代をこえて、もっともっと多くの共有すべき情報、知識があるはずです。

ラベル:保毛尾田
posted by 警鐘凡打 at 01:21| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

厚化粧の緑のタヌキを叱る


緑のタヌキと呼ばれつつある、緑がパーソナルカラーの小池百合子という人物がいます。


この人物を、「厚化粧の緑のタヌキ」と呼びたいと思います。


tanuki.png


タヌキは化けてヒトをだまそうとする

という伝承がありますね。

そう、何か別の存在に化けて、人をだまそうとするのです。

ぶんぶくちゃがま(分福茶釜)


では、茶釜に化けて、元に戻れなくなったタヌキが出てきますね。

この厚化粧の緑のタヌキも、この意味では同じなのです。 

「希望の党」などという、まったく新しい政治勢力に化けて、

日本国民をだまそうとしています。


では、実態はどうなのでしょうか。 200人も立候補者を立てる

というような情報が出ており、いったいぜんたい、

誰が立候補者になるのか.... 見ていましたら、なんと、

191人中109人は、元民進党議員だそうです。57%に相当します。


厚化粧の緑のタヌキは、化けても無駄


だということに、われわれ国民は気づきましょう。 

「憲法改正」「集団的自衛権」を規約の中でうたっていますが、結局は、

タヌキの化けの皮をはげば、そこには

大量の無能な元民進党議員


が、税金の掠奪をつづけてやろうとたくらんでいるだけなのです。


「政党論」が必要な時期だとブログ主は思っています。

「政党とは、いったい何か」
「政党の本質は、何か」
「政党が実現することは、何か」

政党のミッションを再定義して、このような不毛きわまりない離合集散、

国民の目を欺こうとする意図が明確な動きを禁止可能にする仕組みを

導入する必要があるのです。 諸外国で、選挙が決まったとたん、いきなり

「解党」する政党など見たことがありません。

ぶんぶくちゃがまの

タヌキの化けくらべの次元


のことを地でやっている。 


選挙のための、その場しのぎの卑劣な行為をやめろと批判すると、多くの議員の人々は、


「国民が愚かだからだ、だまされるんだ」

「政治活動は自由だ」 

「結社の自由だ」 

などと、子供じみたリアクションをするでしょう。

こういう上っ面だけの薄っぺらな反論には、さらに強力な反論が必要です。


はっきりと反論しましょう。 日本の場合はまさに、

政党を、好き勝手に

こわしたり、つくったりする。

この身勝手な政党の操作こそが、

政治腐敗そのものなのです。


つづけます。

わずか、1年、2年前に、その政党が

政治という行為(政局ではない)をやる

だろうと期待して、投票用紙に政党名を

書いた有権者が大量に存在しますね?


政党のぶっこわし、捏造は、有権者たち

の政治参加の権利を、事実上侵害して

いるのです。 結社の自由だ、政治活動

自由だの話の次元ではありません。


国民=有権者の政治参加の権利侵害

の大問題をクリアしてから、「結社の自由」

「政治活動の自由」を主張してもらいましょう。


おそるべき政治腐敗があるような国でも、ここまで、「政党」を恣意的に

操作し、好き勝手に有権者をだまし、税金を簒奪しようという反社会的行動

を野放しにしているところはありません。 

日本の多くの国会議員という存在は、国民の政治参加の権利を侵害しつつ、

国民の財産を掠奪する自分に酔っているも同然です。 

新しい政党を否定しませんよ。

むしろ新たな政党は必要です。

国民の意志を受けて新しい政党をつくれる

要があります。ただ、そういう新しい勢力

は、すでに議員として既得権益化している

人々、過去に既得権益者で、また既得権益

に預かろうとしている人々、そういう人々とは

無縁に作ることができる仕組みが必要でしょう。

それが存在しないことが問題なのです。


もう数十年、政治屋連中のどこまでも恣意的な「政党」の改廃を見せつけられ

てきた国民は、これも日本の風物だ...  とあきらめているかもしれませんが、

決してそれではいけません!

これから先、日本でこのよう な無意味な「政党」の改廃を徹底的に終わらせる

必要があるのです!


日本国民が必要とする「政治」の実現にほとんど関係のない、

「政党」関係のダマシの入った動きを、国民は必要としていないのです。

当選した人々が、国会内で作業する際に、「会派」として結びついたり

離れたりすればよいだけです。

「政党」を単なる選挙管理集団だとみなすような、不毛をきわめた

動きは、徹底的に禁止することが必要です。

「政党」なら、一定の理念と足並みをそろえた行動によって、日本国民と

地域のための「政治」を実現する行動者集団として一貫した動きをとり、

選挙に際して政党は、解体する

のではなく、なおさら結束して、

国民に支持を訴えるべきなのです。


支持率が低かろうが高かろうが、

そうすべきです。


もしもそれができないのなら、

もともと、「政党」ですらなかった

ということです。


つまり、民進党、その前身の民主党は、元々「政党」ではなかったということです。

おそろしいことです。 実質的に政党でもなんでもないくせに、国民の財産を

掠奪し、国民の政治参加の権利を一方的に侵害していたわけです。


そして、厚化粧の緑のタヌキはと言えば、この、


元々政党ではなかったような団体の連中を引き入れ、立候補させ、またもや

国民の資産を簒奪させようとしている。


厚化粧の緑のタヌキは、


徹底的に批判される必要があるということです。


都知事ならば、すべての都知事としての公務をキャンセルすることなく

すべて実現し、都政に集中すべきなのです。


posted by 警鐘凡打 at 22:05| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

ヒューストン101(神戸のお店)の歌


昔、神戸に行ったときに靴を買ったことがありまして、そのときに、「ヒューストン101」というお店にいったんです。
そのときに、当時としては、ちょっとがんばった感じのラップ調の歌がしきりに流れていました。ヒューストン101の歌だと思います。
「歌」というには、とても短いのですが、その歌詞を今でも覚えております。 


とんで しびれて エキサイティング  ♪

ファッションスペース  ヒューーストーーン ♪

101 !

神戸の中心 三宮

スポーツワールド サーティースリー

ヒューストーーン ...   ヒューストーーン ...

101...



posted by 警鐘凡打 at 13:30| Comment(0) | そのほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

日本版「ファーストレディ」のおかしさを強く批判する


今回は、現首相の夫人のあり方について、かたります。
日本の首相の夫人をいつから「ファーストレディ」と呼称するようになったのか、それは分かりません。しかし、以下に説明するように、アメリカの「ファーストレディ」と日本の「首相夫人」は本質的に異なるのです。決して、日本の首相夫人を「ファーストレディ」として認知することはできません。

一つ、おことわりがあります。今回、現首相については、かたりの対象とはしません。安倍首相の政策についても多くの疑問点や議論すべき点はありますが、それとこれとを混同させるのはよくありません。夫人について、非常に目に余ることが多いので、この人物の行為について強く批判したいと考えています。ブログ主は、このかたりによって倒閣運動に加担しようとしているのではありません。その点を誤解されないようにしていただきたいと思います。政治の外の話です。


さて、本題です。

かつて、安倍夫人ほど、総理大臣の夫人の中で露骨に自身のキャリアに夫の地位を利用した人物はいないということです。ひと言でいって、前代未聞の変人でしょう。そう認識して差し支えないと思います。

もともと「ファーストレディ」というのは、アメリカ発の概念です。ヨーロッパではありません。アメリカの場合は「大統領夫人」であることに注意しましょう。元首の夫人ということです。「首相夫人」ではないのです。

アメリカがよくて日本がよくないと言うわけではないにせよ、アメリカの場合は、夫が大統領になる以前から、その夫人は多くの社会活動に従事し、職業人としてもプロとして活躍している場合がほとんどです。
 より決定的なのは、夫その人が候補者になる大統領選挙でも、夫人の人となり、公式の場での演説、そして社会活動が大きくものを言うという点です。つまり、私人として夫を支えたからという理由ではなく、「公人」としての発言と行為によって、配偶者の大統領選出の功労者の一人となる。それがアメリカのファーストレディなのです。

では、日本の「首相夫人」の場合は、どうでしょうか。 もちろん首相になる前から、私生活でたいへんなご苦労があり、さまざまなサポートをされているでしょう。それは、アメリカの場合と同様です。しかし、決定的な違いがあります。議員内閣制の日本において、夫の首相選出プロセスには、日本の(未来の)首相夫人は公人として関係がありません。日本の場合も、首相になるための選挙がありますが、実質的に政党内でやる選挙なのです。安倍氏の場合なら、自民党という党内における総裁選挙です。この総裁選挙において、夫が(首相という地位につながる)候補者となり、そして選挙に立ち、選挙をたたかう一連のプロセスにおいて、夫人の公人としての活動は物を言いません。
 それに、夫が「公人」になるため(首相になるためではない)の何らかの選挙において、夫人が多少の影響力を持つとしても、せいぜい地元での選挙ていどのものです。衆議院選挙のようなケースでも、候補者の夫人が、選挙での勝利のために決定的な力を持つことはまずないでしょう。

以上のような背景がありますので、アメリカの「ファーストレディ」を日本の首相夫人にかぶせるのは、100%無理があります。単に首脳会談、サミットなどの個別のケースで、首相に同行した場合に、アメリカの「ファーストレディ」の同格者として扱われることもある人物。それが、日本の「首相夫人」なのです。日本にいるすべての時間、すべての機会において、日本の首相夫人が「ファーストレディ」と同等・同格なのではありません。この点を決して誤解してはならないでしょう。

ところがです。

安倍昭恵氏の場合は、首相夫人になったということで、「ファーストレディ」に意図的に成ろう、成りきろうとしたのです。

彼女は、いきなり感満開で自分のキャリアづくりに精を出し、さまざまな公的な場において、「夫とめざすところは同じだ」などと比喩でしかない曖昧な言葉で公人として振る舞い、自分をもちあげてくれる国民を自分の全人格を絶賛している支持者であるかのように勘違いしているように見えます。言語道断というほかないでしょう。 


首相夫人が、公人として

「夫とめざすところが同じ」なら、

それはそれで結構です。

その主張を実現すべく、

国民の審判を得るべく、

立候補して当選するところまでやり、

公人=政治家として活動してください。


それくらいの本気度がないのならば、

「夫と同じ」などという比喩的な表現で

地域の有権者や国民をあざむくのは

絶対にやめるべきです。


公人格として夫がちゃんと政治家になり首相になっているわけですから、共通する価値観や思想があるのなら、公人として政治家になっている夫に託せばよいだけなのです。

もちろん、マスメディア等で発言しなくとも、私的な集まりなどで議論したり意見交換する程度なら問題ないでしょう 

あるいは、公人としてではなく、私人として好みや思想が似ている場合、私人としてめざすところが同じである場合を考えましょう。この場合は、なおさら大きな理由によって、夫人は公的な場で黙るべきです。 プライベートな事柄なわけですから。

最近報道されたことに、首相夫人に付き人が5人ついていたのを、3人に減らしたというものがありました。この「付き人」は、首相ではなく、首相夫人の意思と要望にもとづく人員配置に違いありませんが、きわめて大きな疑問があります

そもそも、国家公務員を、国民の審判を経ていないくせに「公人」としてふるまおうとする首相夫人のためにサポートさせることが可能なのでしょうか。 そうは思えません。即刻、ゼロ人にすべきでしょう。ケースに応じた個別の身辺警護のみで十分のはずです

国民の公の金を、プライベートな関係(=夫婦)に拡張し、総理では全然ない人物のキャリアづくり支援に充当するといのは異常なのです。国民の同意なく、それが行われている。 5人であろうと3人であろうと、異常です。 これは、恣意的な官房費の流用に相当しますし、一歩間違えば、公金横領に相当します。 官房費の使途や人員配置について、禁止条項を設けて、このような運用を禁止すべきです。

首相夫人の「付き人」を官房費などでまかなうことが許されている現運用は、法にもとづいて即刻変える必要があります。もし、現在の仕組みを容認するとしましょう。首相になったとたん、「めざすところは同じ」と主張する血縁者のキャリアづくり支援が可能な体制がどんどん進むとしましょう。すると、夫人だけでなく、もっと別のプライベートな関係(例えば、親子だとか甥姪の関係)に拡張し、平気で、首相の身内のキャリア作り支援に公的な資源が利用される道筋がつくられかねないということです。 血縁が遠くなればなるほど、実質的な公金横領になることが理解されるでしょう。

ブログ主は、首相夫人の人格を非難しているわけではありません。あくまで行動と価値観を強く非難しているのです。 官房付きの役人、官房費の適正な使用を検討し、必要に応じて法的な規制を加え、未来の首相夫人の方々のすぐれた行動規範を確立すること、そして、よりよい前例を吟味して作ってほしいと考えています。

 基本的に、首相の家族に対する「警護」は必要です。首相在任中に、その家族が私人としての活動をさまたげられたり、身の危険にさらされてはならないでしょう。しかし、「お付の職員」は間違いなく不要です。国民の民意を経ないおつき職員の恣意的な新設はやめるべきです。

日本の首相夫人には、何ら法的な根拠はありません。法的な根拠がない一私人に、権力(に相当するもの)を与えることはできないし、国民の同意を経ていない公的資金を与えることもできません。そして、一般国民とは比べものにならないような強い発言権を、その人物に与えることも非常に危険なことです。


posted by 警鐘凡打 at 06:27| Comment(0) | かたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

上原多香子の不倫関連報道と公序良俗


今回は、かなり卑近な事柄についてぼやきます。ネット上ではかなり話題になっている世間を驚かす事件であるにもかかわらず、不思議なことに、地上波テレビ等ではほとんど取り扱われていない事例です。この社会的な関心を喚起しているにもかかわらず、「報道しない」姿勢を示しているマスメディアの矛盾について触れましょう。これが本題の一つめです。

二つめの本題として、今回のケースが、多くの人々が「公序良俗に反している」と判断する社会的な事例であることに言及します。男女の関係は、本来、個人的なことがら、プライベートなことがらですが、ときとして、同時代の多くの人々の倫理的判断を試金石にかけるような事例が起き、社会的な関心を喚起するケースがあります。今回の上原多香子の不倫がらみの一件はそれに相当します。公序良俗にむすびつけて、マスメディアがしっかり報道すべきだという本質を指摘します。

彼女に「私刑」を望むのではありません。そこを踏み外してはまずいと思います。公序良俗に反しているという判断と、彼女に法で定められているかいないかを問わず刑罰を与えることは別です。単なる一組の夫婦の個別事例とみなすことはできない、そういう社会的事例だということです。それでも、上原多香子のような既婚女性が、現代の日本に潜在的に多数いたとしたら、放っておくわけにはいかないと考える人も少なくないでしょう。ブログ主もその一人です。

ですが、「放っておくわけにはいかない、ではどうするか?」は別の話とします。これは、さらに一歩踏み込んだ先の議論領域なのです。上原多香子の事例については、世間の議論はまだそこまですすんでいないように見えます。あるいは、そこまで踏み込んだ議論に発展しないまま、人々の関心は終息してしまうかもしれない... とすれば、なおさら、マスメディアが公序良俗にむすびつけた本物の議論や報道を提供すべきである。 それが、ブログ主の主張です。

では、概要を冒頭で簡単に整理した上で、すすめましょう。

上原多香子とその夫は、30代の夫婦でした。夫が自殺したのが3年前だったのですが、夫自身の不妊と妻の側の自由奔放な不倫が原因となって、夫の自殺につながったということが、3年のときを経て明らかになったのです。遺書の重要な部分が明らかになっていなかったために、夫の自殺が妻の不倫を苦にしたものであったことが、世間に知られてきませんでした。夫の遺族がそのことを公表したのです。細かい事実については、ネット上で確認してください。


最初に、自殺の原因を、「妻の不倫」に一元化できないということを指摘します。

一人の人間が自殺の道を選ぶとき、そこには必ずその人の生き方や性格というものがあります。妻の不倫、即、自殺という反射的な行動だったならば、そこには夫であった人の深い悩みやその人独自の生き方を見出すのは、むしろ難しくなります。

自殺する人の人間としての「弱さ」を指摘する人も一般にはいますが、そんなことはありません。その人の生き方とその人独自の性格、そして、長い悩みのプロセスとその人の強い意志があったのです。まずは、それを認める必要があります。決して、妻の一過性の不倫によって、即、自殺の全原因とすることはできません。確かに、夫であった人は、妻の行動にたとえようのない深いこころのきずを負ったことは想像にあまりありますが、妻の不倫行動を、自殺の全原因に還元することはできないのです。


その上で、今回の本題の一つ目です。なぜマスメディアは報道しないのか。


すでに結婚しているのに、婚外で男女関係をつくった事例のうち、男性がそういう行為をした場合は、いくらでも報道されてきましたが、女性の場合には、報道が控えられるという傾向があります。これをマスメディアの矛盾ととらえている人も多いでしょう。もう少し具体的に書きます。

一夫一婦制をとびこえて無軌道に異性と性関係になる事例のうち、男性が一夫一婦制を踏み外して、妻のこころをどこまでも傷つけて平気なさまは、いくらでも報道されてきたのに、女性はそうならないのです。上原の例がそれを証明しました。この報道の違いには理由があると考えています。

女性が一夫一婦制を踏み外して、(多数の)男性と性関係になり、夫のこころをどこまでも傷つけるのは、「女性の性を解放すべきだ」「女性が自由恋愛をとことんたのしむべきだ」「弱い側に置かれてきた女性を守るべきだ」という、べき論をマスメディアが打ち出すことを従来から要請されているために、報道すらできなくなっているのではないか。それが理由だと考えられるのです。

今回の事例では、夫であった人が妻の不倫関係に深くなやんだ末に自殺に至っており、事態はとても深刻です。でもマスメディアの論理からすれば、妻=女性の無軌道な性関係によって、傷ついた一人の夫が自殺までしてしまったことはかわいそうだとしても、このような事件によって、女性の解放と女性の自由恋愛を後退させてはいけないのです。この妻の不倫を苦にした一人の夫の自殺は、女性の解放と女性の自由恋愛のためには、しかたのない犠牲だとマスメディアは踏んでいるということです。

仮に、今回の事件で、妻=女性の上原多香子の個別行動だけでなく人格に踏み込んで、その非道徳性や共感の欠如などをとことん非難する報道にマスメディアがコミットしたしましょう。そのような報道は、いわゆる戦後日本で手放しに肯定されつづけてきた「自由恋愛」に対する非難、あまりに自由奔放な性関係を何十年もつづけてきて、「どこがいけないの?」と開き直るような女性(潜在的な人口は相当多いでしょう)への非難につながるわけです。

報道の多い少ないは別として、本当のところ、「女性の性の解放」「女性の自由恋愛」を地でいく人々、マスメディアに踊らされて、自由恋愛に打ち込んで楽しんでいると信じ込んでいる人々は、あまりにも無神経で、異性にほとんどまともに共感できない人々でしょう。ここまでくれば、男性も女性も関係はありません。もちろん、そういう無神経で異性に共感できない人々どうしが、自由気ままにセックスに打ち込んでいるのならかまいません。しかし、実際には、片方がそうであっても、もう片方が全然そうではない場合がいくらでもあります。 そういう場合に、ひたすらきずつくのは、無神経ではなく、真摯に共感しようと努める側の人なのです。

「性の解放」「自由恋愛」がマスメディアにしつこく言われ続ける時代は、まだまだつづいています。露骨な性描写などで、肉体関係を前面に出して、男女の性関係を楽しめ、楽しめとしつこく説きすすめている女性向けの雑誌などが後を絶たないのです。 

ここで立ち止まって、「何かおかしくないか?」「とりあえず相手を探して自由恋愛でセックスして、で何になるの?」と根本的な疑問を大事にすることです。なかなか難しいかもしれませんが、そういう根本的な問いをもとに、友人知人、兄弟姉妹、年長の人々と議論することも考えていいと思います。別にそう考えたからといって、何もわるいことはありません。 とりあえず、若いときの何年かに自由恋愛だのセックスだのに邁進したとしても、誰でも例外なく、それが性に合うかどうかは分かりません。犠牲にするものが多すぎて、そんなことは続けたくないと認識する人も大勢いるのです。注意したいのは、そういう人の意見は多数派とみなされていません。現状では、マスメディアに完全にかき消されるということです。

やや話がそれましたが、女性の側から、自由恋愛のおかしさ、女性解放のおかしさについて批判的な意見や議論がよほど大きな動きとして出てこない限り、マスメディアの報道の傾向に変化は出てこないでしょう。

けっしてマスメディアは自己批判をしませんが、実際には、このマスメディアの「女性の権利」を推進すると見せかけた軌道が、おそらく、日本の現代のもっとも大きな問題、少子化の問題にもつながっているというのが、ブログ主の考えです。

二つめの本題です。公序良俗です。

多くの良識ある日本の人々は、いくらなんでも、今回の上原多香子の行動を「公序良俗に明らかに反する行き過ぎたものだ」と判断しているように見えます。「こんな既婚女性がいくらいたって、別にかまわない」そう判断する人は、ほとんどいないでしょう。結婚のもっともミニマムな信義に反しているからです。そのような事象として、マスメディアは正面から大真面目に報道すべきでしょう。

ただし、最初から特定の人や、特定のメディアが上から目線で「公序良俗」を振りかざすのは権威主義ととらえられるでしょう。一定の時間を経て、人々からさまざまな視点で多くの意見が寄せられ、同時代の日本の公序良俗に反していると総合的に判断される場合には、しっかりと論拠を説明した上で、「公序良俗に反している」と断じるべきです。そういうスキルを発揮できるマスメディアが現代の日本にあるとは思えませんが...

もちろん、今回の上原多香子の報道に徹すべきだなどと誰も主張しません。男性についてもしかりです。男性が一夫一婦制をとびこえて、カネにものを言わせてハーレムのような人間関係をつくろうとしたり、五体不満足下体大満足のような特殊ケースも含め、とてつもない自分の性欲を満たしてやろうと専心したり、昔のスタイルで蓄妾にいそしんだりする事例についても、ぐだぐだと際限なくワイドショー報道をつづけるのではなく、一般の人々の良識ある意見に耳を傾け共感した上で、本質をつき、「公序良俗に反している」とびしっと批判するメディアが出てきてほしいものです。

その際、マスメディアの姑息なやり方を強く批判しておきましょう。

マスメディアに同調する安易な傾向を持つ人々の意見を見せ球に使うことは厳禁であり、駄賃や日当を与えてマスメディアの主張したい意見を言わせるのはやめるべきだということです。これらの行為は、本来ならば犯罪ととらえるべきです。地上波のテレビに登場する「一般人」をよそおった人々が偏向した思想や立場の持ち主であるケース、やらせで言わされているケースがあまりにも多いことに、日本の視聴者はとことん辟易しているのです。

言論の自由を主張したり、民主主義を主張したりする前に、そもそも、こうした「やらせ」にもとづく民意の偽装を金輪際やめる必要があるでしょう。民意の偽装を根絶するための内部法規をがっちりつくり、かつ、徹底した運用をマスメディアがやるか、もしくは、自ら堂々と、国民と国民の代表に呼びかけて、立法府に「マスメディアのやらせ禁止」を法制化してほしい、自分たちはそれを運用して言論の自由を守る自信があると潔く申し出るべきでしょう。

「日本に民主主義が根付かない... 」などと得心したように主張する人々が何十年前から絶えたことがありません。マスメディアもそういう人々を喜んで登場させます。だが、民意を偽装しておいて、なにが民主主義でしょうか。その本質を徹底的に追及しなければならないでしょう。 

民意を偽装している張本人が、いくら、「民主主義が根付かない」だの、「民主主義がない」だの主張してもむなしいだけですし、他人にそう主張させても、さらにむなしいのではないでしょうか。 彼らの「民主主義が根付かない」は、単に、「マスメディアの思い通りに日本の人々が動いてくれない」というローカルなぼやきにすぎないのではないでしょうか。彼らの特殊でローカルなぼやきを一般化しようとする動きこそが、民主主義に反しているのではないでしょうか。


ラベル:公序良俗
posted by 警鐘凡打 at 01:04| Comment(0) | ぼやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

にせもの

以前、ごくごくふつうに口にすることができていた言葉があります。

「あれは、にせものだね」
「あいつは、にせものだ」

これです。

たしかに、「ひと」と「もの」を同じ意味で、にせものと判断できるわけではありません。
「ひと」を「にせもの」と呼ぶのは、ある種、比喩的な表現です。

ただ、「ひと」について言えば、「ほんもの」と「にせもの」を分け隔てる境界線は
きわめて明瞭なのです。いや、明瞭なはずなのです。こう言っておきましょう。

「ほんもの」は、社会的に価値のあることや、日本という国や地域に必要だと信じて何十年も活動する「ひと」、
「にせもの」は、自分のどんな行いに価値があるかを自身で分かっておらず、吟味できておらず、
とにかく自転車操業のように、自分の単なる飲み食いのため、あるいは、自分がそれだけのカネを
受け取る価値があるかどうか吟味することをサボりながら、とにかくカネのために活動する「ひと」です。


これらの「ひと」は、まったく別なのです。

わざとらしく、人にウケているように見せかけたり、
わざとらしく、おもしろいものに見せようとしたり、
わざとらしく、意味のあるように見せかけたり、
わざとらしく、知りもしないことを知っているように見せかけたり、
わざとらしく、権威者ぶってすごんでみたり、
わざとらしく、全然そうでない自分をつくろって、人をだましたり、

... 等々


そういうのは、とにかく、すべて「にせもの」と言い切ることができたのです。

「にせもの」として、人をだまし、人から時間やカネを巻き上げる。
やめた方がいいことです。本人が気づいた時点で、即刻やめた方がいいことです。

マスメディアに自分が露出することで、自分がカネを手にする一方で、いかに多くの
人々を不快にさせ、多くの人の時間を浪費させているか推察することなく、30年も40年も
放置し、老いていく。その場限りで、「あとは野となれ山となれ」。
論外です。

自分の名前のタグをつけて、多額の税金を引っぱってくることとか、ポストを占有し続ける
ことが自分の価値だと信じて、いったい、自分がそれだけの価値を提供できているか
どうかをいっさいい吟味しないまま、老人になる。定年になっても、必死に似たようなポスト
を占有しよう、月給取りを続けようと血道をあげる。ほとんど何らの疑問も持つことなく、
そんな行動をとることができる。
論外です。

自分の生活がかかっているかどうかなんて、関係ありません。
「にせもの」に成りきるのはやめて、ほかのもっとましなことを開始
するだけでいいはずです。

ところが、ここ最近は、「にせもの」をリアルに演じている人がしつこくいつまでもやめない。

他人をだましていることを知っていて、いつまでも「にせもの」をやりつづけるのです。
それをわかっていて、「にせもの」として堂々といばっているのです。


ちまたの人々の間でも、「にせもの」を口にする人がいなくなりました。


そのことが、不思議でなりません。

「みんな、それぞれ、くるしい事情があるんだよ」
「みんな、食っていかなきゃいけないから、しかたないんだよ」

..... そんなふうに、分別くさく主張する人々もいます。それも分かっています。

しかし、事情があろうが、自分の生活をささえる必要があろうが、「にせもの」が、1人、また1人
と世の中に割り込んでくる。すると、彼らにとても大きなコストがかかっているということを知るべきです。

「にせもの」には、とても大きな社会的コストがかかっているのです。
それを知る必要があります。

そして、その一方で、

「ほんもの」

つまり、社会的に価値のあることや、日本や地域に本当に必要な人のためにかける
ことのできるコストは、奪われている。これも事実です。
「ほんもの」に必要なコストが奪い取られ、「にせもの」が運用されているのです。


しかし、一般に人は、こう考えています。

「ほんものは、誰にでもすぐ分かるからだいじょうぶだ」
「ほんものは、どっちみち、かならず世の中に影響を与えることになる」

しかしですよ。

「にせもの」が不当に場所を占有しつづけ、「ほんもの」を登場させる場所を
ことごとくふさぎ、封じ込めているのに、なぜ、「ほんもの」が分かるのでしょうか?

「にせもの」の当事者たちが、にせものであることを知りつつ、姑息に隠しつづけて
いるのに、いったいいなぜ「ほんもの」が分かるのでしょうか?


はなはだ疑問ですね。


「ほんもの」がたしかに存在しているのに、「ほんもの」にふさわしい場所を与えられて
いなかったら、それは、人々にけっして知られることがないでしょう。
人々の認知される機会がなければ、「ほんもの」は存在しないも同然なのです。


多くの人々は、

「自由競争を勝ち抜いて、自分の目にするところに躍り出ている人々がほんものなんだろ?」
「ほんものなら、表に出てくるはずだ。自分の目にするところに出てこないとおかしいだろ?」
「自分の目にするところに出てこないんなら、ほんものじゃないんだろう?」

こう考えているのです。 
ちょっと考えてみましょう。この認識がいかに傲慢で、いかに危ういものであるかを。 

多くの人々は、自分が日常生活の中で目にする、新聞・テレビ・ラジオの記事や
プログラムの中に、「ほんものなら、出てこいよ」と言っているも同然です。

あるいは、新聞・テレビ・ラジオが、吟味した上で、確実に「ほんもの」を登場
させていると信じて疑わないかのような態度です。

実際は、マスメディアが圧倒的多数の「にせもの」を人々に押し付け、そして、
「ほんもの」と「にせもの」を吟味していない、区別もしていないことは明白です。

「ほんものなら、日々の生活のなかで、きっと自分はそれを目にしているはずだ」
このような認識を持つ人々は、自分が日々、目にし耳にするものの中で
「ほんもの」をすくいとっていると信じ込んでいるのですが、その認識は完全な誤り
であることが分かります。

そもそも、どこまでも受身でいて、マスメディアの流すまんまを視聴しているだけなのに、
なぜ、「ほんもの」が彼らの面前に登場するでしょうか? するわけがありません。

「自分だって、ほんものとにせものくらいの見分けはつきますよ」

人は必ずそう主張します。 一人の例外もなく、人間ならば、そう主張するでしょうね。
誰だって、「にせもの」を手につかまされていると知ったらいきどおるでしょうし、
自分が価値を信じたものが、「にせもの」だと言われたら怒り心頭でしょう。


でも、実際のところ、一人一人の人間が持っている、その自信たっぷりの
「真贋を見分ける目」によって、いとも簡単に「にせもの」が成立し、無意味に、
そして高コストに、「にせもの」が幅をきかせているのですよ。逆説的ですが、
そうなのです。 

「ほんものにせものを見分けているぞ」と自信を持って主張する人が、一人また
一人と蓄積することで、あろうことか、「にせもの」が高コストにやしなわれている。
そして、大量のにせものが日本と地域のお荷物になっているのです。

ここがスタート地点なのです。つまり、自分では「にせものではない」と信じて
必死につかんでいる「にせもの」を、真剣に吟味にかけて、「にせもの」だと判定すること、
「にせものは、しょせん、にせものだろ」と言い切ること。
そして、それ=にせものを放擲すること。これがスタート地点なのです。



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